2022.07.19
日本アメリカ演劇学会 第11回大会プログラム
時:2022年8月27日(土)
会場:オンライン(Zoomを用いたリアルタイム開催)
※参加方法の詳細については、本プログラム末尾をご覧ください。
大会テーマ:パンデミックとアメリカ演劇
8月27日(土) 午前の部:9:00~12:00 / 午後の部:13:00~17:00
午前の部:9:00~12:00
開会の辞 会長 黒田 絵美子
研究発表
司会:大阪大学(非) 穴田 理枝
1.暴力の舞台化
――Topdog/Underdogにおける2つのLincoln殺害
大阪大学(院) 松岡 玄
司会:奈良大学 古木 圭子
2.A Moon for the Misbegottenにおける個と共同体について
大阪大学(院) 永田 優衣
司会:都留文科大学 竹島 達也
3. オニールとケルト
――ユーラシア的想像力の淵源を探る
拓殖大学 大森 裕二
午後の部:13:00~17:00
シンポジウム 13:00~16:00
総会 16:20~17:00
シンポジウム: 感染・変容・復元 ――アメリカ演劇とパンデミックの諸相
司会 大阪大学 岡本 太助
パネリスト 立教大学 舌津 智之
パネリスト 愛知学院大学 藤田 淳志
パネリスト 東洋大学 佐藤 里野
研究発表
司会:大阪大学(非) 穴田 理枝
1.暴力の舞台化
――Topdog/Underdogにおける2つのLincoln殺害
大阪大学(院) 松岡 玄
演劇と暴力は非常に親和性が高いと言えるだろう。俳優が自らの身体を用いて観客の目の前でパフォーマンスをする演劇というメディアにおいて、舞台上で繰り広げられる暴力は観客に大きく作用し得る。これはSuzan-Lori Parksの劇作においても言えることだ。暴力と歴史記述を自身の劇作の大きな特徴とし “Violence is what happens in plays” と語るParksは、大統領の暗殺、母による子殺し、逃亡奴隷の足の切断、南北戦争への従軍などと様々な歴史、あるいは文学において繰り返されてきた暴力を舞台化し、白人の歴史と文学カノンへの黒人テクストの刷り込みを狙う。Parksにピュリッツァー賞をもたらしたTopdog/Underdog (2001)も、こうしたParks的な特徴が色濃く表れている。兄のLincolnと弟のBoothという、アメリカの歴史上最も有名な大統領暗殺事件にちなんで名づけられた兄弟を登場人物とする本作は、BoothによるLincolnの射殺に至るまでの兄弟の争い合いを描き出す。
本作において付け髭と帽子と白塗りを用いてエイブラハム・リンカーンの仮装をし、金銭と引き換えに暗殺場面を演じることを生業とするLincolnは、暗殺者を演じる客から繰り返し空砲を込めた銃で撃たれ死を演じる。これはParksのThe America Play (1994)においてThe Foundling Fatherが生業とした職でもある。多くの研究者はParksが提唱する劇作法 “Rep & Rev” (反復と改訂)を踏まえて、これら2つの作品におけるリンカーン暗殺を模倣したパフォーマンスはアメリカの歴史を反復しつつ、そこに黒人のテクストを刷り込むと論じる。こうした効果は、リンカーンに扮したThe Foundling Fatherが入れ代わり立ち代わり登場する客に撃たれるThe America PlayのAct 1において顕著である一方、本作ではリンカーン暗殺の再現パフォーマンスはLincolnとBoothによって練習という形で行われるものの繰り返し反復されることはなく、BoothとLincolnの兄弟を中心とした家族間の愛とライバル心に焦点が当てられる。そして彼らの家族ドラマはBoothによるLincoln殺害という悲劇的なクライマックスへと行き着く。
本発表では、リンカーン暗殺の模倣劇と弟Boothによる兄Lincolnの殺害という本作の2つのLincoln殺害、2つの暴力の舞台化に着目し暴力とそれを用いて行われる歴史表象の関係性を解き明かす。そして、演劇における暴力のもつ可能性について論じるとともに、本作における演劇、歴史記述、暴力、クライマックスの依存的な関係を例証することを試みる。
司会:奈良大学 古木 圭子
2.A Moon for the Misbegottenにおける個と共同体について
大阪大学(院) 永田 優衣
A Moon for the Misbegotten(1947)はユージン・オニールがキャリアの終盤に完成させた作品である。本作品にはコネチカットの農地で生活するアイルランド系アメリカ人のホーガンとその娘ジョージーが登場するが、彼らは民族的なマイノリティとして描かれ、住居もその場所にそぐわない外観であることが強調されている。しかし親子は外部の社会に馴染めないことを悲観しておらず、むしろ自分たちの特異性を強みにして地元の富裕層と対等に渡り合う。
今回の発表ではA Moon for the Misbegottenにおける個人と共同体との関係について他作品と比較しながら論じる。オニールはキャリアを通じて所属する場を失い孤立した人々を多く描いたが、本作品では他者と結ばれないことの悲劇性が強調されるのではなく、登場人物がその状況を受け入れて個人として生き続ける様に焦点が当たっているといえるだろう。こうした特徴は、同じく後期の作品であるHughie(1958)においても確認することができる。この作品では、登場人物2人の意思疎通がほとんど成立せずに個が際立つ一方で、それぞれが希望を取り戻していくという喜劇的な結末を迎えるのである。以上のような観点から分析を行い、オニールの晩年の作品における登場人物の個の在り方や他者とのつながりについて考察したい。
司会:都留文科大学 竹島 達也
3. オニールとケルト
――ユーラシア的想像力の淵源を探る
拓殖大学 大森 裕二
『地平の彼方』の冒頭、黄昏時の太陽を眺めるロバート・メイオーの傍らには新緑の林檎の樹が一本立っている。病弱だった幼少期、地平の彼方に「善なる妖精の棲み処」を夢想していたと述懐するロバート。ケルトの神話・民間信仰では、沈みゆく太陽のように真っ赤な林檎は異界への通路を象徴する果実とみなされ、西方にあるとされる幸福な異界は、林檎の楽園と呼ばれた。濃厚なケルト的象徴性に加え、ここでもう一つ興味深いのは、航海を間近に控えた現在のロバートが、地平の彼方に「東洋の神秘と魅力」を思い描いている点である。仏教(浄土真宗)における西方浄土の概念が典型的に示すように、東洋でも太陽の沈む西の方位は霊的異界に通じている。
『地平』同様に日没の場面で始まる『楡の木陰の欲望』も、ケルト的モチーフに満ちている。かつてエベンの母の亡霊が出現した場所が台所であった事実は、炉の火と牧畜の守護神ブリギッドを連想させる。また、冒頭のト書きで「不吉な母性」を想起させる「疲れた女性達」のようであり、「雨が降ると涙を流す」と描写される舞台上の二本の楡の木もケルト的である。最初の女性が楡の木から生まれたという神話は世界各地にみられるが、本作品の楡の木は、特に楡を「よく泣く樹木」とみなしたドルイドの伝承を踏まえたものに違いないからだ。一方で、これら二本の楡の木には、キャボット農場の繫栄を陰で支えて死んでいった二人の女性達の霊が宿っているとも考えられるが、ハーンの『乳母桜』や世阿弥の『松風』のように、樹木を依り代とする女性の霊は日本でも馴染みあるモチーフである。そもそも精霊の現れる懸木としての意味合いをもつ能舞台の鏡松が着想のヒントになったとも考えられ、赤ん坊誕生の祝宴の席で老齢のキャボットが披露する空虚なダンスは、翁舞のパロディにも見える。
楡の木と対をなす象徴的アイテムとして配置されるのが、キャボット家の男達が農場の周囲に積み上げた石垣である。古来、アブラハムの大岩やインドのリンガのように、石や岩は男性的な力能を象徴することが多いが、本作品における楡の木と石垣の対立的象徴性を理解する上で参考になるのが、日本列島各地に残る石神の多くがその周囲に立つ緑滴る樹木に守られている事実である。対立的/相補的な一対の舞台装置で世界の根源的生成の原理を象徴的に表現しようとするオニールの着想は、インド=ヨーロッパ的というよりはむしろ、より広範なユーラシア的古層文化に根差しているように思われる。キャボットが安らぎを求める納屋の牛達の存在も、牛を聖獣とみなすケルトの伝統を想起させる一方で、十牛図等において人格の霊的発展を導く東洋的心牛のイメージとも共鳴する。 以上のような観点から、本報告では『楡』を中心にオニール作品におけるケルト的/ユーラシア的意匠について考察する。
シンポジウム
感染・変容・復元 ――アメリカ演劇とパンデミックの諸相
司会 大阪大学 岡本 太助
パネリスト 立教大学 舌津 智之
パネリスト 愛知学院大学 藤田 淳志
パネリスト 東洋大学 佐藤 里野
2022年のトニー賞発表で盛り上がりを見せるアメリカ演劇は、ようやくコロナ禍以前の活況を取り戻しつつある。演劇という活動そのものが停止され、規模を縮小され、そして変化を余儀なくされた過去2年あまりの経験は、多くの人間による緊密な協力関係に立脚し、文字通りの3密を抜きにしては成立し得ない演劇のもつ構造的な脆弱性(vulnerability)と、それにもかかわらず柔軟に形を変えながら存続していこうとする復元力(resilience)を、私たちに実感させて余りあるものだった。現今のコロナ・パンデミックはその意味において未曽有の惨事であるわけだが、その反面、アメリカ演劇とパンデミックの関係は今に始まったことではなく、これまでに様々な形で繰り返されてきたパンデミックは、アメリカ演劇史に暗い影を落としているとも言える。例えば、Mark Honigsbaum, The Pandemic Century: One Hundred Years of Panic, Hysteria, and Hubris (Norton, 2020)(マーク・ホニグスバウム『パンデミックの世紀――感染症はいかに「人類の脅威」になったのか』鍛原多惠子訳、NHK出版、2021年)によれば、スペイン風邪以降の100年間のアメリカ合衆国の歴史は、感染症や伝染病の爆発的拡大との闘いの歴史であり、ウィルスが宿主の身体に変容を生じさせるのと同じように、パンデミックの経験はアメリカの社会、さらには国家身体そのもののあり方を大きく変えてきたのである。本シンポジウムではまずアメリカ演劇とアメリカ社会の双方におけるパンデミックの影響に着目し、「感染・変容・復元」といったキーワードによってアメリカ演劇とアメリカ社会を再考することを試みる。このいわば「パンデミックの詩学」としての演劇研究アプローチは、とりもなおさず「パンデミックの政治学」としてのアメリカ研究にも接続するのであり、「社会を映し出す鏡」としての演劇という紋切り型の表現に、新たな陰影を与えるものとなるだろう。
本シンポジウムのもう一つの柱は、パンデミックとアメリカ演劇というテーマに対し、学術研究と批評がどのようなアプローチをとることができるのかについて、ケーススタディーを提示しながら議論を進めるというものである。今年に入って、Barbara Fuchs, Theater of Lockdown: Digital and Distanced Performance in a Time of Pandemic (Methuen Drama, 2022)、Kendra Claire Capece and Patrick Scorese, eds., Pandemic Performance: Resilience, Liveness, and Protest in Quarantine Times (Routledge, 2022) など、現今のパンデミックにおける演劇の苦境とそれを打破しようとする試みに関する学術的研究も続々と発表されつつある。その多くは演劇の現場で活動する人々の声を拾い上げ、それを記録することに主眼が置かれており、必ずしも批評的距離が確保されていない速報性重視のものである。しかし例えばFuchsの場合は、オンライン演劇など事例を記録するだけでなく、それらの具体例から帰納的に包括的な論点を浮かび上がらせ、コロナ禍において演劇に課せられた制限はむしろ演劇のあり方についての再考を促し、新たな形態の演劇の可能性を切り拓くきっかけともなることを指摘している。このように、「パンデミックとアメリカ演劇」の研究は、パンデミックを題材とする演劇作品の研究やパンデミックによる演劇への影響の研究にとどまるものではなく、「隠喩としてのパンデミック」、「世代間継承とパンデミック」、「人種とパンデミック」といった、まだ十分に開拓されていない研究領域にも踏み込んでゆくようなものとなる。言うなれば、アメリカ演劇とパンデミックの歴史を正確に記述する事実確認的(constative)研究に根差し、新たな研究アプローチを創出する行為遂行的(performative)研究の方向性を示すことが、本シンポジウムの目的の一つである。
シンポジウムでは、まず司会者より上記のものを含む最近刊行された研究の紹介を兼ねテーマについての解説を行い、時間がゆるせば、昨年から立て続けに映画化されたミュージカル作品(In the HeightsとWest Side Story)を例にとり、シンポジウムの主な論点をリストアップする。それに続き、おおむね作品の発表年度の古い順に各パネリストの報告を行い、パンデミックとアメリカ演劇の関係性の継時的変化を跡付ける。参加される皆さんそれぞれが、ご自身のコロナ禍での経験を持ち寄り、議論に参加していただけることを期待している。
(岡本 太助)
隠喩としてのパンデミック――1950年代アメリカ演劇と「蔓延」の強迫
立教大学 舌津 智之
今日のパンデミックをめぐる問題系は、マッカーシズムの1950年代にその構造的なルーツがあるように思われる。国外から忍び込んで「蔓延」するものに対する恐怖と反感を煽る赤狩りの言説は、それ自体、パンデミック的属性を帯びているからである。「チャイナ・ウィルス」という言葉が端的に示すとおり、冷戦の緊張とはむろん、過去の話ではなく、米ソから米中の対立へと形を変えながら、歴史的連続性をもった現在進行形の課題として我々の目の前にある。
マッカーシズムの寓話とみなしうる同時代の演劇作品としては、Arthur MillerのThe Crucible(1953)がすでに広く認知されているが、本発表では、20世紀の南部を舞台とするJerome Lawrence & Robert E. LeeのInherit the Wind(1955)と、Tennessee WilliamsのCat on a Hot Tin Roof(1955)を取り上げる。前者は、1925年のいわゆる「サル裁判」を下敷きに、進化論を封殺する宗教言説の暴力性を描き出した作品であり、ブロードウェイの初演は806公演と成功を収め(ちなみにCatは694公演)、ほどなく映画化もされるなど、当時強い文化的影響力を持っていた。ほぼ同時期に初演を迎えたこれら2作品は、いずれもメディアが行使する浸透力に意識的であり、ラジオ中継される裁判のありようや、ハイファイ音響機器にテレビが導入された家庭の光景が描かれている。また、ホモフォビアが激しかった時代、同性愛とは「天然痘のごとくcontagiousである」との言説も流されており、セクシュアリティの問題を扱うCatはその点、後年のエイズ演劇が可視化する「隠喩としての病」をめぐる主題にも接続されうるだろう。
“America has AIDS” and Fight “the same fucking fights”
――世代を越えるエイズ演劇、パンデミックを経て受け継がれるもの
愛知学院大学 藤田 淳志
1980年代初めから1990年代半ばまでのアメリカのエイズ・エピデミックはエイズ演劇というジャンルを生み出すほど、演劇界に大きな影響を与えた。
エイズ禍を舞台にマッカーシズム以降のアメリカ政治を俯瞰したAngels in America(1993)を描いたTony Kushnerは2017年のインタビューで「60歳になっても29歳の時と同じひどい戦いを見ているとは思わなかった」と述べ、エイズ禍とトランプ政権下の戦いを並べた。イギリスのナショナルシアターによるAngelsのリバイバル公演(2018)では、エイズはクシュナーの言う「同じ戦い」への比喩となり、トランプ大統領の師だったロイ・コーンの描写は観客にさらに多くを示唆するものとなった。
Angelsの影響を大きく受け、過去のエイズ禍を現代の「同じ戦い」に接続しようとするのがMatthew LopezのThe Inheritance(2019)である。その中で登場人物の一人はアメリカがエイズ(American Immune Deficiency Syndrome)に罹っていると訴える。
タイトルが表すように本作品の主要なテーマは世代を超えて遺産を受け継ぐことである。エイズ禍を生きた世代から学ぶことは、現代の「エイズに罹った」アメリカを生き抜く上で、戦いに必要なコミュニティをどう保っていくについての課題を示す。
Inheritanceはブロードウェイ全体のコロナによるシャットダウンより前に予定より早く公演終了を決めていた。ベストプレイを含む4部門でトニー賞を受賞したものの、劇評は先に公演したロンドンに比べ生ぬるいものであった。この一因として挙げられるのはヒスパニック系のLopez が白人が主要キャストの物語を描いたことへの躊躇である。MeToo運動やコロナ禍に再び活発化したBlack Lives Matter運動を通して、演劇の舞台にも公正なリプリゼンテーションを求める要求はますます大きくなっている。その影響についても考察したい。(括弧内はブロードウェイ初演年)
レイシズムというウィルス、奴隷体験というセラピー
東洋大学 佐藤 里野
映画監督のSpike Leeが2020年6月のBBCのインタビューで「コロナ以前に人種差別というパンデミックがあった」と発言しているように、アメリカ演劇のいくつかの作品は、実際コロナ禍よりも前に、蔓延する人種差別を社会の疫病として描き出している。2018年に初演されたJeremy O. HarrisのSlave Play、および2019年のSuzan-Lori ParksによるWhite Noiseでは、文脈やニュアンスは異なるものの、ともに“virus”という言葉で人種差別を形容している。すでに複数の批評でも言われているが、どちらの作品も奴隷制に根を持つ人種差別の影響が現代社会にいまだに続いていることにあらためて批判的な目を向けており、共通して使われている「ウィルス」という比喩は、「見えないものに目を向けよ」という現状認識の喚起ともなっている。そして現在のコロナ・パンデミックが明らかに人種問題の様相を呈していることを踏まえれば、これらの演劇作品は潜在的にパンデミックについての演劇であったと考えることができるかも知れない。
本発表では、両方の作品の中で「ウィルス」に対する治癒行為として取り入れられるパフォーマティブな奴隷体験に焦点を(White Noiseにやや比重を置きつつ)当てる。Slave Playでは、白人パートナーとの関係に問題を抱える黒人たちが“Antebellum Sexual Performance Therapy”と呼ばれるセッションに参加し、White Noiseでは、警察による理不尽な暴力で傷を負った黒人アーティストが、白人の親友に頼んで自らを「奴隷」として買ってもらう。奴隷制を病の源と位置付け、過去の歴史を遡ることで黒人としての自己のアイデンティティや現状認識を新たに得ようとする、いわゆる “Middle Passage Epistemology”(Michelle M. Wright 2015)に基づいているように見える「セラピー」は、登場人物たちに気付きをもたらす一方で、様々な副作用をもって彼ら・彼女らの歴史や現状への認識を批判的にあぶり出してもゆく。本発表では、この奴隷体験パフォーマンスの諸相から、2つの演劇作品で問われている歴史の捉え方がいかにして人種差別というパンデミックに抗し得るのかを考察する。
<参加申込方法>
※参加ご希望の方は、こちらの申込フォーム(https://forms.gle/v78YRcZStJSLycGB6)にご記入のうえご送信ください。
※事務局にてお申込内容を確認のうえ、大会用のZoomミーティングへのアクセス方法等をお知らせします。(大会5日前を目処に、お申し込み頂いたメールアドレスにアクセス方法の詳細をお送り致します。)
申込期限は大会1週間前の8月20日(土)とします。
期限を過ぎてのお申込みについては、対応できかねる場合がありますので、ご了承ください。
<参加費用>
※今大会はオンライン開催となりますので、参加は無料です。
※会員以外の方のご参加も歓迎いたします。
ご不明な点がありましたら、学会事務局まで
メール(事務局:nihon_america_engeki@yahoo.co.jp)でお問い合わせください。