お知らせ The American Drama Society of Japan
各号・著作紹介学会概要大会報告



お知らせ

2019年7月16日
 日本アメリカ演劇学会第9回大会プログラム

日時:2019年8月24日(土)・25日(日)
会場:クロスウェーブ梅田
住所:〒530-0026 大阪府大阪市北区神山町1-12
TEL:06-6312-3200(代表)/06-6312-3230(宿泊予約専用)
サイトURL:https://x-wave.orix.co.jp/osaka/

ミュージカル研究

第1日 8月24日(土) 受付 14:20〜14:50 (会場 中研修室)
※会場の詳細は施設入口に掲示されます
  講演・研究発表 15:00〜17:30
司会:中央大学 黒田 絵美子
講演:岡本 太助(九州大学)
 ミュージカル研究序説――コミュニティ形成と人種表象から「読み直す」アメリカン・ミュージカル

研究発表:辻 佐保子(早稲田大学坪内博士記念演劇博物館招聘研究員)
 制約という跳躍板
 ――Betty Comden & Adolph Green作品を貫く劇作法とそのミュージカル史上の意義


  懇親会 18:00〜20:00 (会場 4階パーティー・ルーム)

第2日 8月25日(日) (会場 中研修室
  シンポジウム 9:00〜12:00(前半)/13:00〜14:00(後半)
  「21世紀ミュージカルにおける生(Life)

司会兼パネリスト:  広島経済大学  森  瑞樹
パネリスト:  北九州市立大学  齊藤 園子
   高知工業高等専門学校  渡邊真理香
   愛知学院大学  藤田 淳志
   大阪大学  貴志 雅之

  総会 14:00〜15:00

講 演

司会 中央大学 黒田 絵美子

ミュージカル研究序説――コミュニティ形成と人種表象から「読み直す」アメリカン・ミュージカル
九州大学 岡本 太助

 高級文化と大衆娯楽、社会風刺と拝金主義といった相反する要素が交錯する地点に形成されてきたミュージカルは、そのハイブリッド性においてきわめてアメリカ的なジャンルであると言える。それは時代ごとに変化するアメリカの自己像を映し出す鏡であり、また“The American Way of Life”の理想像を生産・流布することでその自己像を創出するメディアであった。20世紀半ばのアメリカで、Richard RogersとOscar Hammerstein IIの共作から生まれたOklahoma!Carouselといった古典作品は、総合芸術としてのアメリカン・ミュージカルの完成形と見なされている。今日アメリカン・ミュージカルの歴史的変遷とその文化的意義について考察するためには、RogersとHammersteinが創り出したミュージカルの文法が継承あるいは改変・更新されてきた過程を批判的に検証する必要があるだろう。本発表では、上述の古典作品を起点に、West Side StoryからA Chorus LineAvenue QWickedIn the HeightsそしてHamiltonへと至るブロードウェイ・ミュージカルの系譜をたどることで、アメリカの自己像の変化がミュージカルにおいて生じた変化と連動してきた様を跡付けたい。
 議論を進めるにあたっては、まずアンサンブルの活用がミュージカルにコミュニティ創出の場としての機能を与えたとするScott McMillinの議論を手掛かりとする。戯曲・歌・ダンスなどの要素を有機的に組み合わせることによって、ミュージカルの形式上の統合性が生みだされ、その結果そこに一種の共同性が生じるわけだが、McMillinはむしろそれらの要素が統合されず、互いに差異をはらむものとしてミュージカルの内に混在していると捉える。この観点を敷衍して、ミュージカルを構成する要素の「混ざり合わなさ」を、アメリカにおける人種的対立を構造的・形式的に反復するものとして考えてみたい。例えば、Rogers/Hammerstein作品が、意識的にも無意識的にも「白い」アメリカをロマンティックに謳いあげ、アメリカとそのミュージカルの繁栄のための道(つまりThe Great White Way)を切り開いたとすれば、West Side Storyはその白いアメリカの他者である民族的マイノリティの若者に仮託して(あるいは擬装して)、アメリカ社会の統合を訴えかけ、アメリカン・ミュージカルの不滅の金字塔をうちたてた。しかるに、20世紀終わりから現在にいたるミュージカルは、そのジャンルとともに形成されてきたコミュニティ神話を脱構築し、混ざり合わないものの共存という新たな共同性のモデルのうえに自らを再構築していると言える。
 以上のような視点から、ミュージカルを統合された一つの芸術形式として想像したいという欲望は、アメリカが同じように統合された一つの社会であってほしいという希望と、様々なレベルで結びついていることを例証したい。またこの発表により、ミュージカル研究という学会初の企画に際して、議論のために共有すべき基本的概念や方法論を提示できればと思う。

研究発表

司会 中央大学 黒田 絵美子

制約という跳躍板――Betty Comden & Adolph Green作品を貫く劇作法とそのミュージカル史上の意義
早稲田大学坪内博士記念演劇博物館招聘研究員 辻 佐保子
 セリフ・歌・ダンスという3つの異なる表現モードが作品に盛り込まれる。これがミュージカルの表現形式としての基本的性質であると共に、根本的な制約でもある。特に楽曲の挿入は、ミュージカル最大の見せ所であると同時に、劇に亀裂をもたらす異物でもある。ミュージカルの歴史とは、「異物としての楽曲」を劇中でどのように機能させるかという劇作法の模索の歴史と解釈できる。
 1920年代前半までの初期ミュージカルでは、ドラマと楽曲は基本的に「乖離」していた。ところが、1920年代後半からは、ドラマと楽曲を緊密に連携させる方法論=「統合」の確立が試行錯誤され、1943年のOklahoma! を境に「統合」は劇作の基本方針として定着した。他方1960年代半ば以降、ドラマと楽曲の衝突と相対化を通じて「乖離」を強調する作品が制作された。翻って1980年代以降には、始終奏でられる音楽が展開を統御するという、別の形での「統合」を目指す作品が席巻する。
 ミュージカルの劇作法の歴史は、ドラマと楽曲の「統合」と「乖離」との間で揺れる歴史である。振り子の動力は、「異物としての楽曲」をいかに作品に位置づけるかという問題意識と言える。このように概観した時、特異な存在として浮上するのがBetty Comden & Adolph Greenである。彼らは1940年代半ばから1990年代初頭にかけて、演劇・ラジオ・映画・テレビで脚本と歌詞を執筆したミュージカル作家である。彼らの作品では常に、楽曲の異物としてのありよう自体を劇的に機能させるというオルタナティブな方法論がとられる。本発表では、プロットの展開やキャラクター描写に直接的に寄与しないように見える楽曲が、その異物としてのあり方ゆえに劇的機能を発揮するというComden & Green作品のメカニズムを考察する。具体的には、On the TownBells Are RingingI’m Getting MarriedOn the Twentieth Century を対象とする。楽曲の位置づけや歌の機能の比較分析を通じて、ミュージカルの表現形式としての制約を跳躍版としていくComden & Greenの方法論の意義を検討することを目指す。

シンポジウム

「21世紀ミュージカルにおける生(Life)」

司会兼パネリスト:  広島経済大学  森  瑞樹
パネリスト:  北九州市立大学  齊藤 園子
   高知工業高等専門学校  渡邊真理香
   愛知学院大学  藤田 淳志
   大阪大学  貴志 雅之

 昨今のアメリカ舞台芸術界に受賞というひとつの側面から臨むならば、ミュージカル形式を採用する作品がその基軸として煌々と照らされていることは否定のしようもない。所謂、言語的解釈を超える音楽を流麗に操るエンターテインメント・ショー。その特殊な文学空間においては、怪物や動物は言わずもがな、まさに文字通りの多様な生(Life)の在り方が舞台上で躍動する。ここに鑑みれば、「ミュージカル」という言葉を、21世紀現在においてもなおアメリカ社会が切望し続けている多様性というロマン的姿のメタファーとして捉えることも可能となるだろう。
 一方、文学研究のフィールドにおいては、ミュージカル作品はフラグシップであるとは言い難く、その後景に影を潜めてきた。もちろん本学会においても、ミュージカルをテーマに据えたシンポジウムが初めての試みであることは言うまでもない。しかしながら、多様性という結節点において、ミュージカルとアメリカ社会とが緩やかながらも確かなつながりを見せるいま、文学の一形式としてのミュージカルの可能性に改めて真摯に向き合う必要もあるだろう。
 そこで本シンポジウムでは、各パネリストが物語の内外を問わず、多様な視点から「生(Life)」の在り方についての思惟を巡らせ、21世紀ミュージカルの姿の一端を明らかにしてゆく。「ミュージカルとは何か?」という命題を追究しようとする壮大な試みではないものの、この企画が文学研究の細くとも新たな水脈を引く端緒となれば幸いである。
(森 瑞樹)

「革命」の影響――Les Miserablesの受容に関わる一考察
北九州市立大学 齊藤 園子
 The Musical: A Look at the American Musical Theater (1995)においてRichard Kislanは、アメリカン・ミュージカル産業が縮小の憂き目に合っているとし、その主要因の一つとして、“The British Invasion”を挙げている。Les Miserablesも、そうしたミュージカルの一つとして挙げられている。フランスの作家、Victor Hugoによる1862年の長編小説に基づくミュージカル作品は、ロンドンのウェストエンドと米国のブロードウェイの双方で、記録的な長期興行をみた作品の一つである。同作品のミュージカル版は、1980年に仏語版がパリで上演されたのが最初で、その後、イギリスのプロデューサー、Cameron Mackintoshが中心となって英語版が制作され、1985年にロンドンで初めて上演された。ブロードウェイでの初演はその翌年のことである。
 英国と米国の双方で好評を博したとはいえ、両国での受容には温度差があるように思われる。英国に比して、米国での興行は断続的である。また、英国生まれと米国生まれのミュージカル一般に通じる相違点や、Les Miserablesのウェストエンド版とブロードウェイ版で上演されるナンバーや場面の違いが指摘されている。本発表では、こうした諸点を考察しながら、大西洋両岸における同ミュージカルの受容の相違点とその系譜をたどることを試みる。
 2012年には、英米の合作によるミュージカル映画が発表されて話題となった。Hugo作品の映画化というより、ミュージカル版の映画化作品である。米国、英国、オセアニアの俳優を起用している点で、英語圏の国際的な作品と言ってよいであろう。Les Miserablesの受容と展開の流れは、英語圏社会の現状と今後を考察する一契機にもなると思われる。

ミュージカル作品の寿命――The Book of MormonAvenue Q
愛知学院大学 藤田 淳志
 辛辣な風刺で知られるテレビアニメSouth Park (1997-)の作者、Trey ParkerとMatt StoneはAvenue Q (2003)を見たとき、プレイビルのクレジット欄で作者のRobert Lopezが自分たちに感謝を述べているのに気づいた。3人は意気投合し、The Book of Mormon (2011)が生まれた。
 LopezとJeff MarxによるAvenue QWicked (2003)に勝ってトニー賞ベストミュージカルを受賞した後ロングランを続け、2009年からはオフに劇場を移して、今年5月までの興行を終えた。ジョージ・W・ブッシュからオバマ、トランプの3代の大統領の間上演されたことになる。一方The Book of Mormonはオバマ時代に始まり、トランプ政権の今もブロードウェイだけでなく、アメリカ国内各地、ロンドンなど海外の都市でも興行を続けている。
 本発表では、皮肉に富んだユーモアでPC (Political Correctness)を笑い飛ばすこれら2作品の受容の変化について考察する。Avenue Qの人種や同性愛を笑うメッセージはブッシュ時代には革新的、刺激的で、オバマ時代には社会が大きく変化してそのインパクトは弱まった。しかしトランプ就任後にはどうだったのか。“Everyone’s a Little Bit Racist”と開き直るキャラクターたちを前にした観客の爆笑の意味の違いについて考える。The Book of Mormonは初の黒人大統領オバマ政権下で、マイノリティに対する社会の寛容度が大きく進化し、その方向性が不可逆だと思われていた中で公演が始まった。しかしトランプの当選以来、観客は同じミュージカルを見て同じように笑っているのだろうか。
 興行だけでなく劇評でも大成功したこれら2作品のエンターテインメントとしての、また社会的メッセージをもった芸術作品としての寿命について考えてみたい。

父と娘をめぐる素描――Fun Homeにおける生と性
高知工業高等専門学校 渡邊 真理香
 2013年にオフ・ブロードウェイ、2015年にブロードウェイで開幕したFun Homeは、Alison Bechdelによる自伝的グラフィック・ノベルを原作に、Lisa Kronの脚本と作詞、Jeanine Tesoriの作曲によって作られた。
 原作者を投影した主人公Alisonが父Bruceの死の真相を求める回想劇という形を取る本作品は、回想劇にありがちな欺瞞に満ちた視点や隠蔽体質を許容しない。彼女は、父が死んだ年と同じ43歳を迎えたことをきっかけに、9歳の自分(Little Alison)と大学に入学したばかりの自分(Medium Alison)を舞台上に呼び起こし、彼女たちの経験を目の当たりにすることで、自分と父の関係を理解しようと努める。
 この親子は共にセクシュアル・マイノリティでありながら、異なった生を歩んできた。Alisonは、自分がレズビアンであるとカミングアウトしたことが、クローゼット・ゲイであった父を自死に追いやったのではないかという疑問を抱いている。つまり、この作品は家族という小さなコミュニティ内での行き違いだけでなく、セクシュアル・マイノリティの当事者同士の不完全な相互理解も描いているのである。ミュージカル作品では、クロージング・ナンバーが登場人物全員で歌われることがよくある。そこには、自分と他者の差異を受け入れ、相互理解の上に共同体を形成し、社会的抑圧に抗うというクィア・ポリティクス的価値観がある。そのことを踏まえ、本作品のクロージング・ナンバーが3人のAlisonだけで歌われることの意味について検討したい。
 以上のように、本発表では回想劇とミュージカルという構造とクィア・ポリティクスの功罪を念頭に置きながらFun Homeを考察する。「ゲイのもの」だと言われてきたミュージカルという舞台芸術が、どのような展開を見せているのかまで考えることができれば幸いである。


拡張する物語空間の生――Next to Normalの自己言及的側面から
広島経済大学 森 瑞樹
 双極性障害。Next to Normal (2008) の主人公家族のDianaが患うこの疾病は、本作を駆動させるひとつの明示的なモチーフにすぎない。例えば、虚実や時間軸上の二つの定点といった物語内容に関するものから、作品を豊かに彩る楽曲同士の音楽的な対話関係に至るまで、この作品では二極間のたゆたいが幾層にも織り合わされ語られてゆくことになる。
 これらのなかにおいても、一際の特殊性を顕示しているものは「存在/非存在」の二項関係であろう。例えばGabeは‘i’m alive’において、身体性も含めたこの二項に関する自己言及的(もしくは行為遂行的)なリリックを歌い上げる。Gabeは、そうであるがゆえに、単なる登場人物以上の存在へと自身を位相転換することになる。すなわち、コペンハーゲン解釈さながら、想像の息子(非存在)であることと、実体のある役者(存在)であることのふたつの可能性が同時に存在していることが前傾化されてゆくのである。言い換えるならば、Next to Normalの物語空間は演者の身体、更には観客の認識をも包摂しながら拡張してゆく。
 そこで本発表では、本作キャラクター達の上記のような自己言及性に着目することで、物語空間の生(Life)の諸相を探ることから始める。そうすることで、物語(芸術)と身体との新たな関係の地平を提示することを目指してゆく。そして更には、本作がミュージカルという形式であることの意義への考察も論及可能となるだろう。

心の病、その脱スティグマ化に向けて――21世紀アメリカン・ミュージカルの一つの方向性
大阪大学 貴志 雅之
 全米そして世界で、精神疾患、心の病はこれまでになく大きな社会問題として注目され、精神衛生の改善に向けた取り組みが行われている。にもかかわらず、双極性障害・うつ病・社交不安障害・統合失調症に対する社会の無理解と、精神疾患をスティグマと同一視する社会的偏見は依然として根強い。こうした態度と意識・無意識は、病に苦しむ個人と家族、親しい関係にある人々をさらなる苦境へと追い込む。それは人と人との関係を蝕み、共同体と社会からヒューマニティを奪う脅威となる。
 こうした状況のなか、21世紀に入り、アメリカ演劇の世界で、心の病を中心的テーマとしたミュージカル作品がこれまで以上に上演され、ピューリッツァー賞、トニー賞をはじめとする賞を受賞する高い評価を受ける作品が現れている。しかし、なぜ心の病に苦しむ個人と家族、彼らに関わる人々を巡るストーリーがミュージカルとして制作され、人々の心を打ち、大きなヒットとなって高い評価を産むのか。しかも、心の病を描くミュージカルには死が伴うことが少なくない。心の病と死の影、そしてミュージカルとの親和性とは何か。
 本発表では、夭逝した息子の幻影に囚われ続け、双極性障害を病むDianaと家族を描くNext to Normal (2008)、そして社交不安障害を抱え、同級生の自殺を機に自らの嘘によってさらなる苦境へと追い込まれていく高校生Evanの姿を描くDear Evan Hansen (2015)を取り上げる。二作を中心に、心の病と精神衛生の課題を描くミュージカルの現代性と意義、新たな可能性を考える。

※会員以外の方のご来聴も歓迎いたします。参加希望の方は学会事務局まで電子メールでご連絡ください。

2019年6月26日
 訃報
 2019年6月24日に田川弘雄先生(大阪外国語大学名誉教授)がお亡くなりになりました。当学会の前身である全国アメリカ演劇研究者会議の創設メンバーのお一人であり、かつては現会長の貴志雅之先生の前任として、大阪外国語大学のアメリカ演劇ゼミで後進の育成に尽力されました。当学会はもとより、日本におけるアメリカ演劇研究に多大な貢献をされた先達の偉業を偲び、心よりご冥福をお祈りいたします。

2018年9月13日
 日本アメリカ演劇学会お知らせ

*2018年第8回大会報告:
 2018年第8回大会は、「エドワード・オールビー研究」をテーマに、8月25日(土)・8月26日(日)の両日、ルブラ王山にて開催されました。研究発表要旨など詳細は「大会報告」欄をご覧ください。
 本学会の前身である全国アメリカ演劇研究者会議の第1回テーマもオールビーだったそうですし、21世紀になってからも一度テーマとして取り上げられました。このように頻繁に特集が組まれてきたことからもオールビーの人気の高さがうかがえますが、その作品は、今あらためて読み返してみても新たな発見や驚きに満ちています。

第8回総会――次期役員選挙と次回大会テーマ・時期・開催地の決定について:
 大会二日目シンポジウム終了後の総会では、2017年度の会計報告・承認、次回大会のテーマ・時期・開催地の決定を経て、次期役員選挙の開票が行われました。開票の結果、次期役員は以下の通り総会の場で承認され、本人の承諾を得て決定されました。

日本アメリカ演劇学会役員(2019年4月1日〜2021年3月31日)
会   長:  貴志 雅之 (大阪大学)
副 会 長:  黒田絵美子 (中央大学)
評 議 員:  舌津 智之 (立教大学)
   竹島 達也 (都留文科大学)
   戸谷 陽子 (お茶の水女子大学)
   古木 圭子 (京都学園大学)
   山本 秀行 (神戸大学)
編集委員:  岡本 太助 (九州大学)
   黒田絵美子  
   舌津 智之  
   古木 圭子  
   山本 秀行  

 なお、事務局幹事、顧問、監事の人選につきましては、評議員会と会長、副会長に委ねられます。全役員の構成につきましては、次期役員任期開始までにあらためてお知らせいたします。
 次回大会は、2019年8月24日(土)・8月25日(日)に大阪で開催されることになりました。大会テーマは「ミュージカル研究」(仮)とし、アメリカの舞台芸術・エンターテインメントについて考えるうえで避けては通れないこのジャンルについて、様々な視点からアプローチする予定です。奮ってご参加ください。研究発表申し込みやシンポジウムについてのご提案は随時受け付けていますので、学会事務局または代表幹事岡本太助までメールでご連絡ください。なお、大会1日目の研究発表は自由テーマとしますので、大会テーマ以外の内容での発表も可能です。

*機関誌『アメリカ演劇』の発行と原稿募集:
 『アメリカ演劇』30号(ジャンルを超えるアメリカ演劇特集)の発行に向け、編集作業を進めております。諸般の事情により、前回は発行を取りやめることとなりましたので、今回は2号分の合併号となる予定です。
 次号『アメリカ演劇』31号(エドワード・オールビー特集掘砲慮狭討睚臀犬靴討ります。大会での発表者およびシンポジウムのパネリストからの投稿はもちろんのこと、それ以外の会員の皆様からの原稿もお待ちしております。特集以外の内容の原稿につきましても、アメリカ演劇に関する論文、上演レヴュー、書評なども掲載してゆく方針です。詳細は以下の投稿規定をご参照ください。投稿をお考えの方は、その旨を事務局または代表幹事岡本太助まで事前にメールでお知らせください。

『アメリカ演劇』投稿規定
1. 投稿論文はWordの電子ファイルとして作成し、電子メールに添付して本部事務局に送付のこと。
2. 内容  特集作家に関する未発表の研究論文(和文)。ただし、特集作家以外のアメリカ演劇に関する未発表の論文、エッセイ、記事も可。
3. 枚数  原則としてA4判用紙に縦書きで30字×30字とし、20,000字以内(後注、文献一覧を含む。)
4. 体裁  注は後注とし、本文の終わりにまとめ、引用文献一覧を付す。引用文は原文ではなく、和訳を記載する。外国の書名・作品名は和文で表記し、初出の箇所で和文の後に括弧をして原名を書く。その他書式の細部については、『MLA新英語論文の手引第6版』(北星堂)に従う。
5. 原稿の採否および掲載の時期は編集委員が決定する。
6. 採用論文の執筆者は原則として『アメリカ演劇』当該特集号を20部買い上げる。
7. 校正は原則として2回とする。
8. 宛先  日本アメリカ演劇学会事務局(E-mail: nihon_america_engeki@yahoo.co.jp)。件名は「『アメリカ演劇』原稿」とすること。
9. 締切は毎年7月31日(事務局必着)とし、事務局からの受信確認メールをもって受理されたものとする。応募原稿と略歴をそれぞれWordの電子ファイルとして作成し、電子メールに添付して学会事務局に提出すること。
※依頼原稿については、この限りでない。
(制定日2010年8月1日、改定日2012年8月1日)

2018年6月20日
 日本アメリカ演劇学会第8回大会プログラム

日時:2018年8月25日(土)・26日(日)
会場:HOTEL ルブラ王山
住所:〒464-0841 名古屋市千種区覚王山通8-18
TEL:052-762-3151(総合)/052-762-3105(宿泊)
サイトURL:http://www.rubura.org/

エドワード・オールビー研究

第1日 8月25日(土) 受付 14:20〜14:50 (会場 ホテル地下1階かきつばた)
  研究発表 15:00〜17:30

司会:愛知学院大学 藤田 淳志
1.西村瑠里子(大阪大学・院)
 オールビー劇と動物――The Zoo Storyにみる疎外する社会と孤独
2.岡裏 浩美(福岡工業大学短期大学部・非)
 Death of a Salesmanとニューヨークの自然


  懇親会 18:00〜20:00 (会場 ホテル地下1階はなのき・かきつばた)

第2日 8月26日(日) (会場 ホテル地下1階かきつばた)
  シンポジウム 9:00〜11:30(前半)/13:00〜14:00(後半)
  「Edward Albeeの詩学」

司会兼パネリスト:  九州大学  岡本 太助
パネリスト:  大阪大学(院)  村上 陽香
   大阪大学  森本 道孝
   大阪大学  貴志 雅之

  総会 14:00〜15:00

研究発表

司会 愛知学院大学 藤田 淳志

1.オールビー劇と動物――The Zoo Storyにみる疎外する社会と孤独
大阪大学(院) 西村瑠里子
 The Zoo Story (1959)をもってEdward Albeeは不条理演劇の旗手としてアメリカ演劇の世界において鮮烈なデビューを果たした。一作目でありながら、そのモチーフや問題意識のなかには後の作品にも通ずるものが見受けられる。また、晩年、“Homelife” (2004)というPeterについて描かれた第一幕が足され、At Home at the Zoo (2009)としてThe Zoo Storyが再び書かれたことからも、本作の持つ重要性がうかがえる。
 本作は、「動物園に行ってきたんだ」というJerryのPeterへの唐突なセリフで始まる。Peterは、出版社に勤め、家庭を持ち、社会規範に従って生きるごく一般的なアメリカの中産階級の男だ。一方、JerryはPeterとは対照的に、社会の底辺層をあらわすようなアパートで独り暮らす、社会から疎外され、孤独にさいなまれる存在である。Jerryとの会話に巻き込まれ、Peterは次第に、それまで意識することすらなかった問題を認識することになる。
 本発表では、作中に散見される動物描写に着目し、Albee劇における動物表象について考える。まず、Jerryとアパートの犬および住人たちとの関係に注目し、Jerryがいかに社会から疎外され、どのような闇を抱えているのかを分析する。ここで、Albeeの動物に対する見解において人間もまた一種の動物としてとらえられていることを考慮する。The Zoo StoryAt Home at the ZooにおけるPeterに注目し、動物や家族に対する彼の関わり方を分析することにより、Peterの人間性や問題点を浮かび上がらせる。最後に、Jerryの語る動物園での物語そしてエンディングに改めて注目し、まとめとしてThe Zoo Storyにおける「動物園」の意味を再考することを試みたい。

2.Death of a Salesmanとニューヨークの自然
福岡工業大学短期大学部(非) 岡裏 浩美
 Arthur MillerのDeath of a Salesman(1949年)において、自らの命を懸けてまで金銭的な成功を確立しようとする主人公Willy Lomanは、アメリカ社会に蔓延する成功神話や、50年代の大量生産消費社会と結びつけて論じられることが多い。しかし、本発表では、Willyを、彼の暮らす自宅周辺(自宅のあるブルックリンと対岸のマンハッタン)の自然環境とその変化に関連付けて考察していく。人里離れた緑あふれる西部や中西部の森や荒野を扱った作品とは異なり、大都市ニューヨークを舞台にした本作品では、その自然環境が注目されることは少ない。しかしながら、幕開け早々、疲れて帰宅したWillyが熱く語る、郊外や自宅周辺の昔の自然を懐かしむ台詞に始まり、自殺間際の必死の種まきシーンに至るまで、一貫して、Willyには金銭的な成功とともに、緑豊かな自然に対する執着も強いことが顕著に示される。
 こうしたWillyの自然に対する視座は、例えば、憧れの兄Benが確立したアナクロニスティックな西部開拓時代の成功神話と結び付けられ、自然やその資源を自由に搾取する人間中心の自然観を強調しているかに見える。あるいは、引退後の田舎生活を夢見るWillyには、西部の牧場を転々とする息子Biffへも継承される、都市や支配的な文化から離れた牧歌的生活への憧れ(パストラリズム)の側面も感じる。しかしながら、本発表では、Willyが固執する自然とは、単に緑豊かな不特定の自然環境ではなく、あくまでも自らが居住し所属するニューヨークという、「場所の感覚」を伴った自然観であることに注目する。
 高層化や都市化に伴う人口増加、大量消費社会や郊外化の中で変わりゆくニューヨークと、その自然環境との関係性の中で改めてWillyを考察することで、大都市を舞台とし、また、戦後の好景気に沸くアメリカ経済が拡大へと邁進する中で描かれた作品であっても、既に人間と自然とを同じ生態系の枠組みの中で捉え、自然(環境)破壊を批判するエコクリティシズム的な視座が読み取れることを分析していく。

シンポジウム

Edward Albeeの詩学

司会兼パネリスト:  九州大学  岡本 太助
パネリスト:  大阪大学(院)  村上 陽香
   大阪大学  森本 道孝
   大阪大学  貴志 雅之

 2016年9月16日に88年の天寿を全うしたEdward Albeeは、あらゆる意味においてアメリカ演劇を代表する偉大な劇作家の一人であった。生後わずか二週間で裕福な劇場経営者夫婦の養子となったAlbeeだが、一生の終わりに際しても、死の直前まで未完に終わる戯曲の執筆を続けていたという。言うなればAlbeeはその生涯を通じて常に演劇とともにあったのであり、演劇こそがAlbeeの人生であったのである。作家の死後もAlbeeの人気は衰えを知らず、2018年にもThree Tall Womenのブロードウェイ公演が予定されている。また、2017年には代表的研究者であるMatthew Roudanéによる書下ろしの解説書が出版されるなど、作家の死により一応の完結をみたAlbeeの人生と創作活動に関する学術研究も勢いを増している。本学会においても、その前身である全国アメリカ演劇研究者会議時代から数えて、これまで二度大会での特集企画が組まれており、また学会誌『アメリカ演劇』の記念すべき第1号は、他でもないAlbee特集号であった。Albee研究をめぐる近年の動向をふまえ、また学会の伝統を引き継ぎつつも、本シンポジウムではあえて、「Edward Albeeの詩学」という、これまで大きく取り上げられることのなかったテーマに挑んでみたい。
 The Cambridge Companion to Edward Albeeの序文でStephen Bottomsが指摘するように、Albeeはこれぞという一つの特徴に集約して説明することの難しい、多面的な劇作家である。例えば、一方では常にショッキングな作品を発表しては観客や批評家の我慢の限界を試す異端児Albeeは、他方でアメリカ演劇のメインストリームであるブロードウェイを主戦場として活動を続けてきた、言わばエスタブリッシュメント側に属する作家でもある。Samuel Beckettからの影響が色濃い不条理劇や寓意劇などを得意とする反面、Albeeの代表作の多くはアメリカの中流家庭を題材とするリアリズム劇である。古典文学や大衆文化への言及を随所に散りばめ、観客と読者にも一定の知的洗練を要求する一方で、スラップスティック的なアクションやダジャレに近い言葉遊びを矢継ぎ早に繰り出しもする。捉えどころのない作家といえばそれまでだが、これまでの批評研究の主眼は、カウンターカルチャーとの親和性や左翼的な思想の傾きなどに着目するAlbee劇の政治的読解にあったと言える。これは、同時代的にAlbeeに接してきた批評家の政治的無意識の所産であるとも考えられるが、作家の手を離れた作品がひとり歩きをはじめ、Albeeの劇作の全体像を俯瞰で見ることが可能になった現在においては、それがどのように書かれ上演されるのかというドラマツルギーの問題がにわかに重要性を帯びてきている。本シンポジウムは、各パネリストがそれぞれ異なる視点からAlbeeの劇作法を読み解き、全体として「Edward Albeeの詩学」のほんの一端を明らかにしようという、ささやかながら意欲的な試みである。(岡本 太助)

解体による構築――Three Tall Womenから見るEdward Albeeの自伝劇執筆
大阪大学(院) 村上 陽香
 生後18日で養子となったEdward Albeeは、終ぞ養父母と良好な関係を築くことは出来なかった。家族関係はAlbeeの劇作に大いに影響を与え、特に折り合いの悪かった養母Francesを思わせる高圧的な人物は複数の作品に登場している。中でも、Albeeにとって最も自伝的な作品と位置付けられるThree Tall Women (1991)では、Francesは主題として直接的に扱われている。
 本作の登場人物A、B、Cは、同じ女性の92歳、52歳、26歳の姿であると二幕で発覚する。生涯における三つの段階にいる同一人物が舞台上に共存し、一人の女性の人生を映し出す。この女性こそ、Albeeの養母である。彼女の死後執筆された本作は、作者曰く、よく知った題材である養母について極力客観的に捉えるためのものであった。
 別年齢の同一人物がそれぞれの視点から語る二幕とは違い、リアリズム的に設定された一幕ではA、B、Cがそれぞれ別人として登場していることは注目に値する。一幕のAは記憶の保持も身体制御も儘ならず、自分が衰えていくことを酷く恐れている様子を見せる。ガラスが割られる描写や身体損傷の話題が登場し、完全形であった物が解体されるイメージが浮上する。Albeeは養母について、晩年は心身ともに衰弱が激しかったが、その状況においても強くあろうとして自分に残されたものに何とかしがみつこうとしていた様子に感銘を受けたと語った。壊れていく自分に怯える姿、そして怯える自分を客観視する姿を、Albeeは自らの手で養母を三年代に解体することで描き出したと言えるだろう。
 作中に散りばめられたエピソードの多くは、Albeeが実際に見聞きしたFrancesに纏わる実話を元に作られた。しかし一方で、本作執筆中のAlbeeは、自分が養母について書いているのではなく、登場人物を作り出しているのだと感じていたという。執筆の過程で養母を解体したAlbeeは、養母だけではなく、彼女の視点から見た自分や、彼女を題材として扱う自分にも目を向けることになっただろう。本発表では、一幕に登場するエピソードや、二幕の舞台設定を分析しつつ、Albeeによる自伝劇執筆について考察したい。

つぎはぎの声――Edward Albee作品に見る生と死を奏でる音楽の効果
大阪大学 森本 道孝
 Edward Albeeの演劇作品における重要なテーマの一つに「生と死」が挙げられる。この深遠なテーマを扱う際に、Albeeは様々な実験的劇作法を駆使している。中でも音楽の構成の取入れや、声の扱い方にその手腕が発揮される。
 Quotations from Chairman Mao Tse-Tung (1968)の創作にあたって、Albeeは登場人物それぞれの語りを別々の紙に記載し、それらを適当に区切ったうえでランダムに組み合わせるという実験的手法を用いており、作中では会話らしきものは断片的に展開し、その接続は頼りないものとなっている。また、これと切り離せない作品と位置づけられているBox (1968)冒頭の空洞の箱から聞こえる「声」は会場のあちこちから聞こえる設定とされ、およそ10分にわたる登場人物不在の空間を、観客は聴覚のみで捉えることを余儀なくされる。このようなシーンが劇中で幾度か繰り返されるため、観客は断片をつぎはぎしながら状況を理解していくしかない。「声」に関わる作品として、ラジオドラマとしての依頼から執筆されたListening (1975) でも、数をカウントする正体不明の「声」が登場し、相手に話を聞いてもらえないことに対する不満を明かす会話が展開し、「声」が「終わり」を告げる。ここでも、身体とは切り離された「声」そのものの存在の大きさが際立つ。
 断片的な「声」に対して、たとえばAll Over (1971)では、臨終に際しての周囲の人々の会話が、それ以前の彼の作品に比べ、リアルで緻密な構成で自然な響きを持つものとして描かれる。共通の話題を軸にスムーズに展開しているように見えるが、そこで語られるのは老人たちによる「死」や死に方を巡る話であり、家族ではなく、愛人の家での死を選ぶ人物から見えてくるのは、後を継ぐはずの子供たちも家族を持たない先行きの不透明な家族像でしかなく、作品は医者による「終わり・臨終(all over)」という「声」で締めくくられる。
 本発表では、以上のような音楽や声に纏わる実験的手法の中に見えるコミュニケーションの成否をめぐるAlbee独自の劇作法や描写方法について考えてみたい。

ポストヒューマン・エコロジーに向けて――Seascapeにおける種間遭遇
大阪大学 貴志 雅之
 人間と英語を話す海トカゲ、二組の夫婦が海辺で出会い、交流する。数あるオールビー作品のなかにあって、1975年初演、ピューリッツァー賞受賞作Seascapeが放つ際立った特徴である。本作において、人間夫婦と海トカゲ夫婦との遭遇とコミュニケーションに見られるのは、ヒューマンとノンヒューマンの相互関連性である。しかし、これまでの批評の多くは、人間中心的(anthropocentric)前提にたった分析・解釈に終始し、人間と海トカゲ夫婦との遭遇は人間にかかわる関心事(愛、夫婦生活、出産、加齢、老後、冒険、あるいは人間に至る進化プロセスなど)を表す寓話的テクストに還元される傾向にあった。こうした本作をめぐる批評動向に対し、近年、エコクリティシズムからヒューマンとノンヒューマンの関係性に着目したポスト人間中心主義的(post-anthropocentric)立場に立った新たな研究成果が発表されるようになってきた。
 一方、ポストヒューマニズムは、人間を頂点とした生物のヒエラルキー・モデルという人文科学の基本前提に対する異議と、ヒューマンとノンヒューマンとの関係性、異種生物(存在)間の種間関係/コミュニケーション(interspecies relationships/communication)の認識と提唱および新たな種間関係構築を目指すという点でエコクリティシズムと重なる問題意識を持つ。
 本発表では、ポストヒューマニズムとエコクリティシズムを理論的参照項に、Seascape における人間夫婦と海トカゲ夫婦との遭遇と交流のあり方、そして舞台となる海辺というドメインの特殊性を再検討し、本作当初のタイトルであった“Life”に込められたオールビーの生命観・世界観を探る。それにより、オールビー作品に底流する詩学の一端を明らかにできればと思う。


Edward Albeeの家族ゲーム――演劇的イリュージョンとしてのホーム
九州大学 岡本 太助
 Edward Albeeの代表作Who's Afraid of Virginia Woolf? 第三幕中の印象的な一節、“Truth and illusion. Who knows the difference, eh, toots?”がいみじくも示すように、GeorgeとMarthaが興じる「家族ゲーム」は、現実と虚構、嘘と誠の境界のあいまいさの上にかろうじて成立している。さらに、この劇のメタシアトリカルな性質を考慮に入れるならば、イリュージョンやゲームというものは、少なくともAlbeeにとっては、演劇そのものの欠かすべからざる構成要素でさえある。あるいはこれを少し異なる角度から見ると、同作をはじめとして多くのAlbee劇の主題となる夫婦関係の維持は、劇そのものの成立と不可分であるし、また劇中のアクションが行われる家庭(ホーム)の空間と舞台上に組まれた家屋のセットとのあいだに線引きをすることも容易ではないと言える。つまりこれは演劇的イリュージョンとして作り出されるホームである。なぜAlbeeがこうしたイリュージョンを多用するのかということも(特にAlbee劇におけるpoliticsを理解するためには)重要な問題ではあるが、本発表ではむしろ、この「ホーム」がどのように組み立てられているかに着目し、空間の詩学ならぬ場所の詩学(poetics)とも呼ぶべきAlbeeのドラマツルギーを浮き彫りにしたい。
 具体的にはWho's Afraid of Virginia Woolf?The American DreamA Delicate BalanceMarriage PlayThe Play About the BabyThe Goat, or, Who Is Sylvia? 、さらにThe Zoo Storyの「第一幕」として2004年に発表された“Homelife”などを比較検討する。議論の補助線として、演出家としてのAlbeeの活動に密着取材したRakesh H. SolomonのAlbee in Performance、自然主義以降の演劇における家屋セットについて論じるNicholas GreneのHome on the Stage、その他演劇における場所や空間に関する古今の研究を参照しつつ、上述した「場所の詩学」の理論的な定義を試みる。また時間がゆるせば、Victor Turnerの言う「遊びの真剣さ(seriousness of play)」等を手掛かりに、Albee劇におけるゲームの機能を再検討し、間テクスト性やパロディの観点からも劇の構造を分析する。これらの議論を通して、Albee劇が実は劇を「見る」ことをめぐる寓話、すなわち「見ることのアレゴリー」であることを明らかにできればと思う。

※会員以外の方のご来聴も歓迎いたします。参加希望の方は学会事務局まで電子メールでご連絡ください。

2017年9月4日
 日本アメリカ演劇学会お知らせ

*2017年第7回大会報告:
 2017年第7回大会は、「ジャンルを超えるアメリカ演劇」をテーマに、8月30日(水)・8月31日(木)の両日、広島経済大学立町キャンパスにて開催されました。シンポジウム要旨など詳細は「大会報告」欄をご覧ください。
 今回は初めての試みとして、1日目にヘンリー・ジェイムズ、2日目にウィリアム・フォークナーという、専業の劇作家ではない作家による劇作を取り上げ、シンポジウムを開催しました。それぞれの作家の専門家の皆さんと演劇研究者による対話を通して、作家の研究と演劇研究の双方にとってきわめて有意義な見識を得ることができました。今後も第2弾、第3弾と同様の企画を続けていきますので、ご期待ください。

第7回総会――次回大会テーマ・時期・開催地の決定について:
 大会2日目プログラム終了後の総会では、2016年度の会計報告・承認、次回大会のテーマ・時期・開催地の決定がなされました。次回大会は、2018年8月25日(土)・8月26日(日)に名古屋地区で開催されることになりました(次回は例年通り土日での開催となりますのご注意ください)。大会テーマは「エドワード・オールビー研究」(仮)とし、昨年亡くなったオールビーをめぐるシンポジウムを開催する予定です。詳細が決まり次第、追ってご案内いたします。なお、次回大会では、1日目の研究発表を自由論題とし、大会テーマ以外の、アメリカ演劇に関する発表の場を設けます。発表を希望される方は、学会事務局または代表幹事の岡本太助までメールでご連絡ください。

*機関誌『アメリカ演劇』の発行と原稿募集:
 『アメリカ演劇』28号の発行に向け、編集作業を進めております。諸般の事情により、前回は発行を取りやめることとなりましたので、今回は2号分の合併号となる予定です。
 次号『アメリカ演劇』29号の原稿も募集しております。大会シンポジウムのパネリストからの投稿はもちろんのこと、それ以外の会員の皆様からの原稿もお待ちしております。特集以外の内容の原稿につきましても、アメリカ演劇に関する論文、上演レヴュー、書評なども掲載してゆく方針です。詳細は以下の投稿規定をご参照ください。投稿をお考えの方は、その旨を事務局または代表幹事岡本太助まで事前にメールでお知らせください。

『アメリカ演劇』投稿規定
1. 投稿論文はWordの電子ファイルとして作成し、電子メールに添付して本部事務局に送付のこと。
2. 内容  特集作家に関する未発表の研究論文(和文)。ただし、特集作家以外のアメリカ演劇に関する未発表の論文、エッセイ、記事も可。
3. 枚数  原則としてA4判用紙に縦書きで30字×30字とし、20,000字以内(後注、文献一覧を含む。)
4. 体裁  注は後注とし、本文の終わりにまとめ、引用文献一覧を付す。引用文は原文ではなく、和訳を記載する。外国の書名・作品名は和文で表記し、初出の箇所で和文の後に括弧をして原名を書く。その他書式の細部については、『MLA新英語論文の手引第6版』(北星堂)に従う。
5. 原稿の採否および掲載の時期は編集委員が決定する。
6. 採用論文の執筆者は原則として『アメリカ演劇』当該特集号を20部買い上げる。
7. 校正は原則として2回とする。
8. 宛先  日本アメリカ演劇学会事務局(E-mail: nihon_america_engeki@yahoo.co.jp)。件名は「『アメリカ演劇』原稿」とすること。
9. 締切は毎年7月31日(事務局必着)とし、事務局からの受信確認メールをもって受理されたものとする。応募原稿と略歴をそれぞれWordの電子ファイルとして作成し、電子メールに添付して学会事務局に提出すること。
※依頼原稿については、この限りでない。
(制定日2010年8月1日、改定日2012年8月1日)

2017年7月25日
 日本アメリカ演劇学会第7回大会プログラム

日時:2017年8月30日(水)・31日(木)
会場:広島経済大学 立町キャンパス 3階 132教室
住所:〒730-0032 広島市中区立町2-25
TEL:082-258-1192
サイトURL:http://www.hue.ac.jp/

ジャンルを超えるアメリカ演劇

第1日 8月30日(水) 受付 13:20〜13:50 (会場 3階 132教室)
  シンポジウム① 14:00〜17:00

「劇作する小説家ヘンリー・ジェイムズ――小説と演劇のインターフェイス」
司会兼パネリスト:  大阪大学  貴志 雅之
パネリスト:  ノートルダム清心女子大学  中村 善雄
   北九州市立大学  齊藤 園子
   京都大学  水野 尚之

  懇親会 18:00〜20:00 (会場 チサンホテル広島 2階 宴会場)

第2日 8月31日(木) (会場 3階 132教室)
  シンポジウム② 9:00〜12:00
「小説・演劇・映画――ウィリアム・フォークナーとジャンル横断の試み」
司会兼パネリスト:  九州大学  岡本 太助
パネリスト:  千葉大学  山本 裕子
   西南学院大学  藤野 功一

  座談会 13:00〜14:00
  シンポジウム①およびシンポジウム②のパネリストによるクロストーク

  総会 14:00〜15:00

シンポジウム①

劇作する小説家ヘンリー・ジェイムズ――小説と演劇のインターフェイス

司会兼パネリスト:  大阪大学  貴志 雅之
パネリスト:  ノートルダム清心女子大学  中村 善雄
   北九州市立大学  齊藤 園子
   京都大学  水野 尚之

 マーク・トウェイン、ウィリアム・ディーン・ハウエルズとともに、アメリカ・リアリズム文学の形成を担ったヘンリー・ジェイムズは、国際的状況のなかでヨーロッパ文化と対比・対照してアメリカとアメリカ人を精緻な心理描写によって描く心理的リアリズムを開拓した作家だった。父親の教育方針から、幼い頃より新旧二つの大陸の異文化を相対的に見るコスモポリタンのまなざしを身につけていったジェイムズは、アメリカとヨーロッパ二つの世界の劇場・演劇にも慣れ親しんで成長した。こうして育ったジェイムズが作家の目を演劇に向けたのは当然のことだったのかもしれない。
 ジェイムズが劇作に携わったのは1869年から1909年の40年間に及ぶ。この期間の大半を英国で生活していたジェイムズは習作3作を合わせ15作の演劇作品を執筆する。しかし、実際にロンドンでの上演にこぎつけたのは、The American (1890)、Guy Domville (1893)、The High Bid (1907)、The Saloon (1908)の4作だった。The Complete Plays of Henry Jamesの編者レオン・エデルは、その序文で「ジェイムズは実のところ劇を書けない劇作家だった」という仮説を提示し、それ故にジェイムズは「小説の劇作家」になったと記している。エデルによれば、ジェイムズは自身の小説を「シナリオ」とみなし、「シナリオの聖なる原理」こそ「演劇と物語双方の錠前がかかった複雑な部屋を開ける鍵」と考えたようである。興味深いことに、ジェイムズの演劇作品評以上に、序文でエデルが力説しているのは、ジェイムズの小説が持つ「演劇的フィクション」と呼びうるほどの豊かな演劇性である。エデルは、ジェイムズの小説がのちに演劇や映画になったことに触れ、20世紀中葉までにはジェイムズ小説が視聴覚化され、さまざまな形態の「電子」メディアやオペラに変化したとして、多数の具体例をあげている。こうしてジェイムズの小説20作品中、12作が新たな形態に作り変えられてきたという。
 本シンポジウムは、ジェイムズ小説が持つ演劇性を念頭に置きながら、小説の演劇への作品化を含めたジェイムズの劇作と演劇作品の分析と評価、さらに上演をめぐる諸事情の検討も射程に入れ、改めて「小説家ジェイムズの劇作を考える」ものである。そのために、ジェイムズの劇作時代を大まかに初期・中期・後期に分け、その順にパネリストが発表する形をとる。これにより、ジェイムズの初期から晩年に至る劇作のあり方を通時的に俯瞰しつつ、大西洋を隔てたイギリスとアメリカの地理的条件を踏まえながら、ジェイムズの小説と演劇という二つのメディア越境的議論がさらに活性化するものになればと思う。 (貴志 雅之)

劇作家Jamesの「誕生」――“dramatic years”以前の戯曲
ノートルダム清心女子大学 中村 善雄
 Leon EdelがHenry Jamesの創作人生の中で、1890年から95年の間を“dramatic years”と称したように、劇作家Jamesに関する研究もこの6年間に集中している。確かにこの期間の初めには、劇団支配人兼俳優であるEdward Comptonの指示により、ハッピー・エンディングにまで改変したThe Americanの戯曲版が上演された。そして、その時期の終わりには、当初から三幕物の戯曲として書かれたGuy Domvilleが上演され、その初日の舞台上でJamesが浴びたブーイングと、同日にJames自身が目の当たりにしたOscar WildeのAn Ideal Husband(1895)に対する拍手喝采という明暗が、“dramatic years”の終焉を決定づけた劇的エピソードとして良く取り上げられる。David Lodgeも皮肉とも言える書名Author, Author(2004)の中で、劇作に苦闘するこの時期のJamesとGuy Domvilleでの彼の失望を活写している。
 しかし、Jamesは幼少の頃より劇に慣れ親しみ、演劇を「最も成熟した芸術」と称し、“dramatic years”以前から劇作を試みている。Jamesの生涯の創作時期が初期/中期/後期と3つに大別されるように、彼の劇作の歴史も3つに分類されるが、1890 年以前の初期にはPyramus and Trisbe (1869)、Still Waters (1871)、A Change of Heart (1872)、Daisy Miller(1882)の、4つの戯曲が執筆されている。これらの劇作は残念ながら上演される機会に恵まれなかったが、Jamesの演劇への願望とその試行錯誤的な実践を伺い知ることが出来よう。本発表ではこの修行時代と言える期間に焦点を当て、Jamesが演劇の世界に足を踏み入れた契機と動機や、Daisy Millerの上演拒否に伴う当時の英米演劇に対するJamesの反応、及びDaisy Millerの小説版と戯曲版との比較を通じたアダプテーションの問題について触れてみたい。

喜劇のアメリカ人――The Americanの小説と劇作をめぐる葛藤
北九州市立大学 齊藤 園子
 The Americanの小説初版、ニューヨーク版、および戯曲版における「アメリカ人」表象に着目する。
 小説版のThe Americanはジェイムズ初期の長編の一つであるが、晩年に編纂されたニューヨーク版(The Novels and Tales of Henry James)と呼ばれる作品選集に収められるにあたり、ジェイムズが入念に加筆・修正を施した作品として知られる。小説は最初、1876年6月から1877年5月にかけてThe Atlantic Monthlyに連載された。その雑誌掲載分が改訂されて書籍版の初版が出版されたのが1877年のことである。その後、約30年を経た後に作品は大幅に改訂され、1907年出版のニューヨーク版第二巻に収められた。The Americanはニューヨーク版に入ることはできたが、大幅な改訂を経る必要があったのである。エンディングの描写も大きく異なり、これら二版は、典型的なアメリカ人、クリストファー・ニューマンを通じて、異なる「アメリカ人」の姿を提示している。
 戯曲版はさらに異なるアメリカ人像を提示している。戯曲版は当初、The Californianという題名で発表された。発表は1891年のことで、発表年では小説の初版とニューヨーク版の間に位置する。初演は1891年1月3日、イギリスのリバプール近郊の町で行われた。戯曲版は大団円で、「四幕物の喜劇」という副題がつけられている。小説においては、ニューマンとマダム・ド・サントレの結婚は不可能であるとして断固として描かなかったジェイムズであるが、劇作ではあえて妥協したのである。小説版についてジェイムズは、ウィリアム・ディーン・ハウエルズにあてた書簡において、「我々は環境の産物であって、越えられない石の壁によって隔てられている」とし、ニューマンとマダム・ド・サントレとの間にも越え難い壁が存在するという見解を示している。本発表では、小説の二版と戯曲版におけるアメリカ人表象の揺らぎと作家の葛藤に迫ることを試みる。

座元兼役者との苦闘――The AmericanからThe High Bidまで
京都大学 水野 尚之
 劇The Americanがかろうじて成功といえる上演を続けた後、ジェイムズはGuy Domville上演までに4つの劇を書いている。しかし1890年に書かれたTenants は上演されず、翌年に書かれたThe Albumも上演されなかった。次のDisengagedについては、書き換えを求めたロンドンの劇団との交渉が決裂し、ジェイムズは劇の返却を望んでいる。(この劇は10年ほど後に、他の劇団によりニューヨークでごく短期間上演された。)そしてThe Albumより良い出来とジェイムズが自負した4作目のThe Reprobateも、結局ジェイムズの存命中に上演されることはなかった。つまり、劇The Americanの後にジェイムズが上演までこぎつけたのは、Guy Domvilleが事実上初めてだったのである。
 劇The Americanの上演以来イギリスの演劇界での成功を目指したジェイムズは、「座元兼役者」(actor-manager)という存在を相手にせねばならなかった。採算第一の座元兼役者が望むような芝居を書くべく、ジェイムズは削除の屈辱に耐え、小説を書くときには考えもしなかったハッピーエンドも用意している。そしてジェイムズは、座元兼役者のGeorge Alexanderの要求を聞き入れつつGuy Domvilleを書いた。この劇については、劇の出来そのものよりも、初演の際の事件(終演後、挨拶のために舞台に上がったジェイムズは客席から野次や冷やかしを浴びせられた)がもっぱら言及されてきた。また、この事件を契機としてジェイムズは劇の世界からふたたび小説の創作へ戻った、というのが定説である。本発表では、Guy Domvilleが上演された劇場の当時の姿やその後の変遷を(現地で撮影した写真とともに)紹介しつつ、この劇の初演時の実際の様子を、さまざまな証言をもとに考察する。
 初演の騒動にもかかわらず、Guy Domvilleは必ずしも酷評されたわけではなく、その後5週間上演されている。またジェイムズは、Guy Domvilleの経験によって(文学史でしばしば断定的に書かれているように)劇作の筆を折ったわけではなく、その後も劇を書き続けている。その中でもThe High Bid(イプセン劇の影響が見られる)は、注目に値する。斜陽のイギリス屋敷をアメリカ人が「高値」をつけて救う―この劇の元になった小説「カヴァリング・エンド邸」(“Covering End”)にかけて言えば、結末(エンド)はアメリカの富によってうまくいく(カバーされる)―という、イギリス人には微妙な展開にもかかわらず、この劇のエジンバラ公演(1908年)はおおむね好評だった。またジェイムズ初期の劇に見られた欠点(頻繁な傍白や独白)は、この劇では抑えられている。

ヘンリー・ジェイムズ、劇作の到達点とその真価
――The SaloonThe Outcryをめぐって

大阪大学 貴志 雅之
 40年に及ぶ劇作活動を経て、ジェイムズはようやく独自の演劇様式を見出す。それを具体化したと考えられるのがThe Saloon (1908)とThe Outcry (1909)である。これら2作は小説の脚色による演劇創作と演劇作品の小説化、というジェイムズに特徴的なジャンル変換による作品創作のあり方を示す。しかし、それ以上に重要なことは、両作品がジェイムズ演劇の独自性と問題点を考えるうえで、バーナード・ショーやイプセンの影響も含め、テーマ、話題、内容、手法等にかかわる特徴的要素を最終的に集約した作品だという点である。
 ジェイムズ唯一の幽霊劇The Saloon は、自身の軍人家系の呪縛(霊)に命をかけて抗う主人公の意志と心の葛藤を中心に旧家をめぐる新旧の確執と戦いを描く。一方、喜劇The Outcryは、イギリス貴族所有の芸術品の扱いをめぐり、イギリス人とアメリカ人の姿を対比的に映し出す。こうした作品内容を表現する演劇様式として、ジェイムズは前者でショーの議論劇とイプセン劇の要素を合わせた演劇的リアリズム、後者では議論劇と喜劇的な話の展開を統合した「作者の才能にあった演劇ジャンル」、というジェイムズ独自の新たな演劇様式に行きついたとブレンダ・マーフィーは評している。
 本発表では、これら2作をジェイムズの劇作の二つの到達点と捉え、ショーとイプセンの要素の組み込み、作品内議論の的となる問題系と作品展開、ジェイムズ独自の演劇様式について検討する。そして、ジェイムズの劇評と比較・対照しつつ、イギリスとアメリカ両国の演劇界と演劇研究におけるジェイムズ劇の評価を考察し、イギリスに生きたコスモポリタン小説家ジェイムズの劇作を再考する。

シンポジウム②

小説・演劇・映画――ウィリアム・フォークナーとジャンル横断の試み

司会兼パネリスト:  九州大学  岡本 太助
パネリスト:  千葉大学  山本 裕子
   西南学院大学  藤野 功一

 故郷であるミシシッピ州の架空の土地ヨクナパトーファ郡を舞台とする長篇小説群によって知られるウィリアム・フォークナー(William Faulkner, 1897-1962)だが、そのプロの作家としてのキャリアは詩作から始まっており(The Marble Faun, 1924)、その後も彼は5冊の詩集を出版している(内2冊は死後出版)。また彼は、制作されなかったものも含めれば約20本の映画脚本も書いており、さらに彼の小説を原作とする映画も考慮に入れるならば、フォークナー研究において映画の占める地位は決して軽視すべきものではないと言える。批評的・商業的な成功はともかくとして、小説以外のこれらの創作活動については、これまでも一定の研究がなされてきた。それに比して、フォークナーと演劇の関わりについての研究は圧倒的に少なく、「フォークナー」と「演劇」を結びつけて論じること自体が、フォークナー研究の(そしてアメリカ演劇研究の)常道を外れた奇想であると言っても過言ではない。しかし果たしてこれは、演劇の観点からなされるフォークナー論は不可能であるということを意味するのだろうか。むしろ、フォークナー研究とアメリカ演劇研究にとっての盲点であった「フォークナーと演劇」というテーマは、いずれの分野の研究者にとっても斬新で魅力的な研究アプローチを提供するものであると言えないだろうか。
 本シンポジウムでは、フォークナー研究者とアメリカ演劇研究者それぞれの立場から、フォークナーによる(演劇を軸とした)ジャンル横断の試みについての意見を提示し、またパネリスト間での議論を通して、研究領域横断型の研究アプローチの可能性を探る。とは言え、現在一般的に入手可能なフォークナー作の「演劇作品」はRequiem for a Nun(1951)のみである。そのため本シンポジウムでは、厳密な意味での「演劇」ではない要素についても目を向けることになるが、そうしたアクロバティックな試みの副産物として、そもそも私たちが「演劇」と呼んでいるものは何であるかを考え直す機会を提供できれば幸いである。 (岡本 太助)

A Failed Dramatist? ――初期習作からRequiem for a Nun
千葉大学 山本裕子
 フォークナーが自身を「詩人くずれ」(a failed poet)と呼んだことは有名であるが、彼が「劇作家くずれ」でもあった事実はあまり知られていない。16歳の頃から試作に励んでいた彼は、大学在籍中に演劇クラブ「ザ・マリオネッツ」に加わり、1920年、上演されなかったものの、一幕劇The Marionettes(1975)を完成させた。2015年になって初めて出版された一幕劇“Twixt Cup and Lip”を執筆したのも、おそらく同時期であろう。フォークナーが再び戯曲と取り組むことになるのは、習作から実に30年後のことである。
 三幕劇Requiem for a Nun(1951)は、戯曲形式の小説とも呼ばれるように、戯曲と随筆と小説をあわせたジャンル混合的形式をもつ。フォークナー自身は本作品のことを、小説のなかに劇場面を組みこむ「面白い形式上の実験」であると述べた。「形式上の実験」は、習作におけるメディア混合の試みにもみられる。散文形式の戯曲The Marionettesは、フォークナー独特の字体とビアズリー風の挿絵からなる。タイプ原稿“Twixt Cup and Lip”には、挿絵はつけられていないものの、1920年前後に大学年報『オール・ミス』に掲載されたフォークナーの素描には、この作品の挿絵になりそうなペン画が数点含まれている。
 フォークナー研究において、詩の習作が注目されることはあれ、戯曲の習作が議論されることはほぼない。本発表では、数多あるフォークナー作品のうちで唯一劇作品として生前出版されたRequiem for a Nunを、初期習作におけるメディア越境の試みと関連付け、作品構造、技法、モチーフ等を比較検討する。フォークナーが、ごく初期の段階からジャンルやメディアを越境する「形式上の実験」と取り組んでいたことを示し、初期習作からRequiem for a Nunに至るフォークナーの劇作法の展開の一端を明らかにできればと思う。

主演女優Temple Drake――SanctuaryRequiem for a Nunに見る「演劇的なもの」
九州大学 岡本 太助
 フォークナー作品のなかでも特にセンセーショナルな小説とされるSanctuary(1931)において、殺人容疑で裁判にかけられた男の命を救うことのできる唯一の目撃者でありながら、保身のために偽証してしまうTemple Drakeは、南部の中上流階層特有の“odorous and omnipotent sanctity”を体現していると言える。つまり彼女は、冒険心から飛び込んだ外部の世界に恐れをなして、自分の属する社会の庇護を受けられる「サンクチュアリ」へと逃げ込むのである。その後結婚し二児の母となった彼女の子供が殺害される事件を描くRequiem for a Nun(1951)では、Templeは一転して犯人である黒人家政婦の死刑執行を食い止めようと奔走する。一見すると彼女の心中に大きな変化があったかのようだが、Sanctuaryにおいても登場人物の心理描写が極力排されていたのに加え、物語の本筋の部分が戯曲形式となっているRequiemにおいては、さらに彼女の心の動きは読み取りにくくなっている。むしろ、前者においても既に舞台で悲劇のヒロインを演じているかのごとく描写されていたTempleは、後者においてはかなり自意識的にTemple Drakeという役を演じていると言える。そしてTempleの個性が際立つのは、まさにそのように表面的なキャラクターを演じる瞬間なのである。
 本発表では、Templeの人物造形に注目しながら、SanctuaryからRequiem(さらにはその上演用戯曲版)という小説から演劇へのジャンル移行に伴い醸成される「演劇的なもの」について考察する。まず、演劇という表現形式を採用することによって、小説ではできなかった表現が模索される一方で、フォークナー小説そのものの潜在的な「演劇らしさ」が強調されもする。さらに、Requiemのテクストの半分を占める神話的な郷土史は、南部やアメリカ合衆国全体の成り立ちを一つの演劇的プロセスとして提示している。これらの点を手掛かりに、同時代の演劇作品との比較も視野に入れつつ、アメリカ演劇研究とフォークナー研究の接点を探ってみたい。

対話劇として読むAbsalom, Absalom!Intruder in the Dust
西南学院大学 藤野功一
 フォークナーの小説は対話に満ちている。中期の傑作Absalom, Absalom!(1936)にしても、後期のほぼ最初の作品であるIntruder in the Dust(1948)にしても、どちらも重要な部分では登場人物が対話し、その語られる内容と同時に、互いの関係自体が読者の興味を引くように構成されている。そのため、読者がこれらの小説を舞台の上で演じられる対話劇として想像することも充分可能だろう。
 それでは、フォークナーの小説を対話劇として読むとき、彼の作品はどう評価できるだろうか。この問いによって、それぞれの作品の対話構造の意味を探ると同時に、フォークナーの中期における小説群と後期作品との違いも考えてみたい。まず、Absalom, Absalom! の対話構造は、小説全体の主要な語り手であるQuentinがRosaや自分の父親、あるいはハーヴァード大学の同級生でカナダ人のShreveと対話しながらSutpenとその子孫をめぐる物語を再構築するという構成をとっている。ただし、この小説全体が主に対話で構成されているにもかかわらず、奇妙なことにその最も重要な部分では、語り手が対話することを拒否して、沈黙しようとする場面が幾度もあるのが特徴だろう。いっぽう、Intruder in the Dustの登場人物たちは常に対話を続けようとする。この小説では白人を拳銃で撃ち殺したとして誤認逮捕された老黒人のLucasを白人のリンチから助けようと、白人少年のChickと彼の叔父で弁護士のGavinが活躍するが、序盤でChickがLucasのいる拘置所へ赴いて話をしようとする場面と、結末でLucasがGavinと会話する場面では、異質な者同士の対話の価値が強調されている。
 フォークナーの中期作品と後期作品における対話の描写の変化には、フォークナーの曽祖父であるW・C・フォークナー(William Clark Falkner, 1825-1889)の生涯およびその文学作品からの影響が関係している点も見逃せない。この要素も視野に入れながら、ふたつのフォークナー作品の対話劇としての評価を考えてみたい。

※会員以外の方のご来聴も歓迎いたします。参加希望の方は学会事務局まで電子メールでご連絡ください。

2017年3月17日
 日本アメリカ演劇学会お知らせ

*2016年第6回大会報告:
 2016年第6回大会は、「エスニック・マイノリティ演劇研究」をテーマに、9月10日(土)・9月11日(日)の両日、エスカル横浜にて開催されました。研究発表要旨など詳細は「大会報告」欄をご覧ください。
 2010年の「18・19世紀アメリカ演劇研究」、2014年の「21世紀アメリカ演劇研究」に続いて、特定の作家一人を取り上げるのではなく、テーマに沿って様々な作家と作品についての研究発表とシンポジウムを行うという形式を試みました。また、劇作家のChiori Miyagawa氏による招待講演も大いに盛り上がりましたので、今後も同様の催しを企画する予定です。ご期待ください。

第6回総会――次期役員選挙と次回大会テーマ・時期・開催地の決定について:
 大会二日目シンポジウム終了後の総会では、2015年度の会計報告・承認、次回大会のテーマ・時期・開催地の決定を経て、次期役員選挙の開票が行われました。開票の結果、次期役員は以下の通り総会の場で承認され、本人の承諾を得て決定されました。

日本アメリカ演劇学会役員(2017年4月1日〜2019年3月31日)
会   長:  貴志 雅之 (大阪大学)
副 会 長:  黒田絵美子 (中央大学)
評 議 員:  舌津 智之 (立教大学)
   竹島 達也 (都留文科大学)
   戸谷 陽子 (お茶の水女子大学)
   原 恵理子 (東京家政大学)
   古木 圭子 (京都学園大学)
   山本 秀行 (神戸大学)
編集委員:  岡本 太助 (九州大学)
   黒田絵美子  
   原 恵理子  
   古木 圭子  
   山本 秀行  

 なお、事務局幹事、顧問、監事の人選につきましては、評議員会と会長、副会長に委ねられます。全役員の構成につきましては、次期役員任期開始までにあらためてお知らせいたします。
 次回大会は、2017年8月30日(水)・8月31日(木)に広島で開催されることになりました(時期がやや早まり、平日の開催となりますのでご注意ください)。大会テーマは「ジャンルを超えるアメリカ演劇」(仮)とし、小説家など、専業の劇作家ではない作家による劇作について発表とディスカッションを行います。他分野の研究者との連携や演劇研究の裾野の拡大を目指す野心的な企画です。奮ってご参加ください。研究発表申し込みやシンポジウムについてのご提案は随時受け付けていますので、学会事務局または代表幹事岡本太助までメールでご連絡ください。

*機関誌『アメリカ演劇』の発行と原稿募集:
 『アメリカ演劇』28号(サム・シェパード特集II)の発行に向け、編集作業を進めてまいりましたが、諸般の事情により、今回は発行を取りやめることとなりました。論文をご投稿くださった会員の皆様に、改めて御礼とお詫びを申し上げます。なお、今回掲載予定であった論文につきましては、次号に掲載する予定です。
 次号『アメリカ演劇』28号(エスニック・マイノリティ演劇特集)の原稿も募集しております。大会での発表者およびシンポジウムのパネリストからの投稿はもちろんのこと、それ以外の会員の皆様からの原稿もお待ちしております。特集以外の内容の原稿につきましても、アメリカ演劇に関する論文、上演レヴュー、書評なども掲載してゆく方針です。詳細は以下の投稿規定をご参照ください。投稿をお考えの方は、その旨を事務局または代表幹事岡本太助まで事前にメールでお知らせください。

『アメリカ演劇』投稿規定
1. 投稿論文はWordの電子ファイルとして作成し、電子メールに添付して本部事務局に送付のこと。
2. 内容  特集作家に関する未発表の研究論文(和文)。ただし、特集作家以外のアメリカ演劇に関する未発表の論文、エッセイ、記事も可。
3. 枚数  原則としてA4判用紙に縦書きで30字×30字とし、20,000字以内(後注、文献一覧を含む。)
4. 体裁  注は後注とし、本文の終わりにまとめ、引用文献一覧を付す。引用文は原文ではなく、和訳を記載する。外国の書名・作品名は和文で表記し、初出の箇所で和文の後に括弧をして原名を書く。その他書式の細部については、『MLA新英語論文の手引第6版』(北星堂)に従う。
5. 原稿の採否および掲載の時期は編集委員が決定する。
6. 採用論文の執筆者は原則として『アメリカ演劇』当該特集号を20部買い上げる。
7. 校正は原則として2回とする。
8. 宛先  日本アメリカ演劇学会事務局(E-mail: nihon_america_engeki@yahoo.co.jp)。件名は「『アメリカ演劇』原稿」とすること。
9. 締切は毎年7月31日(事務局必着)とし、事務局からの受信確認メールをもって受理されたものとする。応募原稿と略歴をそれぞれWordの電子ファイルとして作成し、電子メールに添付して学会事務局に提出すること。
※依頼原稿については、この限りでない。
(制定日2010年8月1日、改定日2012年8月1日)

2016年8月30日
 日本アメリカ演劇学会第6回大会プログラム

日時:2016年9月10日(土)・11日(日)
会場:エスカル横浜(横浜海員会館)
住所:〒231-0023 横浜市中区山下町84番地
TEL:045-681-2141
サイトURL:http://www.jswa.or.jp/escale/

エスニック・マイノリティ演劇研究

第1日 9月10日(土) 受付 13:50〜14:20 (会場 ホテル2階 会議室)
  研究発表 14:30〜16:30

司会:広島経済大学 森 瑞樹
1.岡裏 浩美(福岡工業大学短期大学部・非)
 アメリカの中のイタリアが生み出す悲劇――A View from the Bridgeにおける白さと男らしさのゆらぎ
2.有馬 弥子(恵泉女学園大学)
 ペンとヒジャブ――The Who & The Whatに見るムスリム系アメリカン女性の模索


  特別講演 16:30〜17:30
司会:京都学園大学 古木 圭子
講師:Chiori Miyagawa氏(劇作家)
講演:Truer Picture of Present and Future Humanity on Stage:
   Casting across race, gender, and age in Chiori Miyagawa’s plays


  懇親会 18:30〜20:30 (会場 菜香新館[横浜市中区山下町192 中華街上海路])

第2日 9月11日(日) (会場 ホテル2階 会議室)
  シンポジウム  9:00〜12:00(前半)/13:00〜14:00(後半)
  総会  14:00〜15:00

シンポジウム:「21世紀初頭のアメリカにおけるエスニック・マイノリティ演劇
     ――人種、国家、言語、ジェンダーの越境」

司会兼パネリスト:  神戸大学  山本 秀行
パネリスト:  大阪大学・非  穴田 理枝
   九州大学  岡本 太助
   京都学園大学  古木 圭子

研究発表
司会 広島経済大学 森 瑞樹
1.アメリカの中のイタリアが生み出す悲劇――A View from the Bridgeにおける白さと男らしさのゆらぎ
福岡工業大学短期大学部(非) 岡裏 浩美
 自伝において、自己の民族性に重きを置かない創作理念を示すArthur Millerの作品では、ユダヤ性やホロコーストの恐怖といったテーマでさえも、普遍的な人間性や、人類共通の感情や理念を示すものとして解釈され、特定の人種や民族性を強く意識させる作品は少ないと言える。A View from the Bridge (1955)では、しかしながら、自身とは縁もゆかりもないイタリア系移民の中年男性(Eddie)を主人公に、その居住地区(Red Hook)を舞台に設定している。イタリア系の知人から聞いた実話をベースにしたとはいえ、本戯曲以外にも、度々イタリア系アメリカ人を作品に扱うMillerには、アメリカの中のイタリアを扱わなければならない創作上の強い意図を感じさせる。
 本発表では、WASPが牛耳るアメリカ社会において、アイルランド系やユダヤ系の移民とともに白人社会の底辺に属し、Italian Diasporaと称される程、20世紀初頭に急増したイタリア系移民の民族性に注目する。言い換えれば、白人と非白人とのあいまいな境界に属し、差別や偏見を受け続けた、ホワイト・エスニックとしてのイタリア系移民のアイデンティティや、その居住地域に注目することで、Eddieが姪へ抱く近親相姦的な欲望ばかりが注目され、『オイディプス王』を模した現代悲劇と安易に解釈される、本戯曲における悲劇性を再考していく。
 特に、外見上は社会における優位性を象徴するWASPの視覚イメージを持ちながら、一方では、保守的な50年代にタブーとされた同性愛者を喚起させる、シチリア島からの不法移民Rodolphoと、典型的なイタリア移民の特徴を保持するEddieとのまなざしを介した関係性を精査することで、Eddieの白さや男らしさの揺らぎから派生する悲劇的な力、すなわち、最終的に彼を身内の密告という裏切り行動へと駆り立てる、運命のような強制力を分析していきたい。

2.ペンとヒジャブ――The Who & The Whatに見るムスリム系アメリカン女性の模索
恵泉女学園大学 有馬 弥子
 Ayad AkhtarはDisgracedがピューリツァー賞を受賞した一年後2014年に、喜劇的な要素を強調したThe Who & The Whatを発表した。パキスタン出身のムスリム系の親世代によるアメリカへの移住は、二世世代の女性主人公Zarinaにイスラームの因襲面からの解放の機会をもたらす。しかし、妻を亡くした父親、妹、イスラームに改宗した白人の配偶者とZarinaの間では、確執、秘密、和解、新たな課題が錯綜し、純然たるハッピーエンディングに至るわけではない。しかし本作においてアクタールはそれら全てのどたばたと主人公の闘いのプロセス自体に意義を付そうとしたのであり、そのために敢えて喜劇的な色彩の濃い人物設定および展開を提示している。本発表ではThe Who & The Whatの喜劇的要素がZarinaによる自由への希求と抗いにどのような意味を与えているかを分析する。
 Zarinaの言動に関する焦点の一つは、イスラームにおける表現の自由の問題である。作者自身が喜劇の題材からは最も遠いと見なす題材、イスラームの教祖の風刺とその反響というテーマに、ムスリム系で、しかもイスラームの因襲により心に傷を負った女性主人公を挑ませ、しかも一貫して喜劇的要素を軸にこのテーマに迫ろうとした。なぜ男性作家アクタールは女性主人公にこの挑戦を課したのか。ルシュディ事件より30年ほど、パリの雑誌社襲撃事件より二年弱経ったが、女性主人公を用いたこのようなアプローチが男性作家により2014年に成されたことは注目に値する。ムスリム系二世代をめぐるムスリム系女性の立場やムスリム系アメリカンの社会についてのテーマとThe Who & The Whatの喜劇的要素の関係を分析することにより、本作が示そうとしている方向性を今日的状況にかんがみ探る。
 さらに本発表では、アクタールの前作である悲劇Disgracedと小説American Dervishに見るイスラームをとりまく女性像を通して提示されるジェンダーのイシューとも照らし合わせつつ、The Who & The Whatを論じる。

特 別 講 演
Truer Picture of Present and Future Humanity on Stage:
Casting across race, gender, and age in Chiori Miyagawa’s plays
講師 Chiori Miyagawa氏(劇作家)

講師略歴:
 ニューヨーク市を拠点として活躍する劇作家。長野県に生まれ、高校時代のアメリカ留学を機に移住し、ニューヨーク市立大学で劇作と劇批評を学び、MFAを取得する。ワシントンD.C.のArena Stageのプロデューサー、ニューヨーク市のPublic TheaterおよびNew York Theater Workshopで芸術助監督を務めた後、1995年、オフ・ブロードウェイにてAmerica Dreamingで劇作家としてデビューする。同氏の戯曲は、ニューヨークのオフ・ブロードウェイ、およびその他の地域における主要な劇場で定期的に上演されている。
 代表作として、アラン・レネ監督のHiroshima mon amourへの反駁として創作されたI Have Been to Hiroshima mon amour (2009)、9作の能作品を現代的視点で翻案した戯曲This Lingering Life (2014年サンフランシスコのZ Spaceにて初演、Theater Bay Arena Awardの最優秀戯曲)、Kate Chopinの同名小説を題材としたAwakening (2000)、Chekhovの短編を題材としたLeaving Eden (2005)、『源氏物語』、『更級日記』を題材とし、演出に日本の乙女文楽を取り入れたThousand Years Waiting (2006)、近松門左衛門の『女殺油地獄』を題材としたWoman Killer (2011) などがある。戯曲集としては、7作品を収めたThousand Years Waiting and Other Plays (2012)が Seagull Booksより、5作品を収めたAmerica Dreaming and Other Plays (2012) がNoPassport Pressより出版されている。
 Miyagawa氏は、New York Foundation for the Arts Playwriting Fellowship、McKnight Playwriting Fellowship、Rockefeller Bellagio Residency、Asian American Cultural Council Fellowship、ハーバード大学のRadcliffe Institute Fellowshipを含む多くの基金の受領者であり、ニューヨーク市のNew Dramatistsの元会員でもある。劇作家としての活動の傍ら、Bard Collegeで劇作を教授している。

シンポジウム

21世紀初頭のアメリカにおけるエスニック・マイノリティ演劇
――人種、国家、言語、ジェンダーの越境

司会兼パネリスト:  神戸大学  山本 秀行
パネリスト:  大阪大学(非)  穴田 理枝
   九州大学  岡本 太助
   京都学園大学  古木 圭子

 これまで、本学会のシンポジウムにおいては、特定の作家あるいは時代(またはその両方)に基づくテーマ設定を行ってきた。今回のシンポジウムにおいては、これまで副次的なテーマとしてはたびたび論じられてきたものの、主要テーマとして取り上げてこなかった人種・エスニシティという観点から、21世紀初頭のアメリカのエスニック・マイノリティ演劇に焦点を絞って考察する。
 4人のパネリストそれぞれが、21世紀初頭のアメリカ(カナダも含む)で活躍するエスニック・マイノリティの演劇、具体的には、アフリカ系劇作家Suzan-Lori Parks、アルゼンチン出身のラティーノ劇作家Guillermo Verdecchia、日系劇作家Chiori Miyagawa、中国系劇作家David Henry Hwangの作品を取り上げる。まず、その根底に垣間見える歴史性・文化的遺産などの通時的観点から、エスニック・マイノリティ演劇がこれまで辿ってきた歴史を逆照射しつつ、人種、国家、ジェンダー、言語の越境性(trans-borderness)という共時的観点にも踏み込んで、考察を深めていく。さらに、グローバル化/反グローバル化という二つの相反するベクトル上に位置する21世紀初頭のアメリカにおいて、ますます多様化するエスニック・マイノリティ演劇の新しい潮流を探り、可能な限り、その将来像についても展望していきたい。
(山本 秀行)

ポスト・ミレニアル期のDavid Henry Hwang のtrans-bordernessをめぐって
――Yellow FaceChinglishを中心に
神戸大学 山本 秀行

 アジア系アメリカ人の演劇として初めてニューヨークの商業劇場で上演されたFrank Chin, Chickencoop Chinaman (1972)以降、アジア系アメリカ演劇は、アジア系アメリカ人としてのアイデンティティの探求および、人種差別やホモフォビアなど、彼ら固有の社会的問題をめぐっての葛藤を描くことを「前提」としてきた。
 しかしながら、M. Butterfly (1988)でアジア系初のトニー賞を受賞するなど、これまでアジア系アメリカ演劇を牽引してきたDavid Henry Hwangは、21世紀初頭、いわゆるポスト・ミレニアル期に発表した二つの劇Yellow Face (2007)およびChinglish (2011)において、Frank Chin以来のアジア系アメリカ演劇の「前提」には従わず、人種、国家、言語等の境界(borders)を超えた広範なテーマに取り組んでいる。Yellow Faceは、1992年にブロードウェイ公演前のプレヴューで不評だったために公演中止に追い込まれたFace Valueを書き直し、2009年のオフ・ブロードウェイ上演を経てオビー賞を受賞した作品である。1990年のMiss Saigonのアメリカ初演時の白人優越主義的キャスティングをめぐる論争(“Miss Saigon Broadway Play Controversy”)を元に書かれたスラップステック・コメディに、作者のalter egoとも言えるDHHを新たに登場させ、その父の中国人銀行家HYHの中米関係を揺るがす不正献金スキャンダルというもう一つのエピソードを加えることで、trans-nationalな要素も含んだ劇にしている。また、2011年のシカゴでの初演後、同年にブロードウェイ上演されたChinglishは、中西部で看板製作会社を営む白人男性Daniel Cavanaughが、中国の地方都市での英語看板作成の公共事業受注をめぐって、当初は弊害とさえ思えた中国流の奇妙奇天烈な英語(Chinglish)を通じて、狡猾な現地の中国人の役人たちと交渉/交流を重ねていくうちに、中国人独特の慣習・考え方を理解し、人種、国家、言語の境界を越えた人間同士のコミュニケーションを構築していく過程をコミカルに描いている。
 以上のように、本発表では、trans-bordernessという観点を中心に据え、Hwangの最新作Kung Fu (2014)や、Dan Kwong, Be Like Water (2006)など他の中国系劇作家の作品にも言及しつつ、ポスト・ミレニアル期の中国系アメリカ人演劇の新たな方向性について考察を深めていきたい。

人種について「語る/語らない」――Suzan-Lori Parksの21世紀的作劇法とテーマ
大阪大学(非) 穴田 理枝

 アフリカ系アメリカ人女性作家、Suzan-Lori Parksは、初期のポストモダン的と評される、時空を超えるような作品群とは異なり、近年、家族を中心とした物語性の強い作品を発表している。The Book of Grace (2010)、 Father Comes Home from the Wars Parts 1, 2 & 3 (2014)の2作は、ともにテキサスを舞台とし、「アメリカの戦争と家族」に関わる物語という共通項を持つとは言え、その作劇法は異なり、示されるテーマも大きく異なるように見える。
 The Book of Graceはメキシコとの国境地帯を舞台とした、現代の家族の物語である。登場人物は国境警備隊員の父とその若い妻、そして15年ぶりに現れた先妻の息子の3人。本作は、The Public Theaterでの初演時には白人の父親と白人の妻、黒人の息子というキャストで上演されたが、翌年のZACH Theatre での上演からは全キャストが黒人に変更されている。特筆すべきは、初演時のキャストの人種により、「人種間の問題をテーマとする劇」として観客に受容されたことにParks自身が困惑し、「より深く、困難なテーマ」をもつ劇であることを際立たせるためにキャストの変更を行っていることである。一方、南北戦争を舞台とする最新作、Father Comes Home from the Wars Parts1,2 & 3では、キャストの人種はそれ自体が大きな意味を持つ。本作はギリシャ叙事詩『オデュッセイア』を枠組みとし、南北戦争から現在まで、という、南部奴隷出身のアフリカ系アメリカ人家族の物語を綴る第9部まで続くサイクル・プレイとしてParksが構想する作品群の幕開けとなる作品である。第2部の戦場の場面では、南部奴隷主の白人、その世話係としての南部奴隷の黒人、北部志願兵の「白い黒人」が登場し、人々を分断するマーカーとしての「肌の色」の意味が逆説的に問われる。
 Parksが21世紀に放つ2作について、その演劇手法を確認しつつ、それぞれが人種について「語る/語らない」ことにより射程に入れようとする諸問題を明らかにしたい。

「夢の精確な座標」――Guillermo Verdecchia劇における転位と越境
九州大学 岡本 太助

 20世紀後半以降のアメリカ合衆国演劇史の中で、チカーノ/ラティーノが果たしてきた役割は決して小さくはない。Luis Valdezらによって創始されたチカーノ演劇は、現在もなおチカーノ・コミュニティの文化的中心であり続けており、政治的パフォーマンス・アートと啓蒙活動の両面におけるGuillermo Gomez-Penaの長年に渡る貢献は、チカーノの地位向上・意識向上を強く後押ししてきた。また、キューバ出身のMaria Irene Fornesが展開した実験演劇の試みは、エスニック演劇のみならず演劇そのものの可能性を押し拡げたが、ラティーノ劇作家によるピューリッツァー賞受賞は、2003年のNilo Cruzまで待たざるを得なかったのであり、人口比と文化における存在感に見合うだけの評価が、チカーノ/ラティーノ演劇に対して与えられてきたとは言い難い。
 近年の研究において提示されている「アメリカ文学の脱領土化」(Paul Giles)や「アメリカ文学の発見」(Caroline F. Levander)といった概念は、特定の場所と分かちがたく結びついたものとしての「アメリカ文学」を相対化し、脱構築する必要性を唱える。本発表では、まず演劇については十分に議論されていないこれらの概念を演劇研究と接続し、さらにエスニシティによって色分けされたアメリカ演劇の地図を、これらの概念を通して描き直す可能性を模索する。そこで今回は、アルゼンチン出身カナダ在住の劇作家Guillermo VerdecchiaのFronteras Americanas/American Borders (1993年初演、改訂版再演2011年)、およびAnother Country(1991年初演)とその続編とも言えるbloom(2006年初演)などの作品を題材に、グローバリゼーションという名の脱領土化、強制されるのではなく自ら望んで行う越境と転位、そしてそれらの舞台となる境界領域(borders)における演劇の生成について考えてみたい。あえてカナダやアルゼンチンといった別の場所からアメリカを眺めることで、その視差の内に浮かび上がるアメリカの姿を素描することができるのではないだろうか。

Chiori Miyagawaの戯曲にみる暴力、ジェンダー、「家族」の解体――Woman Killerを中心に
京都学園大学 古木 圭子

 1.5世代の日系アメリカ人劇作家Chiori Miyagawaの戯曲には、過去の文学作品とのコラボレーションが多くみられる。劇作家のとしてのキャリアの出発点となった清水邦夫の『楽屋』(1977)の翻案戯曲The Dressing Room (1991)には、後の戯曲に多くみられる時空間の超越という要素が顕著である。Thousand Years Waiting (2006) では、『更級日記』の作者と現代のニューヨークに住む女性が対話を交わす場面が繰り広げられる。そしてWoman Killer (2011) は、近松門左衛門の『女殺油地獄」(1721)を現代ニューヨークに舞台を置き換えた翻案劇である。
 『女殺油地獄』の主人公与兵衛は、その放蕩三昧を家族から非難され、借金に追い詰められたあげく殺人を犯し、その制裁を受ける。一方のWoman Killerにおいては、放蕩息子は現代のブルックリンに住むClayとなり、ドラッグと娼婦Rebeccaに溺れてゆく過程で借金を重ね、一家の友人Jamesの妻Anneを金銭のために殺害する。本戯曲は殺人の場面で終幕を迎え、Clayの行く末やJamesの反応についての描写はない。さらに『女殺油地獄』とは異なり、Clayが体現する悪は他の家族にも潜んでいる要素として提示される。Clayは母Elizabethが、父の「事故死」に関与していた可能性さえ示唆している。またMiyagawaは、母、妻であることの意味を模索するAnneのセリフを創造し、その心の揺れが、借金と放蕩を重ねるClayへの同情へと変貌してゆく過程を描き、彼女とClayの結びつきを複雑化する。これらの要素を盛り込まれることで、Anneの殺害は、あらゆる人間関係に潜む罪の普遍的シンボルへと変容する。そのように考えると、国境や時空間を越える人物を創造する劇作家の試みは、親子、夫婦の関係に焦点をあてる「家族劇」に対する一つの挑戦であるとも考えられる。
 以上のような点から本発表では、Woman Killerを中心に、Miyagawaの戯曲における暴力、ジェンダー、そして、血の繋がりという意味での「家族」を解体する試みについて考察する。

※第6回大会の参加申し込みはすでに締め切りました。当日参加をご希望の方は、9月8日までに学会事務局までメールでご連絡のうえ、当日受付で参加費(1日当たり1,000円)をお支払いください。
会場: エスカル横浜(横浜海員会館) (〒231-0023 横浜市中区山下町84番地)
交通アクセス: みなとみらい線「元町・中華街駅」3番出入り口すぐ、<新幹線>「新横浜駅」→JR横浜線「菊名駅」でみなとみらい線に、<飛行機>京浜急行「羽田空港駅」→「横浜駅」でみなとみらい線に、または京急リムジンバス「羽田空港」→「山下公園」から徒歩4分
エスカル横浜・地図

2015年9月30日
 日本アメリカ演劇学会お知らせ

*2015年第5回大会報告:
 2015年第5回大会は、「サム・シェパード研究」をテーマに、9月12日(土)・9月13日(日)の両日、大阪ガーデンパレスにて開催されました。
 1990年代後半以来、久しぶりにシェパードをめぐる大会となりましたが、両日とも活発な議論が交わされ、作家の新たな一面が浮き彫りになりました。詳細は「大会報告」欄に掲示してありますので、そちらもご覧ください。

*次回大会について:
 次回大会は「エスニック・マイノリティとアメリカ演劇」をテーマに、2016年9月10日(土)・9月11日(日)に東京で開催されることになりました。新旧問わず様々な作家と作品を取り上げ、アメリカ演劇の民族的多様性を探る企画です。つきましては、1日目の研究発表者を募集いたします。ご発表をお考えの方は、2016年1月末日までに学会事務局または代表幹事岡本太助までメールでご連絡ください。発表申込手続きの詳細については、折り返しご連絡差し上げます。多くの方のご応募をお待ちしております。

*機関誌『アメリカ演劇』の発行と原稿募集:
 現在『アメリカ演劇』27号(21世紀アメリカ演劇特集)への投稿論文の審査が行われています。年度内の発行を目指して鋭意編集作業を進めてまいりますので、今しばらくお待ちください。
 『アメリカ演劇』28号(サム・シェパード特集II)の原稿も募集しております。大会での発表者およびシンポジウムのパネリストからの投稿はもちろんのこと、それ以外の会員の皆様からの原稿もお待ちしております。特集以外の内容の原稿につきましても、アメリカ演劇に関する論文、上演レヴュー、書評なども掲載してゆく方針です。詳細は以下の投稿規定をご参照ください。投稿をお考えの方は、その旨を事務局または代表幹事岡本太助まで事前にメールでお知らせください。

『アメリカ演劇』投稿規定
1. 投稿論文はWordの電子ファイルとして作成し、電子メールに添付して本部事務局に送付のこと。
2. 内容  特集作家に関する未発表の研究論文(和文)。ただし、特集作家以外のアメリカ演劇に関する未発表の論文、エッセイ、記事も可。
3. 枚数  原則としてA4判用紙に縦書きで30字×30字とし、20,000字以内(後注、文献一覧を含む。)
4. 体裁  注は後注とし、本文の終わりにまとめ、引用文献一覧を付す。引用文は原文ではなく、和訳を記載する。外国の書名・作品名は和文で表記し、初出の箇所で和文の後に括弧をして原名を書く。その他書式の細部については、『MLA新英語論文の手引第6版』(北星堂)に従う。
5. 原稿の採否および掲載の時期は編集委員が決定する。
6. 採用論文の執筆者は原則として『アメリカ演劇』当該特集号を20部買い上げる。
7. 校正は原則として2回とする。
8. 宛先  日本アメリカ演劇学会事務局(E-mail: nihon_america_engeki@yahoo.co.jp)。件名は「『アメリカ演劇』原稿」とすること。
9. 締切は毎年7月31日(事務局必着)とし、事務局からの受信確認メールをもって受理されたものとする。応募原稿と略歴をそれぞれWordの電子ファイルとして作成し、電子メールに添付して学会事務局に提出すること。
※依頼原稿については、この限りでない。
(制定日2010年8月1日、改定日2012年8月1日)

2015年7月24日
 日本アメリカ演劇学会第5回大会プログラム

時:2015年9月12日(土)・13日(日)
会場:大阪ガーデンパレス
住所:〒532-0004 大阪市淀川区西宮原1-3-35
TEL:06-6396-6211(代表)
サイトURL:http://www.hotelgp-osaka.com/
交通アクセス:JR新大阪駅から地下鉄御堂筋線新大阪駅方向に進み、地上に出て西へ徒歩約10分。地下鉄2号出口を下りて左側にシャトルバス乗り場あり(15分ごとに発車、乗り場への経路は上記サイトを参照のこと)。

サム・シェパード研究

第1日 9月12日(土) 受付 13:50〜14:20 (会場 ホテル4階 401号室)
  研究発表 14:30〜18:00

司会:中央大学 黒田絵美子
1.高橋 典子(白百合女子大学・院)
 Buried ChildAugust: Osage Countyにおける、「母親がわり」の部外者たち
2.森 瑞樹(大阪大学・非)
 後期Shepardのドラマツルギー――ゼロ年代作品を中心に
司会:大阪大学 貴志 雅之
3.岡本 太助(九州大学)
 パフォーマンスと表出的アイデンティティ――Sam Shepard劇をめぐる理論的考察


  懇親会 18:30〜20:30 (会場 ホテル2階 楓の間)

第2日 9月13日(日) (会場 ホテル4階 401号室)
  シンポジウム  9:00〜12:00(前半)/13:00〜14:00(後半)
  総会  14:00〜15:00

シンポジウム:「メディアミックスの観点から読み解くSam Shepard」
司会兼パネリスト:  近畿大学  森本 道孝
パネリスト:  お茶の水女子大学  戸谷 陽子
   神戸大学  山本 秀行
   京都学園大学  古木 圭子

研究発表
司会 中央大学 黒田絵美子
1.Buried ChildAugust: Osage Countyにおける、「母親がわり」の部外者たち
白百合女子大学(院) 高橋 典子
 ウィリアムズ、オールビー、オニールに代表されるアメリカの家庭劇は「機能不全」の家族の物語を多く扱ってきたが、1979年にピュリッツアー賞を受けたSam ShepardのBuried Childもまたその流れの中にあり、家族としての機能を果たさなくなった血縁者たちの物語である。この劇の奇妙な空気を作り出している要因のひとつに、Halieの「母性の放棄,不在」があげられる。ノーマン・ロックウエルの絵のように、病気の夫を気遣い、息子たちの世話を焼き、久しぶりに訪ねてきた孫と彼のガールフレンドを暖かく歓迎する、そういう古き良きアメリカの母親的行動をとるのが「機能する」母とするなら、Halieの行動は、そこからかけ離れている。家族たちの関係性の輪の外に身を置いて、手を差しのべないという「機能不全」の母である。父親と息子のつながりを軸とする、男性性・父性からこの劇をとらえるという従来の見方から、子を持つという私自身の体験を経て変わってきた、女性性・母性から家族の関係をとらえるという視点で、この劇を考えたい。
 また、その母性の不在の隙間に滑り込むように現れる、孫のガールフレンドShellyの役割について、「母親代わり」という視点からとらえてみる。その比較対象として、2008年にピュリッツアー賞戯曲部門賞とトニー賞演劇作品賞を受賞したTracy LettsのAugust: Osage Countyを見る。病気の父と息子たちというBuried Childの家族関係に対し、Augustには病気の母と娘たちという家族関係があり、どちらにも「家族の汚点」ともいえる秘密がある。 家族に関わろうとしないHalieと、家族を毒のある言葉で苛むAugustのVioletは、まったくタイプは異なるが共に「機能不全」の母親であり、その「不全」をより際立たせて見せているのが、それぞれの劇に登場する、外から来た女性たちである。Augustでは、Violetの代わりに母親役を務めるのはネイティブ・アメリカンの家政婦Johnnaである。
 この2つの劇の「機能不全の母親」と「母親代わり」の共通点と相違点を、それぞれの作者の故郷であり、また舞台の設定場所でもあるイリノイとオクラホマの気候風土・歴史的背景、および劇の中で行われる親から子への継承と関連づけながら考察したい。

2.後期Shepardのドラマツルギー――ゼロ年代作品を中心に
大阪大学(非) 森 瑞樹
 ロックンロール等の音楽的要素やアバンギャルド等の当時の芸術的トレンドの影響を色濃く映し出す初期。演劇キャノンのドラマツルギーを吸収するとともに、物語性の充実を図ったことで一躍指折りの演劇脚本家に数えられるまで上り詰めた中期。そして現在進行形の後期。Sam Shepardの劇作の系譜に大まかなインデックスを付すのならば、以上のように大別できるかもしれない。このような流れのなかで、劇的プロットの必要性、また物語世界の時間軸的遡及性と進展性に囚われることなく、劇場内で観客が体験する事象もしくは体験そのものが全てというような、切り離され浮遊する現在を表象しようと試みた初期から、血統等のモチーフを巧みに取り入れ、時間の奔流を基にして湧き上がるアメリカ的神話やアイデンティティの有様を暴きだそうと思索した中期への推移は、Shepard自身の歴史/伝統/芸術に向けられた眼差しのドラスティックな転換を如実に浮き彫りにしている。
 ただ興味深いことに、前衛を追究するよりもむしろ、いわばキャノンに習うことで手に入れ、練り上げた諸々のドラマツルギーを、今現在のShepardは初期の作風に回帰することで解体し再構築しようとしている節がある。中期で重要な役割をはたしたモチーフを取り入れこそしてはいるものの、例えばKicking a Dead Horse (2007)は、Shepardが得意とするダイアローグによる弁証法的物語展開を廃し、プロットの必然性を大胆に切り捨てたモノローグで展開するオープンエンドの物語である。しかし、単にこれをShepardのアバンギャルドへの懐旧だとか演劇的慣習への諦観だと結論付けてしまうのは尚早なのではないだろうか。そこで本発表では、初期Shepard作品の文化的あらましを捉え直すと同時に、特に2000年代の作品に注目することで、後期への変遷が描き出す現在進行形のShepardの芸術性のあり方を探ってみたい。

司会 大阪大学 貴志 雅之
3.パフォーマンスと表出的アイデンティティ――Sam Shepard劇をめぐる理論的考察
九州大学 岡本 太助
 従来のSam Shepard研究においては、以下のような議論が一定のコンセンサスを得ている。(1)Shepard劇を実験的な初期、リアリズム寄りの中期、社会的イシューに接近しつつも技法的には初期に回帰する後期に分ける、≪劇作法の変遷≫をたどる言説。(2)カウボーイやひとり荒野に向かう男といった、アメリカ的でありなおかつポップカルチャー的でもある≪神話の類型≫に当てはめる解釈。(3)そしてとりわけ多くの批評において指摘されている、ほとんどの作品が何らかの形で≪アイデンティティの問題≫を扱っているという事実。(1)に関しては今回分析の対象として取り上げる初期の4-H Club、La Turista、中期のCurse of the Starving Class、後期のKicking a Dead Horseなどの作品の間にも明確な技法の変化が確認される。(2)については、現実からの逃避としての異郷への旅が喚起するロマンティシズムとその挫折、あるいは以前別のところで論じた劇中における「死せる動物」の存在などが、テーマとして通底している。これらの点について作品を間テクスト的に分析すると、時代とともに変化するShepard劇は、実のところ同じテーマの様々な変奏である可能性が浮上する。これを、反復可能性に依拠しつつも反復され得ないものであるという、≪パフォーマンスの両義性≫として捉えることで、Shepardにおけるアイデンティティの問題に新たな光を当てることが可能ではないだろうか。
 以上のような論点から、本発表では、Shepard劇におけるアイデンティティを、解釈を施すべき所与の現実としてではなく、パフォーマンスの行為を通じて演劇的にそして儀式的に生み出される「表出的アイデンティティ」として捉え、それについての理論的考察を試みる。とりわけ、戯曲テクストとパフォーマンスをそれぞれ素材とその表現として分割するのではなく、一方が既に他方を内包し、なおかつお互いを変化させるものであることを論じてみたい。

シンポジウム

「メディアミックスの観点から読み解くSam Shepard」
司会兼パネリスト:  近畿大学  森本 道孝
パネリスト:  お茶の水女子大学  戸谷 陽子
   神戸大学  山本 秀行
   京都学園大学  古木 圭子

 劇作家としてのSam Shepardは、Buried Childでのピューリツァー賞の受賞をはじめとして、いわゆる家族劇として発表した作品の評価が高い。しかしながら、彼の経歴を眺めると、その関心はMotel Chroniclesなどの詩やエッセイといった執筆に関連した活動はもちろんであるが、それにとどまることなく、音楽、俳優業、映画脚本の作成など多様な領域へと広がっている。また、Joseph Chaikinらとの共作にも積極的である。
 例えば音楽に関しては、自身がドラムを叩いて帯同したBob Dylanのツアーを記録したRolling Thunder Logbookの執筆がある。このような音楽への関心は、ロック音楽の生演奏を盛り込んだ自身の劇作品The Tooth of Crimeなど初期の作品群に特に顕著に見られる。
 また、俳優業としては、映画The Right Stuffでのアカデミー賞助演男優賞のノミネートが最も有名であるが、そのほか数多くの作品に出演している。また、Fool for Loveのように、劇作執筆から始まり、映画版の脚本の担当、さらには主役まで自身で演じた作品もある。さらに、脚本としては、自身のMotel Chroniclesを原案として脚色したWim Wenders監督によるParis, Texas、初めて自身が映画監督としてもかかわったFar North、そして自身が出演もしたDon’t Come Knockingなどを挙げることができる。
 本シンポジウムでは、このような多岐にわたるShepardの活動にも十分に目を配ることで、メディアミックスという観点から彼の劇作品群を改めて読み解くことを試みたい。その際には、原作劇と映画脚本あるいは彼自身の演技とつながりについて、劇作品内部における映画というメディアの扱いや音楽の扱いについて、さらには、彼自身が体現するイメージから見るShepard自身のメディア化について、など多様なアプローチが可能である。
 さらには、初期作品群から家族劇の時期を経て最近の作品に至るまでのキャリアを、できる限りバランスよく取り上げ、時期によってメディアとのリンクがどのように変化しているのかについても検討したい。様々な領域にまたがるジャンルでの活動によって、彼の劇作品がプラス・マイナス両面でいかなる影響を受けているのかを明らかにすることで、新たなSam Shepard像を発見することができると思われる。
(森本 道孝)

情動のドラマツルギー
――Sam Shepard 初期戯曲における感情の構造と音楽的抽象表現の配置
お茶の水女子大学 戸谷 陽子

 1963年、弱冠20歳でNew York Cityに移り住み、Village Gateで皿洗いをしながら当時隆盛を極めていたカウンターカルチャーとダウンタウンの実験演劇に立ち会うこととなったSam Shepard (1943-)は、La MamaやCafe Cino等で作品を発表し、次第にオルタナティヴな空間で頭角を現す。当時の戯曲は、その後Curse of the Starving Class (1977)、Buried Child (1978)等メジャーに承認され、一般観客にもアクセス可能な参照項と劇構造をもつ作品とは異なり、シュールレアリスティックなイメージが散漫かつ衝動的に挿入される無手勝流ともいえる劇作のスタイルが特徴的である。こうした特徴は、The Open Theaterを主宰したJoseph Chaikin (1935-2003)の知己を得て、ダウンタウンの実験演劇が標榜した身体や演技、上演空間の実験を体験した影響と、加えて独特の音楽的要素の配置が大きく関わっていると思われる。
 しばしば登場人物としてミュージシャンが登場し音楽を演奏するShepard劇の音楽性については指摘されるところであるが、テクストの特徴として挙げられるのは、Jack Kerouacが好んで採用した‘jazz sketching’の手法である。テンポやコード進行にこだわらずに進行するフリージャズセッションのように、初期の戯曲はポップなイメージが流れや連想により配置され、即興的に、予測不能な方向に「トリップ」し、理解可能な終息をみないことも多い。音楽に身を委ねるような、抽象表現主義絵画やアクションペインティングに立ち会うような体験を提供するテクストには、理性や感情による世界の把握といった演劇のアジェンダとは異なる、分節化されることのない抽象的な情動が書き込まれ、それを誘引する「上演」の要素を吟味する必要があると考える。
 本報告では、Shepard初期一幕劇Chicago (1965)、Icarus's Mother (1965)、Red Cross (1966)、Melodrama Play (1967)等を中心に、その後の Cowboy Mouth (1971)、Suicide in B Flat (1976)、Angel City (1976)を含め、Shepard初期戯曲に配置された音楽の要素とそれに連動する情動について、カウンターカルチャー、ヴェトナム戦争、戦後冷戦期といった時代の影響を考慮しつつ検討する。

抵抗のロック音楽――Sam Shepard作品に見るアンチエイジング志向
近畿大学 森本 道孝

 Sam Shepardの劇作品の中ではBuried Child (1978)をはじめとするいわゆる家族劇の存在が大きい。これらにおいては、息子の台頭に脅かされる父親という関係性に顕著な男性間の世代交代がテーマとなっているが、特に脅かされる側の世代は、その原因を自身の身体的な衰えに見出し、様々な手段を用いてそこから逃れようとする。家族劇では逃亡や忘却という逃避的な手段が用いられることもある。しかし、Shepard劇全体を見渡してみると、自身の衰えに抗う形で暴力などの強硬な手段によって自身の力を誇示しようとすることで、次世代への正面からの対抗を試みる男性版のアンチエイジング志向とも言える積極的な手段に出るケースも少なくない。例えば、The Tooth of Crime (1972)における若手ミュージシャンCrowに対抗心を燃やすHossはその典型と言える。
 また、Shepardと音楽の関係は、かなり密接である。自身がドラムを叩いていた経験もあり、彼の作品には音楽が満ちている。The Tooth of Crimeの他にも、ロックバンドが劇中歌を演奏したMelodrama Play (1967) をはじめ、彼自身がドラマーとして所属していたホーリー・モーダル・ラウンダーズの音楽を挿入し、作品内の楽譜も記載されている Operation Sidewinder (1970) など、多くの作品が音楽とリンクしている。
 このような1970年前後のShepardは、若者文化の代表としてのイメージがある一方で、年齢を重ねる中で期せずして体制側に取り込まれていかざるを得ないというギャップのある状況に苦悩し、ロック音楽の本場であったロンドンへの移住まで決意するに至る。つまり、彼が苦境から逃避するための希望の光として選択したのは音楽、しかも若者文化の象徴とも言えるロック音楽であったのである。この苦悩からの逃避として選択したイギリス滞在を経て完成されたThe Tooth of Crime には、若者文化の代表と言えるロック音楽によるShepardなりのアンチエイジング的な抵抗が結集されていると考えられる。
 本発表では、Shepard自身および彼の作品内の男たちとロック音楽との関連を、後の家族劇における世代交代への恐怖に怯える男たちのアンチエイジング志向の抵抗につながる萌芽として読み解く。これによって、初期劇作品群から家族劇への展開に新たな視座を提供したい。

演劇と映画の境界を超えるSam Shepard
――「本当の」西部/アメリカ、「失われた」父親/家族を探して
神戸大学 山本 秀行

 Sam Shepardと映画との関わりは、1963年の映画Apples in the Treeへの出演に遡る。その後、Shepardは、俳優として、アカデミー助演男優賞ノミネートのThe Right Stuff (1983)、Cinema Writers Circle Award主演男優賞ノミネートのBlackthorn (2011)など、約60本の映画に出演してきた。脚本家としては、Robert Frank監督のMe and Brother (1969)とMichelangelo Antonioni監督のZabriskie Point (1970)に脚本家の一人として関わった他、Robert Altman監督のFool for Love映画版(1985)で脚本(兼出演)、Wim Wenders監督のParis, Texas (1984)で監督との共同脚本、同じくWenders監督のDon’t Come Knocking (2005)で監督との共同脚本(兼出演)を手がけた。また、1988年のFar Northで初の監督(兼脚本)、1994年のSilent Tongueでも監督(兼脚本)を務めている。これほど映画界でマルチに活躍する劇作家は、アメリカ演劇史上、Shepardの他にいないが、如何せん彼の映画の仕事は、殊にアカデミズムにおいて劇作家の「余技」として過小評価されがちである。
 本発表では、特にShepardが脚本・監督を手がけた二作品Far NorthSilent Tongue、およびWenders監督とのコラボレーションによる二作品Paris, TexasDon’t Come Knockingを取り上げる。西部劇やロード・ムービーというハリウッド映画のフォーミュラの借用により、「本当」の西部/アメリカ、「失われた」父親/家族の探求という自身の演劇にも通底するテーマにShepardはいかに取り組んでいるのか、また、そもそも、そうした映画との関わりが彼の演劇にいかなる影響を与えているか、など考察する。そうすることで、映画と演劇という境界を超えるShepardのクロス・メディア的側面を再評価したい。

「埋められた子供」の救済――Sam ShepardのHeartlessとBuried Child
京都学園大学 古木 圭子

 Sam ShepardのHeartless (2012) は、女性登場人物の視点が中心に置かれているという点で、Shepardの劇作キャリアにおいては特異な作品である。母と娘が家に留まるという終幕は、孫/息子が家を受け継ぐことで血の継承を提示したBuried Child (1978)とは対極を成す。その一方、Buried Childで「埋められた子供」は、Heartlessにおいて、心臓移植手術によって命を取り留めたSallyとなって甦ったとも考えられる。
 Buried Childの父親Dodgeは、病のために身体の自由を奪われ、家長としての権限を持たない存在であり、非情なVinceが彼の財産を相続することは、単に権力の移行を示し、そこに祖父と孫の間の情愛は介入しない。一方、Heartlessの母Mableは、車椅子生活を強いられながらも、長女Lucyと看護師Elizabethの上に君臨する家長の立場を保持し、母の存在意義とその愛情の尊さについて繰り返し語る。
 次女のSallyが家に留まるHeartlessの終幕は、相続人としてのVinceの役割を彷彿とさせるが、母を世話する娘の役を拒み、映画を撮ることを「ライフワーク」とするSallyは、Elizabethにカメラを壊されて「ライフワーク」を奪われたことにより、母と共に留まることを受け入れる。このカメラの破壊が、彼女への心臓の提供者であるElizabethによって行われることは注目に値する。その破壊行為は、殺人の被害者Elizabethに対してずっと罪の意識を持ち続け、彼女を分身としてみなして生きてきたSallyへの赦しの行為と解することも可能である。
 Sallyの映画のテーマは、ボーイフレンドの熟年男性Roscoeの人生であるが、その内容が、まとまりのない彼の私生活の断片であることや、Roscoeが、Sallyの実の父親と同様に妻子を捨てて放浪している男性であることから、彼女の映画製作は、父親像の探求であったとも考えられる。しかし、Roscoeは長女のLucyと共に去り、Sallyは彼との決別を最終的に受け入れることで、父親から見放された娘という呪縛から解放され、Mableの娘としての自己を受容する。その点において、カメラの破壊は逆説的にSallyの救済を意味する。
 Buried Childでは、罪を背負って生まれてきた子供が、救済を受けることなく「埋められた」が、Heartlessの「子供」には、罪の意識、孤立感を克服する道筋が示されている。以上の点から、HeartlessBuried Childにおいて未解決であった問題に対する一つの解決策を示す作品として考察したい。

会場: 大阪ガーデンパレス (〒532-0004 大阪市淀川区西宮原1-3-35 )

大阪ガーデンパレス・地図

※会員ではない方も、当日参加費(1日あたり2,000円、学部学生は1,000円)をお支払いいただければご参加いただけます。参加希望とお問い合わせは、学会事務局までメールをお送りください。

2015年2月16日
 第5回大会発表者募集

 次回の大会は「サム・シェパード研究」をテーマに、2015年9月12日(土)・9月13日(日)に大阪ガーデンパレス(大阪市淀川区西宮原1-3-35)で開催の予定です。新旧のシェパード劇作品はもちろんのこと、役者としてのシェパード、シェパードと映画・音楽など、幅広い視点で再考しようという企画です。つきましては、1日目の研究発表者を募集いたします。ご発表をお考えの方は、2015年2月末日までに学会事務局または代表幹事岡本太助までメールでご連絡ください。発表申込手続きの詳細については、折り返しご連絡差し上げます(発表要旨の提出期限は5月頃の予定です)。多くの方のご応募をお待ちしています。


2015年2月16日
 機関誌『アメリカ演劇』の発行と原稿募集

 『アメリカ演劇』26号(ユージーン・オニール特集III)の編集作業が完了いたしました。3月中旬の発行を予定しています。
 『アメリカ演劇』27号の原稿も募集しております。前回大会のテーマでありました21世紀アメリカ演劇特集号です。大会での研究発表者およびシンポジウムのパネリストからの投稿はもちろんのこと、それ以外の会員の皆様からの原稿もお待ちしています。特集以外の原稿につきましても、アメリカ演劇に関する論文、上演レヴュー、書評なども掲載してゆく方針です。詳細は以下の投稿規定をご参照ください。投稿をお考えの方は、その旨を事務局または代表幹事岡本太助までメールで事前にお知らせください。

『アメリカ演劇』投稿規定
1. 投稿論文はWordの電子ファイルとして作成し、電子メールに添付して本部事務局に送付のこと。
2. 内容  特集作家に関する未発表の研究論文(和文)。ただし、特集作家以外のアメリカ演劇に関する未発表の論文、エッセイ、記事も可。
3. 枚数  原則としてA4判用紙に縦書きで30字×30字とし、20,000字以内(後注、文献一覧を含む。)
4. 体裁  注は後注とし、本文の終わりにまとめ、引用文献一覧を付す。引用文は原文ではなく、和訳を記載する。外国の書名・作品名は和文で表記し、初出の箇所で和文の後に括弧をして原名を書く。その他書式の細部については、『MLA新英語論文の手引第6版』(北星堂)に従う。
5. 原稿の採否および掲載の時期は編集委員が決定する。
6. 採用論文の執筆者は原則として『アメリカ演劇』当該特集号を20部買い上げる。
7. 校正は原則として2回とする。
8. 宛先  日本アメリカ演劇学会事務局(E-mail: nihon_america_engeki@yahoo.co.jp)。件名は「『アメリカ演劇』原稿」とすること。
9. 締切は毎年7月31日(事務局必着)とし、事務局からの受信確認メールをもって受理されたものとする。応募原稿と略歴をそれぞれWordの電子ファイルとして作成し、電子メールに添付して学会事務局に提出すること。
※依頼原稿については、この限りでない。
(制定日2010年8月1日、改定日2012年8月1日)

2014年10月6日
 日本アメリカ演劇学会お知らせ

*2014年第4回大会報告:
 2014年度第4回大会は「21世紀アメリカ演劇研究」をテーマに9月20日(土)・9月21日(日)、ホテル・ルブラ王山で開催されました。
 2000年以降の新たな作品と作家を取り上げる試みでしたが、両日とも様々な切り口から興味深い発表と活発な質疑応答が行われました。詳細は「大会報告」欄に掲示してありますので、そちらもご覧ください。

*第4回総会――次期役員選挙開票と次回大会テーマ・時期・開催地の決定および発表者募集:
 大会二日目シンポジウム終了後の総会では、2013年度の会計報告・承認、次回大会のテーマ・時期・開催地の決定を経て、次期役員選挙の開票が行われました。開票の結果、次期役員は以下の通り総会の場で承認され、本人の承諾を得て決定されました。

日本アメリカ演劇学会役員(2015年4月1日〜2017年3月31日)
会  長:  貴志 雅之(大阪大学)
副 会 長:  黒田絵美子(中央大学)
評 議 員:  舌津 智之(立教大学)
   竹島 達也(都留文科大学)
   戸谷 陽子(お茶の水女子大学)
   原 恵理子(東京家政大学)
   古木 圭子(京都学園大学)
   山本 秀行(神戸大学)
編集委員:  岡本 太助(九州大学)
   黒田絵美子
   原 恵理子
   古木 圭子
   山本 秀行
地区委員:  (東 京) 大森 裕二(拓殖大学)
   (名古屋) 藤田 淳志(愛知学院大学)
   (大 阪) 天野 貴史(摂南大学)
   (大 阪) 森本 道孝(近畿大学)

 なお、事務局幹事、顧問、監事の人選につきましては、評議員会と会長、副会長に委ねられます。全役員の構成につきましては、次期役員任期開始までにあらためてお知らせいたします。
 次回大会は「サム・シェパード研究」をテーマに、2015年9月12日(土)・9月13日(日)に大阪で開催されることになりました。新旧のシェパード劇作品はもちろんのこと、役者としてのシェパード、シェパードと映画・音楽など、幅広い視点で再考しようという企画です。つきましては、1日目の研究発表者を募集いたします。ご発表をお考えの方は、2015年1月末日までに学会事務局または代表幹事岡本太助までメールでご連絡ください。発表申込手続きの詳細については、折り返し連絡を差し上げます。多くの方のご応募をお待ちしています。

*機関誌『アメリカ演劇』の発行と原稿募集:
 現在『アメリカ演劇』26号(ユージン・オニール特集)への投稿論文の審査が行われています。年内の発行を目指して鋭意編集作業を進めてまいりますので、今しばらくお待ちください。
 『アメリカ演劇』27号の原稿も募集しております。今回のテーマでありました21世紀アメリカ演劇特集号です。大会での研究発表者およびシンポジウムのパネリストからの投稿はもちろんのこと、それ以外の会員の皆様からの原稿もお待ちしています。特集以外の原稿につきましても、アメリカ演劇に関する論文、上演レヴュー、書評なども掲載してゆく方針です。詳細は以下の投稿規定をご参照ください。投稿をお考えの方は、その旨を事務局または代表幹事岡本太助までメールで事前にお知らせください。

『アメリカ演劇』投稿規定
1. 投稿論文はWordの電子ファイルとして作成し、電子メールに添付して本部事務局に送付のこと。
2. 内容  特集作家に関する未発表の研究論文(和文)。ただし、特集作家以外のアメリカ演劇に関する未発表の論文、エッセイ、記事も可。
3. 枚数  原則としてA4判用紙に縦書きで30字×30字とし、20,000字以内(後注、文献一覧を含む。)
4. 体裁  注は後注とし、本文の終わりにまとめ、引用文献一覧を付す。引用文は原文ではなく、和訳を記載する。外国の書名・作品名は和文で表記し、初出の箇所で和文の後に括弧をして原名を書く。その他書式の細部については、『MLA新英語論文の手引第6版』(北星堂)に従う。
5. 原稿の採否および掲載の時期は編集委員が決定する。
6. 採用論文の執筆者は原則として『アメリカ演劇』当該特集号を20部買い上げる。
7. 校正は原則として2回とする。
8. 宛先  日本アメリカ演劇学会事務局(E-mail: nihon_america_engeki@yahoo.co.jp)。件名は「『アメリカ演劇』原稿」とすること。
9. 締切は毎年7月31日(事務局必着)とし、事務局からの受信確認メールをもって受理されたものとする。応募原稿と略歴をそれぞれWordの電子ファイルとして作成し、電子メールに添付して学会事務局に提出すること。
※依頼原稿については、この限りでない。
(制定日2010年8月1日、改定日2012年8月1日)

2014年9月17日
 日本アメリカ演劇学会第4回大会プログラム

時:2013年9月20日(土)・21日(日)
会場:HOTEL ルブラ王山
住所:〒464-0841 名古屋市千種区覚王山通8-18
TEL:052-762-3151(総合)/052-762-3105(宿泊)
サイトURL:http://www.rubura.org/
交通アクセス:名古屋駅より地下鉄東山線で13分、池下駅下車、2番出口より徒歩3分

21世紀アメリカ演劇研究

第1日 9月20日(土) 受付 13:50〜14:20(会場 ホテル地下1階かきつばた)
  研究発表 14:30〜18:00

司会:摂南大学 天野 貴史
1.村上 陽香(大阪大学・院)
 メタライティングとしてのI Am My Own Wife――歴史を語る媒体Charlotteと物語を語る作者Doug Wright
2.沖野真理香(高知工業高等専門学校)
 クィア劇としてのnext to normal――アメリカ演劇における「天使」を手掛かりに
司会:お茶の水女子大学 戸谷 陽子
3.黒田絵美子(中央大学)
 「喪失」のドラマ――David Lindsay-AbaireのGood People分析

  懇親会 18:30〜20:30(会場 ホテル2階千成)

第2日 9月21日(土) 受付 13:50〜14:20 (会場 ホテル地下1階かきつばた)
  シンポジウム  9:00〜12:00(前半)/13:00〜14:00(後半)
  総会  14:00〜15:00

シンポジウム:「21世紀、変わる/変わらないアメリカとアメリカ演劇」
司会兼パネリスト:  愛知学院大学  藤田 淳志
パネリスト:  大阪大学(非)  森  瑞樹
   愛知大学  川村 亜樹
   九州大学  岡本 太助

研究発表
司会 摂南大学 天野 貴史
1.メタライティングとしてのI Am My Own Wife
  ――歴史を語る媒体Charlotteと物語を語る作者Doug Wright
大阪大学(院) 村上 陽香
 Doug WrightのI Am My Own Wifeは、実在した旧東ドイツの異性装者Charlotte Von Mahlsdorfの生涯を題材にして描かれた作品である。彼女はクイアであると同時に、ナチス政権、共産主義という20世紀ドイツ政治史の生き証人であり、以前からゲイについての劇を書きたいと思っていたWrightにとっては恰好の題材となった。Wrightは数年に渡ってCharlotteの下を訪れ、インタビューを繰り返すことでこの作品を生みだす。
 Charlotteは“die Grunderzeit”(創成期、ドイツにおける1890-1900年の期間)の家具類を集めたDas Grunderzeit Museumの管理者でもある。そこには棚や時計など当時のあらゆる家具が収集され、ありのままの姿で保存されているが、その中でもCharlotteがとりわけ強い思い入れを持つのが蓄音機である。彼女の若い頃にはすでにラジオが普及しており、蓄音機はあまり持てはやされないものであった。しかし彼女は生涯ラジオもテレビも持たず、蓄音機でレコードを流すことを楽しみとしていた。
 また、Charlotteは東ドイツ唯一のワイマール・キャバレーを守り抜いた人物としても知られている。そこには当時「いないもの」とされていたゲイやレズビアンが集っていた。Wrightは彼女を「真のゲイ・ヒーロー」と感じ、Charlotte Von Mahlsdorf称賛劇を計画した。しかし、彼女が実は東ドイツ秘密警察の内通者であり、キャバレーもその密告のために使われていたという情報が流れる。Charlotteの二面性に困惑したWrightは本作をCharlotteの伝記的な劇から、Charlotteとの対話を通じて彼女に魅了され、戸惑いながらも彼女のことを描こうとする自分自身のメタライティング的な劇へと変更した。
 本発表では、Charlotteが強い思い入れを持っていた蓄音機とこの作品の「一人芝居」という大きな特徴に注目し、過去の物語を再生してみせる蓄音機=Charlotteという多声的な媒体について考察する。また、この作品には作者もDougとして登場し、Charlotteとのインタビューを重ね、新たな情報を得ては劇作について悩む様子が描かれている。Charlotteの語る「歴史」の不確実性と、翻弄されつつもそれを再構築し「物語」として語る作者Doug Wrightについて考えたい。

2.クィア劇としてのnext to normal――アメリカ演劇における「天使」を手掛かりに
高知工業高等専門学校 沖野真理香
 2010年にピューリッツァーを受賞したロック・ミュージカルnext to normal (2008)は主人公が双極性障害の治療のために脳に電気ショックを受けるという、現代を舞台とした作品としてはショッキングな内容を扱っている。本作品が提示する“next to normal”なものとは何なのか。主人公の精神状態のことだけを示しているのだろうか。
 郊外に住む主婦Dianaが精神疾患の外科治療にさらされるという点で、本作品への批評はジェンダー・マイノリティである女性への抑圧ばかりに焦点が集まりがちであった。しかし、Dianaの息子Gabeをセクシュアル・マイノリティであると仮定して考察を行うことで、舞台は別の様相を帯びる。仮定を検証する際、手掛かりとなるのはアメリカ演劇における「天使」の表象である。我々は一般的に、人間の身体に鳥のような翼を持つ者を天使として認識する。天使がもたらす宗教的意味や「純真」「無垢」といったイメージではなく、その身体に注目すると、天使はグロテスクな「奇形」――フリーク――に他ならない。そこで、Tennessee Williamsの作品などを参考に、天使をフリークとして捉えた場合、天使はセクシュアル・マイノリティと結びつくものであるということを確認する。さらに、アメリカ演劇で「天使」が果たしてきた役割を、Angels in America (1991, 1992)における天使やRent (1996)に登場するドラァグ・クイーンAngelなどを通して考える。これらの作業を通して、Gabeがnext to normalの舞台上における「天使」であるということを主張したい。
 以上のように、本研究発表は、これまでのnext to normalの劇評で見過ごされがちであったセクシュアリティの問題に焦点を当てることにより、本作品をクィア劇として再考する試みである。

司会 お茶の水女子大学 戸谷 陽子
3.「喪失」のドラマ――David Lindsay-AbaireのGood People分析
中央大学 黒田絵美子
 20世紀アメリカ演劇の代表作であるA Streetcar Named Desire (1947)とDeath of a Salesman (1949)に共通するキイワードは「喪失」である。劇の冒頭、Blanche DuBoisは職を失い、住む家も失い、恋人も失った状態でNew Orleansに現れる。同様にWilly Lomanも職を失う寸前の疲れきった状態で舞台に登場する。愛する息子Biffからの信頼ははるか昔に失っている。舞台上で繰り広げられるのは、いわば主人公たちの「喪失」との闘いのドラマである。
 本発表では、2007年にRabbit Hole でPulitzer賞を受賞し、現在Broadwayをはじめアメリカ内外でその作品が上演されているDavid Lindsay-Abaire (1969- )のGood People (2011)を「21世紀の喪失のドラマ」という観点から分析する。
 主人公のMargaretはWilly 同様、職を失い、家賃が払えなければ住む部屋も失うかもしれないという危機に瀕している。窮状を脱するため、Margaretが救いを求めるのは、医師として成功している高校時代の恋人Mikeである。Blancheが語るかつての恋人Shep Hantleyを彷彿とさせるような成功者Mikeに対し、Margaretは自分が人生において得られなかったものや喪失したものを要求するかのような強引な振る舞いをする。
 21世紀のプアホワイトともいうべき恵まれない立場にあるMargaretには、生まれつき重度の精神障害を負った娘以外に家族はない。BlancheやWillyの喪失との闘争に家族が深く関わっていたのに対し、Margaretの場合、アパートの隣人たちや職場の元上司が擬似家族として関わってくる。この点に着目し、失われた家族関係を補完する新たな形の「家族劇」という観点からも分析を加えたい。
 Arthur Millerは、Salesmanを書くに至った根底にある人生経験として、少年時代に体験したGreat Depressionがもたらした喪失感を挙げ、「まるでそれまであったshore lineが消えてしまったかのようだった」と説明している。一方、Good Peopleが書かれた経済的時代背景として、1990年代以降、長期にわたって続いたNew Economyと呼ばれる好景気に陰りが見え始めた2001年9月11日に起こった同時多発テロ、そしてNew Economyが幻想に過ぎなかったことが完全に証明されてしまったLehman Shockがある。本発表では、「喪失」をキイワードとしてSalesman, Streetcarにおける喪失のドラマとの比較をベースにGood PeopleのMargaretが失ったshore lineとは何か、ひいては21世紀初頭のアメリカが遭遇した「喪失感」とは何かを探っていきたい。

シンポジウム

「21世紀、変わる/変わらないアメリカとアメリカ演劇」
司会兼パネリスト:  愛知学院大学  藤田 淳志
パネリスト:  大阪大学(非)  森  瑞樹
   愛知大学  川村 亜樹
   九州大学  岡本 太助

 21世紀に入りすでに10年を超える年月が経った。アメリカは大きく動いたかと思えばすぐにバックラッシュを繰り返す振り子のようなダイナミズムの中にあるように見える。本シンポジウムは21世紀に入って上演され、注目された代表的な作品を取り上げる。
 9.11の後、リベラル・メディアまでが扇動した対テロ戦争のなか、国民の大きな支持を得たG・W・ブッシュ政権は大義がなかったイラク戦争や2005年 のハリケーン・カトリーナの失策などにより失墜した。その後オバマが変化と希望を掲げて黒人初の大統領になった。2008年のリーマン・ショックに始まった不況もあり、リバタリアン的なティー・パーティー運動が共和党内で力を持ち、財政を混乱させるとともにアメリカの内向化を促している。アメリカが新興国の台頭とともに超大国としての自信を失う中、2013年9月オバマが宣言していたシリアへの攻撃を断念したことは一つの象徴的な出来事だった。変動する世界情勢の中でアメリカの相対的な地位は低下を余儀無くされている。
 国内では不十分ながら国民皆保険制度がなんとか開始され、2期目のオバマが掲げる人権問題の主要テーマである結婚の平等(同性婚)は過去の歴史に類を見ないほどのスピードで進んでいるように見える。その一方で、サンディフック小学校銃乱射事件(2012年12月)などの悲劇を繰り返しながらも一向に進まない銃規制の問題や、トレイボン・マーティン事件(2012年2月)に代表されるような人種の問題も根深さを強調するばかりである。経済に至っては、2011年の「ウォール街を占拠せよ」運動も明らかにしたように格差社会は生命を左右するほど深刻さを増し、それでも政治家が「富の再分配」を口にすることすらできない状況もある。
 アメリカ演劇はこれら全ての問題を公平に描いてきたわけではない。またミュージカルを中心にブロードウェイが活況を呈する中、セリフ劇といえば安定した興業が見込めるハリウッド・スターを起用したリバイバル作品が多くを占め、オフ・ブロードウェイのセリフ劇を見に行って驚くのは、観客の年齢層の高さである。
 それでも今回の発表者らが取り上げる作品群のように、批評、興業面で成功する作品は出続けている。上に挙げたような混沌とする社会状況の中で作られ、ブロードウェイやオフ・ブロードウェイ、リージョナル・シアターなどの大きな社会・経済活動の中で上演され、多くの観客によって見られ、また読者にも読まれた演劇は同時代のアメリカと密接に関わり、それを表象している。また、これらの作品は新しいアメリカ演劇としての特徴と、それ以前のアメリカ演劇の伝統的な要素の両者を兼ね備えている。これが「変わる/変わらないアメリカとアメリカ演劇」であり、各発表者は様々な分析の視点を提供する。
(藤田 淳志)

3DCG時代の演劇的想像力――David Lindsay-Abaireを中心に
大阪大学(非) 森  瑞樹

 映画等で使用される映像表現技術の飛躍的進歩は、作家の想像力を刺激するとともにそのイメージを具現化し、物語世界を生々しいまでに現前させ始めた。しかしそれにより、物語と読み手(観客)の間に不可避的につきまとう間主観的複雑性は解消され、単純化されたようにも感じる。このような技術的躍進は、演劇的慣習に頼らざるを得ないという演劇の視覚表現の特質を改めて露見させもするが、それは演劇的表現の可能性の限界を示すものではない。演劇はこのような視覚的情報過多な文芸時代に対峙しながら、物語ることの本質に回帰してゆくのではないだろうか。そして、このように制限された想像力にこそ、21世紀の演劇の可能性を垣間みることができるかもしれない。
 映画と演劇という両メディアで精力的な活動を続けているDavid Lindsay-Abaireの特質のひとつは、映画Inkheart (2008)で朗読することにより物語世界を現実にする主人公の話からも伺えるように、物語と視覚の関係性を問うところにある。そこで本発表では、Abaire作品に着目することで、現代の演劇的想像力のあり方の一端を探る。映画においてはOz: The Great and Powerful (2013)をはじめとする、最新の3DCGを駆使した壮大なファンタジーを一貫して手掛ける一方で、演劇でのAbaire作品は素朴なヒューマン・ドラマになる傾向が見られる。しかし、Rabbit Hole (2005)では、幼子を失った夫婦の苦悩に光が当てられると同時に、因果への執着、相互不理解への恐怖といったテーマが問題視される。これらは視覚的単純化を被る3DCG時代の映画の特徴へと接続できる可能性がある。そこで、本作品のこれらテーマ、さらには多元宇宙論等の表象に目を向けることで、3DCG映画と演劇との間を巧みに飛び交うAbaireの演劇的想像力を検討する。

人種問題をめぐる白人の自嘲――オバマ大統領誕生後のシカゴ、クライボーン・パーク
愛知大学  川村 亜樹

 2012年にブロードウェイで上演され、ピューリッツァー賞、トニー賞などを受賞した、ブルース・ノリス(Bruce Norris)の『クライボーン・パーク』(Clybourne Park)は、「黒人」劇作家ロレイン・ハンズベリー(Lorraine Hansberry)による1959年初演の『ア・レーズン・イン・ザ・サン』(A Raisin in the Sun)に、50年後の2009年から応答するかたちで、「ポスト人種的笑劇」として、「チェンジ」は起こるかを問うている。だが、ノリスは「白人」で、テキサスに生まれ14歳になるまで接した「黒人」は乳母だけだった生い立ちを振り返り、自身を「人種差別主義者」という。それゆえ、『クライボーン・パーク』は「白人」の視点で、オバマ大統領誕生後のアメリカの人種関係を直視しようとする自虐的な作品ともいえ、劇場の観客の大半を占める中流階級以上の「白人」が笑いつつも身悶えする様を想定して制作したとされている。
『ア・レーズン・イン・ザ・サン』では、運転手としての自己に尊厳を感じられず拝金主義に陥る息子ウォルターと、医師を目指し神を信じない娘ベネッサとの世代間格差を感じつつ、ママ・リーナが「白人」居住区のクライボーン・パークの家を購入することで、アメリカン・ドリームを追求し、家族を基盤とする「黒人」にとっての「倫理感」を回復しようとしており、良くも悪くも変化が予見されていた。反して、『クライボーン・パーク』では、戦争の亡霊が漂いつつ、2009年を舞台として「白人」と「黒人」の登場人物たちが口論をエスカレートさせ、相変わらず人種をめぐる闘争は収まりそうにないが、その一方で、「白さ」を問うという大胆な政治的試みが展開されている。そこで本発表では、「白人」表象を考察したリチャード・ダイヤー(Richard Dyer)の『ホワイト』(White 1997)を理論的参照点とし、一見悲観主義者とも受け取れるノリスの脱構築主義的側面を炙り出し、『クライボーン・パーク』の台詞「なぜ白人女はタンポンみたいなの」の政治的意味を検討したい。

「理論以後」の21世紀アメリカ演劇――Rajiv Joseph劇に見る否定の存在論
九州大学  岡本 太助

 1983年初版のLiterary Theoryで文芸批評における「理論」の重要性を広く知らしめたTerry Eagletonは、20年後のAfter Theory (2003)においてその「理論」の終焉を宣言してみせた。しかしこれは批評理論が有効性を失ったということではなく、理論が自己完結した純粋にアカデミックなものであることをやめ、より社会の現実に根差した新たな実践的批評の営みの中へと浸透していったことを意味している。演劇研究・批評の分野でも、Palgrave Macmillan社から現在刊行されているTheatre &シリーズに見られるように、演劇的実践を中心に据えたうえで、グローバリゼーション、動物、多文化共生といった、現在の世界における重要テーマを相互に結びつけようとする動きが活発化している。これは言うなれば、演劇を通した批評理論の再編成の試みである。21世紀アメリカ演劇の動向を探るうえでも、「理論以後」の時代において演劇がいかに理論と向き合い、さらにはそうした理論にどのような知見を付け加えうるのかを考えてみる必要があるだろう。
 本発表では、2000年代後半から次々に話題作を発表しているRajiv Joseph (1974- )のいくつかの作品の間のつながりに注目し、理論と演劇的実践の関わりという視点から、21世紀アメリカ演劇の新しさを探る。具体的には、Bengal Tiger at the Baghdad Zoo (2009)、 The North Pool (2011)、Animals Out of Paper (2008)、Gruesome Playground Injuries (2009)の四作品を取り上げ、これらをゆるやかにつなぐテーマとしての亡霊と記憶、動物表象と人間性についての考察、身体損傷と情動、グローバル化にともなう転位の経験などを検討する。真正な経験と作られた見世物との境界線上に位置するのが演劇であることは確かだが、Joseph劇の特質は、その境界そのものを問題視するところにある。そして彼の作品に現れる理論的トピックは、おそらく「○○は〜ではない」 という否定形の存在論によって結びつくと思われる。以上の点に注目し、他の劇作家との比較も視野に入れながら、Rajiv Josephと理論の関係を探ることにしたい。

August: Osage Countyに見る家族崩壊の再演――新しい家族と家族劇
愛知学院大学  藤田 淳志

 トレイシー・レッツによるAugust: Osage County (2007)はシカゴの名門ステッペンウルフ・シアター・カンパニーが初演、そのままブロードウェイに移り、批評、興業共に近年稀に見る大きな成功を収めた。
 Augustはプロローグから三幕を通して装置転換のない家のセットで、解決できない問題に悩む家族を描く。『夜への長い旅路』をはじめアメリカ演劇のキャノンとされる数多くの作品の影響が見られるように、伝統的な家族劇の体裁をなしている。その一方、父の失踪によって久しぶりに一家が集まり次第に明らかになるたくさんの問題は、処方箋薬中毒、アルコール中毒から小児性愛、近親相姦にいたるまであまりに波乱に富んでいてソープオペラ的でもある。
 本発表はこのあからさまにアメリカ家族劇のパロディ的な作品の意図を探る。作者レッツの自伝的な要素も強いが、彼の過去の作品群を見ても、Augustが機能不全に陥った家族を描いてきたアメリカ演劇の伝統への単なるオマージュであると、一筋縄で解釈するわけにはいかない。
 特に注目したいのは家族の一員でないほとんど唯一の登場人物、お手伝いとして雇われたネイティヴ・アメリカンのジョナの存在である。プロローグでウェストン家の家長ベバリーが失踪前に雇う彼女は、がんを患う妻バイオレットと家の世話を任される。ジョナのウェストン家での過剰とも言える役割に注目することで見えてくるのは劇中劇の構造である。これを読み解きながら、21世紀のアメリカ家族と家族劇について考えたい。

会場: HOTEL ルブラ王山
住所:〒464-0841 名古屋市千種区覚王山通8-18
TEL:052-762-3151(総合)/052-762-3105(宿泊)
サイトURL:http://www.rubura.org/
交通アクセス:名古屋駅より地下鉄東山線で13分、池下駅下車、2番出口より徒歩3分

HOTELルブラ王山・地図

2014年6月26日
 機関誌『アメリカ演劇』26号原稿募集

『アメリカ演劇』26号の原稿を募集しております。26号は前回大会のテーマでありました、ユージーン・オニール特集号です。大会での研究発表者やシンポジウム・パネリストからの投稿はもちろんのこと、それ以外の会員のみなさまからの原稿もお待ちしております。また、特集以外の内容の原稿につきましても、アメリカ演劇に関する研究論文、上演レビュー、書評なども掲載する方針です。奮ってご投稿ください。
 なお、前回より投稿締切が7月31日に変わり、投稿方法もメールによる送付のみとなっておりますので、下記の要領をご確認のうえお間違えのないようご投稿ください。また、投稿をお考えの方はあらかじめ編集委員長の岡本太助、あるいは事務局までメールでその旨お知らせいただければ幸いです。

『アメリカ演劇』投稿規定
1. 投稿論文はWordの電子ファイルとして作成し、電子メールに添付して本部事務局に送付のこと。
2. 内容  特集作家に関する未発表の研究論文(和文)。ただし、特集作家以外のアメリカ演劇に関する未発表の論文、エッセイ、記事も可。
3. 枚数  原則としてA4判用紙に縦書きで30字×30字とし、20,000字以内(後注、文献一覧を含む。)
4. 体裁  注は後注とし、本文の終わりにまとめ、引用文献一覧を付す。引用文は原文ではなく、和訳を記載する。外国の書名・作品名は和文で表記し、初出の箇所で和文の後に括弧をして原名を書く。その他書式の細部については、『MLA新英語論文の手引第6版』(北星堂)に従う。
5. 原稿の採否および掲載の時期は編集委員が決定する。
6. 採用論文の執筆者は原則として『アメリカ演劇』当該特集号を20部買い上げる。
7. 校正は原則として2回とする。
8. 宛先  日本アメリカ演劇学会事務局(E-mail: nihon_america_engeki@yahoo.co.jp)。件名は「『アメリカ演劇』原稿」とすること。
9. 締切は毎年7月31日(事務局必着)とし、事務局からの受信確認メールをもって受理されたものとする。応募原稿と略歴をそれぞれWordの電子ファイルとして作成し、電子メールに添付して学会事務局に提出すること。
※依頼原稿については、この限りでない。
(制定日2010年8月1日、改定日2012年8月1日)

2013年7月26日
 日本アメリカ演劇学会第3回大会プログラム

時:2013年9月28日(土)・29日(日)
会場:ザ・ホテル ベルグランデ(〒130-0026 東京都墨田区両国2-19-1)

ユージーン・オニール研究

前夜祭 9月27日(金)19:00開演 オニール劇作家生誕100年記念公演
ユージーン・オニール一幕劇集『蜘蛛の巣』より「朝食前」「渇き」
主催・会場:シアターX(カイ) (東京都墨田区両国2-10-14 両国シティコア内 TEL: 03-5624-1181)
協力:アメリカ演劇上演研究会、松川事務所  後援:日本アメリカ演劇学会
入場料:1,000円(全席自由席) ※チケット購入・お問い合わせは劇場まで

第1日 9月28日(土)
研究発表
司会 九州大学 岡本 太助
1.ポストモダン演劇におけるオニール――
  The Wooster GroupのThe Emperor JonesThe Hairy Ape
お茶の水女子大学(院) 佐藤 里野
 ソーホーのガレージに拠点を置き、ニューヨークの実験演劇を牽引してきたThe Wooster Groupは90年代に2つのオニールの戯曲を手がけている。まず、92年にThe Emperor Jonesが、次いで96年にThe Hairy Apeが、どちらもElizabeth LeCompteの演出のもとで上演されている。90年代前半にリハーサルが始まったこれらの作品は、初演後には世界各都市を巡演し、2000年代に入ってもなお、改訂を経て上演が続けられている。
 Marvin Carlsonによって “postmodern recycling”と表現されるThe Wooster Groupのアダプテーションの手法は、過去の演劇作品の脱構築を明確に意識したもので、オニールのほかにもアーサー・ミラーやアントン・チェーホフ、ガートルード・スタインらの古典的演劇テクストをもとに、多くの斬新なプロダクションを生み出してきた。ここではオニールの戯曲テクストも換骨奪胎され、ヴォードヴィルなどのポピュラーカルチャーから日本の能の美学にいたるまで多種雑多なジャンルやマテリアルがミックスされるスタイルで提示されている。このような手法は、一方では古典的な戯曲の解体へと向かうものであるが、同時に、原作に見られるテーマ(たとえばオニールのThe Hairy Apeに見られる階級やジェンダーの表象)をモチーフとして引き継ぎ、ポストモダンの美学の中で検証することで、1920年代に書かれたオニールのテクストを「再考」し、新たな演劇的解釈を提供する試みであるともいえる。
 そこで、本発表では、The Wooster GroupによるThe Emperor JonesおよびThe Hairy Apeのプロダクションを通して、現代演劇におけるオニール作品の受容のあり方を考察する。LeCompteらによる先鋭的な解釈からオリジナルのテクストを逆照射することで、オニールの作品の新たな一面に光を当てることを試みる。

2.「海」から「家」へ――
  海洋一幕劇からLong Day’s Journey into Nighti>に至るまで
法政大学(非) 井上紗央里
 初期の海洋一幕劇をはじめとして、Eugene O’Neill の作品には海を舞台とした作品が数多く存在するが、O’Neillの作品の中で海を美しく賞賛すべき場面として描いているものは多くない。海洋一幕劇に関して言えば、例えばThirst (1913) やFog (1914) では遭難者が漂流する場面が描かれており、またIle (1917)では陸上での生活を切望しながらも、海上での生活の末についには心を病んでしまうMrs. Keeneyが登場する。このように、人間の力のまったく及ばない広大な海上で、登場人物達の多くは陸への憧れを抱き、心を病み、中には命を落とす者も存在する。
 O’Neill作品において海と陸というテーマは、Beyond the Horizon (1918)の中でAndrewとRobertという二人の兄弟の関係を通して明確に提示されているが、本発表では、「海」という広大で人智の及ばぬ場所から、陸、そして「家」というごく私的な狭い空間へと変遷していく場面について考察を行う。
 この考察を行うにあたり着目すべきなのは、劇中の登場人物達の「家」に関する台詞であろう。例を挙げれば、前述したFogのMrs. Keeneyは劇中しきりに、家に帰って台所や庭のライラックを見たいと話しており、またDesire under the Elms (1924) のAbbieも、はじめて夫であるCabotの家にやってくる場面で「私の家」「私の部屋」と言い自身の所有欲を隠そうとしない。O’Neill自身も舞台上の家や家具などにこだわりを持ち、父Jamesの俳優としての当たり役にちなんで名付けられたMonte Cristo Cottageの部屋にあった家具の配置をAh, Wilderness (1933) やLong Day’s Journey into Night (1941) の中で数回にわたり使用しているという記録もある。
 ホテルで生まれホテルでその生涯を閉じたO’Neillにとって「家」とはどのような存在であったのか、そしてそれは舞台上でどのような役割を果たしているのか、彼の作品の場面の変遷を辿りながら明らかにしていきたい。

司会 お茶の水女子大学 戸谷 陽子
3.Eugene O’Neill劇における終わりなき「終わり」探究
近畿大学 森本 道孝
 Eugene O’NeillのDays Without EndAh, Wilderness! は同時期に執筆・発表され、失った信仰への回帰あるいは失った愛情の回復という「もとの状態に戻る」結末を目指すという共通項を持ちながら、上演回数などに見られるその後の評価の違いがあまりにも顕著であると言える。その違いがどこから生まれるのか、また共通して訴えたいことは何であるのかを探ることを本発表の目的とする。
 まず、各幕の副題からも明らかなように小説の終わらせ方を巡る議論をテーマの中心とするDays Without Endの作成が、夢によるインスピレーションから思い立って書き始めたAh, Wilderness! の執筆によって中断されることで、作品の完成という「終わり」に向かう道筋がここで一度妨げられている。その後作品は完成されるものの結末の唐突な印象はぬぐえず、さらには当初のもくろみであったDynamoから始まる三部作も結果として未完に終わるという事実と、「終わりのない」というこの作品タイトルにある表現との奇妙な符合性に注目する。その上で、さんざん苦心しながら時間をかけて書き進めたDays Without Endよりも、この構想を中断する形で短期間のうちに書き上げたとされるAh, Wilderness! の方が、世の中からは評価されていくことになる皮肉な展開にも目を向ける。後者は短期間で完成させたこともあり、人物像などは種々の作品からの引用でつぎはぎのように塗り固められている印象も強く、またO’Neill自身の体験からは距離を置いた理想を描いており、自伝的要素が色濃くあふれるものが多い作品群においては異質な印象を与えている。一方の前者では、失われつつある信仰心の回復という自身の関心に近い深遠なテーマを扱うが、著者の力の入れ具合とは反比例するように評価にはつながっていない。
以上のように、これら二つの作品における類似点と相違点を比較していくことで、この時期にO’Neillが抱えていた問題や、彼が訴えようとしていたテーマについて考えてみたい。

4.「不気味なもの」としての『悪魔祓い』(Exorcism)――
  オニールの掘りおこされた一幕劇
慶應義塾大学(非) 清水 純子
 長い間埋もれていたユージン・オニール初期の一幕劇『悪魔祓い』(Exorcism,1919) は、2011年に90年の長い眠りを破って掘りおこされ、ニューヨーカー誌10月17日号に甦った。その発掘状況と内容の双方において『悪魔祓い』は、シグムント・フロイトの唱える「不気味なもの」の概念に適合する。『悪魔祓い』は、「ある種の驚愕をもたらすものなのだが、それは旧知のもの、とうの昔から馴染みのものに起因する」からである。一度だけ上演され、作者自身の手によってまたたくまに埋葬されてしまった『悪魔祓い』は、多くの批評家が伝え聞いて話題にしていたため、現代においても「旧知のもの」であり、その意味で「とうの昔から馴染みのものに起因」していたので「不気味なもの」であるといえる。
 本発表は、この失われたと思われていた戯曲、つまり「秘密に隠されたままにとどまっているべきなのに現れ出てしまった」「不気味なもの」が、墓から甦ったラザルスのように生還し、いくつもの劇場で、大口をあけて高らかな笑い声を響かせるようになったいきさつとその反響をあきらかにする。オニールは、「不気味なもの」として抑圧していた死の欲望をこの戯曲の執筆によって抹殺しえたゆえに、作家として新たなる命を得たと考えられる。それゆえにオニールはこの戯曲を遺棄したかったのだという批判を裏付けることを筆者は試みる。一幕物からフル・レングス・プレイへの転換期に位置し、オニールが過去と決別して大作家への道を歩みだす境目に書かれた『悪魔祓い』には、はやくもオニール戯曲の多くに見られる死への欲動、母と娼婦の連動するイメージが導く女性への思慕と嫌悪がみられる。オニールの自我の二重化といってよい『悪魔祓い』の重要性と意味づけを「不気味なもの」の視点から探る。

第2日 9月29日(日)
シンポジウム
オニールのアメリカ

司会兼パネリスト  :  中央大学   黒田絵美子
パネリスト  :  摂南大学   天野 貴史
   :  拓殖大学   大森 裕二
   :  都留文科大学   竹島 達也
   :  大阪大学   貴志 雅之

 オニールは、1916年初演のBound East for Cardiff以降、The Library of Americaの全集3巻に収められた50作を含む、60作以上の作品および草稿を生涯にわたって執筆した。20世紀アメリカ演劇の黎明期を牽引し、アメリカ演劇を世界レベルに高めたオニールの功績が、アメリカ演劇史上、唯一のノーベル文学賞受賞劇作家として今後も長く演劇史に刻まれ、さらなるオニール研究が生まれていくことに疑いの余地はない。本シンポジウムにおいては、初期、中期、晩年のオニール作品を各パネリストがそれぞれの視点から読み解き、「オニール」と「アメリカ」という二つのキーワードの関連性を見出すことを目標として論を進めていく。各パネリストが抽出した「オニールのアメリカ」が、フロアとの活発なディスカッションを経て、ひとつのまとまりのある「アメリカ」として見えてくることを期待する。
 1935年以降4年半の間、オニールは、A Tale of Possessors Self-Dispossessedというタイトルのもと、物欲に支配されたアメリカの家族、ハーフォード家の崩壊をテーマにサイクル劇を書くことに没頭していた。この間、1936年にはノーベル文学賞を受賞しており、オニールがアメリカを代表する文学者と自任し、自分の描くべき題材として「アメリカ」を意識し、自らに課してサイクル劇を完成させようとしていたことが推測される。結局このサイクル劇は彼が当初目指した形では完成しなかったが、本来取り組むべきこのサイクル劇を一時棚上げして半ば気晴らし的に書かれた作品がThe Iceman ComethLong Day’s Journey into Nightという、後期の代表作となった。
 さらに、詩人、冒険といった要素をはらむ海と、安定と平凡の象徴である陸での暮らしという対比(Beyond the Horizonなど)や、自らの帰属すべき場所を求める主人公(The Hairy Ape)など、手の届かないものに強い憧れを抱いて求め続けては挫折し、失望するという、オニール作品に共通するパターンは、アメリカにとどまらず、普遍的な人間の状況を描出している。
 オニールが最初の一幕劇A Wife for a Life、The Web、Thirst、Recklessness、Warningsを執筆したのが1913年であるから、そこをオニールの劇作元年と考えれば、今年はオニールの劇作100周年、さらに、1953年に逝去したオニールの没後60年という二重に記念すべき年になる。その意味でも、21世紀の今日、オニールの作品群と再度対峙することで新たに見えてくるであろう人間の諸相とはどんなものであるのか、本シンポジウムでの活発な議論に大いに期待したい。
(黒田絵美子)

移動と労働――Eugene O’Neillの初期海洋劇
摂南大学  天野 貴史

 辺境開拓者に代わり、19世紀末から20世紀初頭のアメリカで国民的関心を集めたのはHoboと呼ばれる人々だった。移動を信条とする彼らは、たとえばWilliam W. Aspinwall――路上での愛称は“Roving Bill”――のように簡易宿泊所や歓楽街が並ぶ都市の「大通り」に集まったり、「ジャングル」と呼ばれる湖岸や川岸の野営地で寝泊まりしたりしながら各地を渡り歩いた。移動には徒歩よりも鉄道が好んで用いられたが、客室に乗るのではなく、動いている列車に飛び乗っては車両の底や屋根に身を隠すのがHoboの(男らしい)乗り方だった。もちろんHoboの放縦な生き方は批判の的となった。しかしあてもなくうろつき回るだけがHoboではない。The Hobo(1923)の著者Nels Andersonもそうであったように、Hoboとはホームを持たない路上の労働者である。彼らは都市の「大通り」に押し寄せては「奴隷市場」と呼ばれる職業紹介所で「人夫集め」と交渉し、鉄道に乗って遠隔地へと「船出」した。なかでも人気の目的地は発展著しい西部であり、そのことからHoboは「遅れてきた辺境開拓者」とも「西部の彷徨うプロレタリアート」とも呼ばれた。
 本発表は、この「Hoboのアメリカ」を参照枠として、Eugene O’Neillの初期海洋劇を読み直すものである。Bound East for Cardiff(1914)を移動と労働の観点から読み解くことによって、アイルランド人乗組員Yankが「海の上のHobo」であること、Glencairn seriesが――Gertrude Steinの言をもじるならば――「移動(と労働)に満ちたひとつの空間」を構成することが明らかになるだろう。一方、Yankが登場する第3作The Hairy Ape(1921)が示すのは、彼がまさに「遅れてきた」Hoboであり、そのフロンティア的空間の消失にともなう「Hoboのアメリカ」の終焉である。発表では、人種・ジェンダー・階級の観点からHoboの時代の終わりを論じると同時に、Yankが登場する第2作Moon for the Carribbees(1917)を顧みる。こうしてO’Neillの初期海洋劇はHoboの一時代を活写する。そこで論を結ぶにあたり、初期O’NeillをTheodore DreiserやJack Londonの名で語られることの多いHobo文学に参入させる試みを行う。

オニール演劇と放蕩
拓殖大学  大森 裕二

 マルクス思想やアナキズムに早くから関心を示したオニールの多くの作品に通底するのは、貪欲な現代物質文明世界に対する警鐘であり、登場人物たちの労働、貯蓄、消費といった経済的活動に注目すると、大別して二つの興味深い類型的人物群像が浮かび上がる。Desire under the Elms に登場するエフライム・キャボットは、19 世紀ピューリタニズムの流れを汲む敬虔、勤勉、強欲な人物であり、その精神をより世俗化した形で継承したのが、その他数多くの作品群に登場する「実業家」型人物である。Beyond the Horizon において父祖伝来の農場を捨て実業家に変貌するアンドリュー・メイヨー、The Great God Brown の「世界に遍在する真面目な成功の神」ウィリアム・ブラウン等が直ちに思い浮かぶが、物質的な豊かさのみを追求する彼らの盲目性が作者による手厳しい批判の対象となっていることは、既に繰り返し指摘されているところである。一方、勤勉や貯蓄、倹約の精神を鼻で笑って蕩尽に明け暮れるのが、第二の類型たる「放蕩者」型人物であるが、先行研究では彼らのモデルが作者の実兄に求められることが指摘されるばかりで、体系的な研究は皆無である。
 ジョルジュ・バタイユによれば、いわゆる「未開社会」の経済活動の要となっていたのは、生産ではなく消費であった。獲得した富をいたずらに貯えるのは恥ずべき吝嗇であり、共同体のリーダーには気前の良さが求められ、貯えた富は公共的に盛大に消費された。対照的に、資本主義産業システムの発達した現代社会では、儲けた利益は更なる生産のために蓄積され、およそかつての祝祭の精神からは程遠い、真面目、勤勉、倹約を是とする「実業家」型人間像が支配的となったのである。
 かつての祝祭人間の末裔にも思われる「放蕩者」型人物には、現代物質文明世界に対する作者オニールの批判精神が少なからず託されているはずである。The Great God Brown, The Iceman Cometh, Hughie 等の作品を手がかりに、このことを検証する。

劇作家ユージーン・オニールの「ニューヨーク物語」
都留文科大学  竹島 達也

 ユージーン・オニールは、1946年の『氷人来る』の初演のリハーサルにおいて、アメリカについて、次のように述べている。「アメリカは、天罰を受けるべきだ。アメリカ合衆国の歴史書には、アメリカ政府が今まで犯し、認めてきたすべての不当な犯罪のページを作るべきだ。」と述べている。加えて、アメリカの経済発展を導いた、アメリカン・ドリームやアメリカの大企業の指導者についても、尋常とは言えないほどの嫌悪感や不快感をとても激しい言葉で表明している。このようなオニールのアメリカ観の淵源をたどるためには、劇作家オニールとその作品世界を解明する上で最も重要な地域の一つであるニューヨークを軸に据える必要があるように思われる。
 オニールは、20世紀初頭の現代アメリカ演劇の創成期において、ニューヨークのマンハッタンで生活したことにより、劇作家として生涯に渡ると言っても過言でないほどの大きな影響を受けた。父親が俳優であったこともあり、オニールはニューヨークのホテルで家族と暮らし、ベッツ・アカデミーやプリンストン大学に通っていた頃も、ミッド・タウンの西側に位置する繁華街、テンダーロイン地区に頻繁に出入りしていた。ニューヨーク港から大西洋航路の船乗りとして旅立ち、波止場地区にあるジミー・ザ・プリーストという安宿の常連客でもあった。また、1911年におけるアイルランド・ダブリンのアビー座のニューヨーク公演においても、演劇人として大きな影響を受けた。さらに、グリニッチ・ヴィレッジでは、革新的な思想の持ち主である、社会活動家や文化人、芸術家たちと接して、自らの劇作品の特質の原形を形成することにつながるほどであった。
 本発表では、このようにオニールに深い関係のあるニューヨークを舞台にした作品(『蜘蛛の巣』、『毛猿』、『氷人来る』、『ヒューイ』を予定)を取り上げ、それらの劇作品としての特色にも充分に留意しつつ分析し、ニューヨークというロカールをキーワードにした「オニールとアメリカ」論を展開してゆきたい。

自己を演出するオニールの主人公たち――『ヒューイ』を中心に
中央大学  黒田 絵美子

 1942年に脱稿した『ヒューイ』(Hughie 1964年ブローウエイ初演)は、もともと『死亡記事の形で』(By Way of Obit)というアンソロジーの中の一編であったが、のちにオニールが他の作品を破棄してしまったために唯一残ったものである。アンソロジーには、『ヒューイ』同様、語り手と聞き手の二人で構成され、語り手が最近亡くなった人物について語る、というスタイルの作品が収録されていたそうである。死者についての物語をひとりが語り、ひとりが聴く、というスタイルは、日本の能に通じる。しかし、能における聴き手であるワキ(多くは旅僧)が同情を寄せてシテの語りや謡に耳を傾けるのに対し、『ヒューイ』のフロント係は、劇の大半、エリーの話を聞いていない。オニールがこのようなスタイルの二人芝居を考案してシリーズ化しようとしたことに、日本の能のスタイルからの影響があったのか否かは現時点で定かではないが、物言わぬ死者ヒューイに関するドラマを、エリーが語る際には、生前のヒューイの人物像にエリーの演出が加わっており、また、ヒューイとのかかわりにおけるエリー自身の在り方についても(むしろこちらのほうが大きいが)、ドラマ化する際に多分に自己演出が加えられている。本発表においては、ヒューイとのかかわりにおけるエリーの自己演出という点と、共感を持たない聴き手フロント係の内面を解説したト書きを詳細に検証し、他の作品における登場人物の自己演出も参照しつつオニールがこの二人芝居において目指した演劇の新境地を推測する。「アメリカ」とのかかわりは、ニューヨーカーを自任するエリーが自己をどう演出しているかを見ていく過程で浮彫になってくるものと期待している。劇の終盤で、それまでエリーの語るドラマにまったく興味を示さなかったフロント係の心が動くところにその鍵(魅力あるアメリカの要素)が秘められているのではないかと推測している。

ユージーン・オニール、反逆の演劇の軌跡――
詩人、所有者、憑かれた者たちの弁証法
大阪大学  貴志 雅之

 自らを含む家族を描いた晩年の自伝劇『夜への長い旅路』を、オニールは「妄想に憑かれたティロウン家の四人すべてに対し、深い憐れみと理解、寛恕の思いをもって」書きあげた。『氷人来る』と『私生児に照る月』と同様、『旅路』はオニールが未完に終わる連作劇群サイクル、つまり「自己を喪失した所有者の物語」の創作に行き詰まり、同構想を一旦棚上げにした時期に執筆される。物欲・所有欲による自己の喪失という人間のドラマを独立戦争から20世紀にいたるヤンキー・アイリッシュ一族の年代記として描くサイクルは、アメリカとアメリカ人の根源的問題を問い直す巨大構想だった。つまり、家族を描く物語とアメリカという国家の物語、この二つの物語の創作に晩年のオニールは取り組む。しかも『旅路』とサイクルには、ある共通項が存在する。それは初期から後期に至る作品群に散見される詩人と所有者、そして「憑かれた者」の自己喪失のモチーフである。これらが個人、家族、一族、さらにアメリカという国の物語を結ぶキー・コンセプトとして底流する。
 プロヴィンスタウン・プレイヤーズと活動をともにした若き日のオニールは、既存の商業主義演劇に対峙・対抗する小劇場による「新演劇」、言わば体制への反逆の演劇の旗手として劇作家の道を歩み始める。そのオニールが晩年に至って自身の家族と国家双方の物語を作品化するなかで、何らかの欲望や観念に憑かれたアメリカ人の姿が前景化する。それは何を意味するのか。
 本発表では詩人と所有者、憑かれた者たちの問題系を軸に、オニールのテーマ、ドラマトゥルギーの軌跡を検証する。この検証のなかでオニールと家族の関係性、1910年代のグリニッチ・ヴィレッジの対抗文化的風土と精神性は有意義な指標を与えてくれるに違いない。これらの検証を通し、アメリカに憑かれた劇作家オニールによる「反逆の演劇」とその軌跡を再評価し、アメリカを見たオニールのまなざしを考える。

第三回大会に参加ご希望の方は、下記の要領でお申し込みください。
<参加費用>
 Aプラン:20,450円(9月28日夜の宿泊費、施設利用料、懇親会費、朝食代金を含む)
 Bプラン:1日参加 2,000円/2日参加 4,000円(当日参加で宿泊なし)
 Cプラン:1日参加 9,000円/2日参加 11,000円(当日参加+懇親会費)
※二日目昼食を希望される方は、振込用紙通信欄に「2日目昼食希望」とお書きください。ホテル内の中華レストランにてランチが提供されます。代金1,050円は振り込まず、当日各自お支払いください。
※前夜祭参加のための宿泊費は含まれませんので、各自で同ホテルや他の施設を予約してください。
<振込先>
 振込先口座:郵便振替口座 00990−8−269899
 加入者名 日本アメリカ演劇学会
 送金締切 8月20日(火)
 振込用紙通信欄に、「大会参加費」と明記のうえ、A〜Cのプラン名とご自身のメールアドレスをご記入ください。Bプラン、Cプランの一日参加については、「1日目」か「2日目」かをご明記ください。また、昼食を希望される方は「昼食希望」とお書き添えください。
※2013年度年会費は当日会場でお支払い願います。尚、大会に参加されない方は、振込用紙の通信欄に「2013年度会費」と明記のうえ、年会費(一般:6,000円/学生:4,000円)をご送金ください。
※懇親会費を除いた参加費の領収書が必要な方は、振込用紙の通信欄に「領収書希望」と明記ください。
※但し、学部学生の当日参加費(施設使用料)は半額とします。
※懇親会への参加は、原則として事前申し込みのあった方のみとします。当日の申し込みはできません。
※申し込み後の変更や、その他ご不明な点がございましたら、代表幹事岡本太助までご連絡ください。また住所等に変更が生じた場合も、ご連絡ください。(連絡先:tassokamoto@yahoo.co.jp

会場:ザ・ホテル ベルグランデ
住所:〒130-0026 東京都墨田区両国2-19-1
TEL:03-3631-8111  FAX:03-3631-8112
URL:http://www.hotel-bellegrande.co.jp/
交通:東京駅・上野駅より、JR山手線秋葉原駅乗換え、総武線両国駅下車徒歩30秒/都営大江戸線両国駅下車徒歩7分/羽田空港よりモノレール浜松町乗換え、JR山手線秋葉原駅乗換え、総武線両国駅下車徒歩30秒

ザ・ホテル ベルグランデ・地図

ザ・ホテル ベルグランデ・交通図

2013年7月1日
 機関誌『アメリカ演劇』25号原稿募集

『アメリカ演劇』25号の原稿を募集しております。25号は前回大会のテーマでありました、オーガスト・ウィルソン特集号です。大会での研究発表者やシンポジウム・パネリストからの投稿はもちろんのこと、それ以外の会員のみなさまからの原稿もお待ちしております。また、特集以外の内容の原稿につきましても、アメリカ演劇に関する研究論文、上演レビュー、書評なども掲載する方針です。奮ってご投稿ください。
 なお、今回より投稿締切が7月31日に変わり、投稿方法もメールによる送付のみとなっておりますので、下記の要領をご確認のうえお間違えのないようご投稿ください。また、投稿をお考えの方はあらかじめ代表幹事の岡本太助、編集委員長の黒田絵美子、あるいは事務局までメールでその旨お知らせいただければ幸いです。

『アメリカ演劇』投稿規定
1. 投稿論文はWordの電子ファイルとして作成し、電子メールに添付して本部事務局に送付のこと。
2. 内容  特集作家に関する未発表の研究論文(和文)。ただし、特集作家以外のアメリカ演劇に関する未発表の論文、エッセイ、記事も可。
3. 枚数  原則としてA4判用紙に縦書きで30字×30字とし、20,000字以内(後注、文献一覧を含む。)
4. 体裁  注は後注とし、本文の終わりにまとめ、引用文献一覧を付す。引用文は原文ではなく、和訳を記載する。外国の書名・作品名は和文で表記し、初出の箇所で和文の後に括弧をして原名を書く。その他書式の細部については、『MLA新英語論文の手引第6版』(北星堂)に従う。
5. 原稿の採否および掲載の時期は編集委員が決定する。
6. 採用論文の執筆者は原則として『アメリカ演劇』当該特集号を20部買い上げる。
7. 校正は原則として2回とする。
8. 宛先  日本アメリカ演劇学会事務局(E-mail: nihon_america_engeki@yahoo.co.jp)。件名は「『アメリカ演劇』原稿」とすること。
9. 締切は毎年7月31日(事務局必着)とし、事務局からの受信確認メールをもって受理されたものとする。応募原稿と略歴をそれぞれWordの電子ファイルとして作成し、電子メールに添付して学会事務局に提出すること。
※依頼原稿については、この限りでない。
(制定日2010年8月1日、改定日2012年8月1日)

2012年10月21日
 日本アメリカ演劇学会お知らせ

*2013年度オニール一幕劇公演と研究会
 本年度大会の総会で、甲南女子大学名誉教授・高山吉張氏より上演企画進行中として報告のありました東京両国のシアターΧ(カイ)でのオニール一幕劇公演が、同劇場を拠点に本年10月に発足したアメリカ演劇上演実行委員会主催で2013年9月27日に行われることになりました。今回の上演作品は「朝食前」と「渇き」の二作です。

 日本アメリカ演劇学会の第3回大会は、2013年9月28日・29日に東京で開催予定です(会場は両国のホテルを検討中です)。なお、本学会運営委員会は、アメリカ演劇上演実行委員会からの上記オニール一幕劇公演の後援依頼を受けて、協議を重ねた結果、同公演を第3回大会の「前夜祭」と位置付け、後援することを決定いたしました。この場を借りて報告申し上げます。
 また上演に先立ち、アメリカ演劇上演実行委員会主催のアメリカ演劇研究会が、10月30日を皮切りに六回にわたって開かれることとなりました。第二回は11月27日、以後は奇数月の最終火曜日に開催される予定です。詳細は、シアターΧのウェブサイト(http://www.theaterx.jp/ws/america.php)をご参照ください。オニール一幕劇および上演に関心をお持ちの方は、ご参加ください。

*第3回大会での研究発表募集
 上記の通り、2013年9月28日・29日の両日に東京で第3回大会が開催されます。テーマは「ユージン・オニール研究」(仮)です。つきましては、一日目の研究発表者を募集いたします。一幕劇に限らず、代表的な多幕劇も含めて、オニールに関する作家・作品研究報告を行っていただける方のご応募をお待ち申し上げます。ご発表をお考えの方は、2013年1月末日までに学会事務局または代表幹事岡本太助までメールでご連絡ください。発表申込手続きの詳細については、折り返し連絡を差し上げます。多くの方のご応募をお待ちしています。

2012年8月9日
 日本アメリカ演劇学会お知らせ

*2012年第2回大会報告:
 2012年度第2回大会は、「オーガスト・ウィルソン研究」をテーマに6月30日(土)・7月1日(日)、グリーンヒルホテル神戸で開催されました。
 両日とも多彩な切り口から興味深い発表が行われ、質疑応答セッションでは活発な議論が展開されました。詳細は「大会報告」欄に掲示してありますので、そちらもご覧ください。

*第2回総会――次期役員選挙開票と次回大会テーマ・時期・開催地の決定:
 シンポジウム後の総会では、2011年度の会計報告・承認、『アメリカ演劇』投稿規定修正案の報告・承認、次回大会テーマ・時期・開催地の決定を経て、次期役員選挙の開票が行われました。開票の結果、次期役員構成は以下の通り総会の場で承認され、本人の承諾を得て決定されました。

日本アメリカ演劇学会役員(2013年4月1日〜2015年3月31日)
会  長:  貴志 雅之(大阪大学)
副 会 長:  黒田絵美子(中央大学)
評 議 員:  舌津 智之(立教大学)
   竹島 達也(都留文科大学)
   戸谷 陽子(お茶の水女子大学)
   原 恵理子(東京家政大学)
   古木 圭子(京都学園大学)
   山本 秀行(神戸大学)
編集委員:  岡本 太助(大阪大学・非)
   貴志 雅之
   黒田絵美子
   舌津 智之
   古木 圭子
   山本 秀行
地区委員:  (東 京) 大森 裕二(拓殖大学)
   (名古屋) 藤田 淳志(愛知学院大学)

 なお、事務局代表幹事、顧問、監事の人選につきましては、評議員会と会長、副会長に委ねられます。全役員の構成につきましては、次期役員任期開始までにあらためてお知らせいたします。
 また総会では、甲南女子大学名誉教授・高山吉張氏と須賀照代氏監訳の『オニール一幕劇――蜘蛛の巣』(京都修学社、2007)収録のオニール一幕劇を、東京シアターX(カイ)にて連続上演する企画が進行中との報告があり、高山氏より上演企画と本学会の連携に関するご提案がありました。それを受けて、次回大会を「ユージン・オニール研究」(仮)をテーマに東京(両国周辺を予定)で開催することが決定されました。学会としても新たな試みとなりますので、ご期待ください。また次回大会からは、開催時期を9月下旬にずらします。繁忙期を避けての開催ですので、より多くの方にご参加いただけるものと期待しております。なお、次回大会での研究発表申込およびシンポジウム企画案は随時受け付けておりますので、学会事務局または代表幹事岡本太助までご連絡ください。
 『アメリカ演劇』投稿規定につきましては、原稿の提出方法と投稿締切時期が変更されました。詳細は次項をご覧ください。

*機関誌『アメリカ演劇』の発行と原稿募集:
 現在『アメリカ演劇』24号(テネシー・ウィリアムズ特集)への投稿論文の審査が行われています。年内の発行を目指して鋭意編集作業を進めてまいりますので、今しばらくお待ちください。
 『アメリカ演劇』25号の原稿も募集しております。今回の大会テーマでありましたオーガスト・ウィルソン特集号です。大会での研究発表者およびシンポジウム・パネリストからの投稿はもちろんのこと、それ以外の会員の皆様からの原稿もお待ちしています。特集以外の原稿につきましても、アメリカ演劇に関する論文、上演レヴュー、書評なども掲載してゆく方針です。この度、投稿規定の修正に伴い原稿の送付方法と締切が変更となりましたので、下記をご参照のうえ、お間違えのないようにご投稿ください。また投稿をお考えの方は、その旨を事務局または代表幹事岡本太助まで事前にお知らせください。

『アメリカ演劇』投稿規定
1. 投稿論文はWordの電子ファイルとして作成し、電子メールに添付して本部事務局に送付のこと。
2. 内容  特集作家に関する未発表の研究論文(和文)。ただし、特集作家以外のアメリカ演劇に関する未発表の論文、エッセイ、記事も可。
3. 枚数  原則としてA4判用紙に縦書きで30字×30字とし、20,000字以内(後注、文献一覧を含む。)
4. 体裁  注は後注とし、本文の終わりにまとめ、引用文献一覧を付す。引用文は原文ではなく、和訳を記載する。外国の書名・作品名は和文で表記し、初出の箇所で和文の後に括弧をして原名を書く。その他書式の細部については、『MLA新英語論文の手引第6版』(北星堂)に従う。
5. 原稿の採否および掲載の時期は編集委員が決定する。
6. 採用論文の執筆者は原則として『アメリカ演劇』当該特集号を20部買い上げる。
7. 校正は原則として2回とする。
8. 宛先  日本アメリカ演劇学会事務局(E-mail: nihon_america_engeki@yahoo.co.jp)。件名は「『アメリカ演劇』原稿」とすること。
9. 締切は毎年7月31日(事務局必着)とし、事務局からの受信確認メールをもって受理されたものとする。応募原稿と略歴をそれぞれWordの電子ファイルとして作成し、電子メールに添付して学会事務局に提出すること。
※依頼原稿については、この限りでない。
(制定日2010年8月1日、改定日2012年8月1日)

2012年5月21日
 日本アメリカ演劇学会第2回大会プログラム

時:2012年6月30日(土)・7月1日(日)
会場:グリーンヒルホテル神戸(〒650-0001 兵庫県神戸市中央区加納町2-8-3)

オーガスト・ウィルソン研究
第1日 6月30日(土)
研究発表
司会 拓殖大学 大森 裕二
1.Joe Turner’s Come and Gone
 ――アフリカ系アメリカ人の「アメリカ」への道
大阪大学(院) 穴田 理枝
 本発表では、そのアフリカ的要素により観客、批評家に賛否両論を巻き起こしつつも、ウィルソン自身が「最も好きな作品」であるとするJoe Turner’s Come and Goneを取り上げる。白人Joe Turnerに連行され理不尽な7年間の強制労働へと従事させられたLoomisがアフリカ系アメリカ人の集まる下宿屋でJubaや祖先の幻影との邂逅などの肉体的、精神的経験を経た後に自らのアイデンティティーを獲得して旅立つという物語には、アフリカ系アメリカ人の歴史的な経験が再現される。アメリカ人になることを強要されながら、常に白人のルールによって下位に置かれる彼らは人間としての権利を容易に踏みにじられる。しかし物語の中心となるのはあくまでもアフリカ系アメリカ人の自己覚醒であり、ウィルソンは行商人Seligを登場させることで、白人との協力関係の可能性も描いている。
 物語にはJubaダンス、呪術など身体と深く結びついた文化としてのアフリカ的要素が盛り込まれる。中間航路から流れ着き、人間となって歩き出す骨たちの幻影は直接的にアフリカ系アメリカ人の身体の根元的な意味について言及するものである。また、宗教、男女関係を含めた彼らの人生の選択の有り様についても語られる。アイデンティティー獲得への道は「自分の歌を探す」というメタファーで語られ、彼らの歩みをアフリカ系アメリカ人の口承文化としての音楽史に照らし合わせて論じることも可能である。発表では、奴隷制度廃止後、北部工業地帯への移動を経て本当の意味でアメリカで生きる道を探さなければならなかったアフリカ系アメリカ人が認識すべき自らの身体性や音楽性、さらには選択すべき人生の指標についてのウィルソンのメッセージを読み解く。また、彼らの目指す「アメリカ」が彼らのアフリカ的要素を文化として受け入れるような場所でありうるのかどうかという点についても、ウィルソンの演劇的挑戦の意味を含めて考察する。

2.August Wilsonとヒップホップ
   ――“Keep It Real”というイディオムのパフォーマティヴィティ
愛知大学 川村 亜樹
 アフリカ系アメリカ人の若者文化として1970年代初頭に開花したヒップホップは、2000年以降、そのコミュニティの重鎮Russell SimmonsによるHip-Hop Summit Action Networkが組織されたことを契機として、若者の政治参加を促進する運動媒体として機能するようになった。また彼はDef Poetry Jamというテレビ番組を制作し、詩人とともに、社会問題に対して「意識ある」セレブ・ラッパーを登場させ、ブロードウェイでの公開もおこない、トニー賞Best Special Theatrical Eventを受賞している。このトレンドのなかで、Hip Hop Theater Festivalが結成され、ラップ、ダンス、グラフィティを統合した新たな芸術様式として「ヒップホップ演劇」が誕生した。そして、2009年にグランド・オープンしたAugust Wilson Center for African American Cultureにおけるダンス・アカデミーのプログラムにも、バレエやアフリカの伝統的な踊りとともに、ヒップホップが組み込まれている。こうした事例から、いま、アメリカ黒人演劇の系譜におけるヒップホップの存在感の高まりが垣間見える。
 すでにWilsonに関する研究書August Wilson and Black Aesthetics(2004)に、Harry J. Elam, Jr.の“‘Keeping It Real’: August Wilson and Hip-Hop”という論文が収められており、Wilsonの描き出す黒人コミュニティとヒップホップが共有する精神性を考察している。だが、Elamが分析対象とするKing Hedley IIの主人公Kingは、設定された時代1985年に30代、つまり、恐らく50年代生まれであり、一般的な定義(Malcolm Xが没した1965年から1984年の間に誕生した世代)に従えば、ヒップホップ世代ではない。その一方で、本テクストが提示する、貧困、サイコロ賭博、家庭における父親の不在、窃盗や殺人などの犯罪の多発と刑務所問題は、ヒップホップ世代の支配的イメージを構成しており、ラップやヒップホップ映画でも繰り返し現れるテーマである。そこで本発表では、ヒップホップ文化を支配する“Keep It Real”というイディオムを念頭に置いて、King Hedley IIにおけるヒップホップ的要素に焦点を当てるとともに、登場人物たちの手をすり抜けていく「リアル」に対して、公民権運動世代のWilsonが紡ぎ出したメッセージの意義を検討したい。

3.Aunt Esterの誕生について
東洋大学(非) 伊勢村 定雄
 Aunt Esterという登場人物は、August Wilsonが劇作開始当初からキーパースンとして考えていたのではなく、文字通りもがき苦しみながら芝居を書いていく過程で生まれた人物であるという。Aunt Esterは、ピッツバーグという一地方都市にいながらアフリカンアメリカン全てにとっての母であり、精神的な支柱として重要な役割を持つ存在として語られ、登場し、そして時代の進展とともに、姿を消す。だが、最後の作品であるRadio Golfでは、亡くなった後でさえ、彼女は主人公であるHarmond Wilksの動向に大きな影響を与える存在として登場する。
 このAunt Esterが初めて登場するのはTwo Trains Running (1992)であるが、作者自身はSandra Shannonとのインタヴューで、彼が大事にしているのはJoe Turner’s Come and Gone (1986)であり、その中に全てのアイデアが詰まっていると語っている。またRichard PettengillにはBynum Walkerとの関連を問われて、基本的に同じテーマを持っていると答えている。これはとりもなおさず、Century Cycleといわれる一連の芝居を書くためにAunt Esterは誕生したのではなく、以前から存在していた可能性がある。
 それ故、本発表ではこの問題を探るため、これら2作品を起点として、Aunt Esterと類似点の多いBynum WalkerとEsterとの異同を取り上げ、さらに、何故男性から女性へとアフリカンアメリカンの精神的支柱が移っていくのか、その必然性と理由を問題としたい。その議論を進めるにあたって、先ず作品中の女性たちのEster像へつながる可能性を吟味し、更にアフリカンアメリカンの女性たちが背負わされた立場と宿命からかいま見える問題とEster像、そして最終的にEsterが彼らの統合の象徴という立場を獲得する理由を考察し、結果としてEster像の誕生に結び付けられるように議論を進めたい。

第2日 7月1日(日)
シンポジウム
オーガスト・ウィルソンの「20世紀サイクル」とその遺産

司会兼パネリスト  :  大阪大学   貴志 雅之
パネリスト  :  大阪大学   岡本 淳子
   :  神戸大学   山本 秀行
   :  東洋大学名誉教授   桑原 文子

 アメリカ初のノーベル賞受賞劇作家ユージン・オニールは、かつてニューイングランド名門一族の独立戦争から1932年に及ぶ一族史を通し、富と権力の欲望に駆られ自己の魂を喪失するアメリカ人の姿を描こうとした。11作よりなる連作劇「サイクル」、「自己を喪失した所有者の物語」である。しかし、構想のあまりの巨大化により大半の作品創作が頓挫し、オニール・サイクルは未完に終わる 。
 オニール亡きあと半世紀、アメリカに新たな「サイクル」の完結をもたらせたのがオーガスト・ウィルソンである。ウィルソンの「20世紀サイクル」(「ピッツバーグ・サイクル」)は20世紀100年の名もなきアフリカ系アメリカ人の民衆史を10年単位全10作で描く。しかも、そこで語られる物語は20世紀に留まらず、アフリカより初めて奴隷がアメリカにもたらされた17世紀初頭から20世紀末に至る380年の歴史をも映し出す。このアフリカ系アメリカ人年代記こそ、現在に至るアメリカを描く唯一の歴史連作劇「サイクル」に他ならない。
 2005年、「20世紀サイクル」最終作Radio Golf初演の年の10月2日、ウィルソンはこの世を去る。その後、Radio Golfで予見された黒人指導者の登場は、2009年1月、アメリカ初の黒人大統領、第44代バラク・オバマ大統領誕生となって現実のものとなる。以来、劇作家ウィルソンと若きアメリカ大統領を結び付ける論評や報道は数多く、2009年5月30日、オバマ夫妻によるベラスコ劇場でのJoe Turner's Come and Gone 観劇は、いっそう両者の繋がりを印象付けるものとなる。こうして黒人と白人の混血という人種的ルーツを大統領と共有するウィルソンは、アメリカの人種政治学で一つの強力なイコンとなり、彼の「サイクル」は国家的歴史ナラティヴとしてアフリカ系アメリカ人の歴史と存在をアメリカ社会と国民の意識に強く刻み込むものとなっている。オバマ政権が4年目を迎える今年、11月の大統領選でアメリカ国民は初の黒人大統領に審判を下す。この政治展開をみせるアメリカで、ウィルソン作品はさらなる注目と再評価を受け、アメリカの過去から現在、未来を考えるうえでまた新たな指針を与えてくれるにちがいない。つまり、2012年はウィルソンの「サイクル」について1つの総括的再検証・再考を行う意義深い年であると言える。
 本シンポジウムでは、ウィルソン批評研究の動向を踏まえつつ、パネリストそれぞれの視座からウィルソンの「20世紀サイクル」を読み直し、その遺産の意味・意義を考える。それにより、オーガスト・ウィルソン研究、アフリカ系アメリカ演劇研究、さらにはアメリカ演劇・文化研究の新たな議論を拓く契機になれば幸いである。
(貴志 雅之)

アフリカ系アメリカ人にとっての神、亡霊、そして子孫
――交換価値・使用価値としての存在からの脱却

大阪大学  岡本 淳子

 オーガスト・ウィルソンのサイクル劇の第二作目Ma Rainey's Black Bottom(1984)のなかに“African conceptualization”という言葉が出てくる。欲求を達成するために神や先祖の名を唱えることを意味し、それをウィルソンは非常にアフリカ的なものとして捉えている。
 本発表では、上記の作品に加え、神やイエス・キリスト、先祖や白人の亡霊、あるいは夢に出る亡き者の言葉を扱ったThe Piano Lesson (1990)とSeven Guitars (1996)を扱い、アフリカ系アメリカ人にとっての神の存在、奴隷として生きた先祖に対する思慕と反発、そして彼らの子孫が継承するものについて論考する。その際、ウィルソン作品に共通する要素である、アフリカ的なものへの愛着、白人に対する憎悪、白人に同化することへの願望など、アフリカ系アメリカ人のなかに見られる白人社会に対する温度差、あるいは個人の中に存在する感情の矛盾を考察する。また、交換価値あるいは使用価値としての存在である奴隷として生きた時代が終焉した現在においてもなお、そのような存在として扱われ続ける彼らの苦悩と葛藤を明らかにし、それがどのような形で解消されるのかについても論じる。加えて、エピソードとして頻繁に語られる白人による黒人の殺害や黒人間の殺し合いに注目し、アフリカ系アメリカ人にとって彼らの血を残すことが非常に困難である点と、ウィルソン作品の登場人物がこだわる土地所有への執着を分析し、所有される立場にあって何も所有することが許されなかった彼らにとって、子孫への遺産とはいったい何なのかを考えてみたい。

August Wilsonの劇におけるアフリカ系アメリカ人のマスキュリニティ
――Radio GolfFencesを中心に

神戸大学  山本 秀行

 August Wilsonは、ピッツバーグの黒人居住区を舞台にした10の作品から成る一連のサイクル劇(“Pittsburg Cycle”)において、20世紀におけるアフリカ系アメリカ人のアイデンティティを探求している。ドイツ系の父を持ち、白人の血を半分引くものの、アフリカ系アメリカ人男性として強い意識を持ち、作品において黒人男性の登場人物を描くことが多いWilsonにとって、それはアフリカ系アメリカ人男性のマスキュリニティ(男性性/男らしさ)の探求であるとも言えよう。
 伝統的にアメリカの主流社会において、アフリカ系アメリカ人のマスキュリニティは、その強い身体的能力・体躯に起因して、白人にとって脅威となりうる「野蛮で攻撃的なhyper-masculineなもの」として、あるいは、その低い経済的・社会的ステータスに起因して、白人にとって制御可能な「愚かで従順なemasculatedなもの」として、二極的にステレオタイプ化されることが多かった。August Wilsonは、アフリカ系アメリカ人の歴史を描いたサイクル劇において、時代とともに変容していくアフリカ系アメリカ人のマスキュリニティを、アフリカ系アメリカ人自身の立場から、こうした二極的ステレオタイプに拠らない形で描き出そうと試みている。
 サイクル劇の最後を飾る作品Radio Golf (2005)では、1990年代後半(1997年)のアメリカにおける、アフリカ系アメリカ人のマスキュリニティの問題点とその方向性が示されている。市長を目指しているアイビーリーグ出身の不動産会社経営者Hammond Wilkesやその親友でゴルフに熱狂する余り買収したラジオ局でゴルフ・レッスンの番組を持つまでになった投資家Roosevelt Hicksなど、この劇のアフリカ系アメリカ人男性の登場人物たちは、これまでのWilsonの劇と異なり、高い社会的・経済的ステータスを持っているが、そのシンボルとして機能しているのが、ゴルフというスポーツである。これは、Jackie Robinson以前の白人至上主義のメジャーリーグから門戸を閉ざされた元ニグロ・リーグの野球選手で今や、ごみ収集の仕事をして細々と生活をしているTroyを主人公にしたFences (1987)において、野球というスポーツが当時のアフリカ系アメリカ人の社会的・経済的障壁のシンボルとして機能しているのとは好対照をなす。
 この発表では、August Wilsonの劇におけるアフリカ系アメリカ人のマスキュリニティを、Radio GolfFencesを中心に、主としてスポーツと人種、ジェンダー、階級との関係から考察していきたい。

ピッツバーグ・サイクルにおける都市再開発の影響
――Two Trains Runningを中心に

東洋大学名誉教授  桑原 文子

 ピッツバーグ・サイクルの後半の年代を扱う作品を貫く重要なテーマに、都市再開発の問題がある。ピッツバーグ・ルネッサンスと称される大規模な再開発計画は、煤煙立ちこめる鉄の町からクリーンな近代都市への転換をはかるものであった。開発、進歩を標榜するこのプロジェクトによってビジネスの中心ダウンタウンはみごとに再生したが、サイクル劇の舞台、ヒル地区は壊滅的な打撃を被った。市当局の手による建物の取り壊しで地区住民の多くが生活基盤を失い、彼らが築き上げたコミュニティも崩壊してゆく様を、若い日のウィルソンは目の当たりにした。櫛の歯が欠けたようになったヒル地区は、彼の青春時代の原風景である。
 本発表では、1969年に設定されるTwo Trains Runningいる。彼に精神的な支持を与えたのは、アフリカ系アメリカ人の知恵の表象、エスターおばさんである。彼女の「ボールを落としたら、戻って拾わなくちゃ駄目」という助言を、西アフリカの「サンコファ鳥」のイメージと重ねながら解明する。また、毎朝肉屋の前で「俺のハムをくれ」を繰り返すハムボーンの行動の意味するところを分析する。
 その後再開発はどのような方向に向かったかを、1970年代に設定されたJitney、殺人が頻発し黙示録的な様相を呈する1980年代のKing Hedley II、またアフリカ系アメリカ人の二極分化が進行した1990年代のRadio Golfの3作品をとおして検証する。都市再開発によって困難な状況に追い込まれたブラック・ゲットーの人びとが、なお未来に向かって進もうとする姿から、ウィルソンが説くアフリカ系アメリカ人の文化的伝統、アイデンティティ保持の重要性について考えてみたい。

アフリカ系アメリカ人共同体、人種的遺産継承の政治学
――Gem of the Ocean からRadio Golf

大阪大学  貴志 雅之

 オーガスト・ウィルソンは当初より10作の「20世紀サイクル」(「ピッツバーグ・サイクル」)を構想していたわけではなかった。Jitney、Fullerton Street、Ma Rainey’s Black Bottom を執筆した時点で、3作それぞれ10年単位で時代設定をしていたことに気付いたウィルソンは、この方法による作品執筆継続を決意する。そうして生まれたのが「サイクル」だった。一方、20世紀の最初と最後の10年間を扱い、「サイクル」の2つのブックエンドと称されるGem of the Ocean(2004)とRadio Golf (2005)は、他の8作が完成した後に執筆される。つまり、両作はサイクル全体構想を俯瞰する形で、時代の変遷に伴う物語展開とテーマの一貫性と方向性を図るべく周到に用意された20世紀アフリカ系アメリカ人物語の第1章と最終章に他ならない。言い換えれば、両作をもって「サイクル」は、1つの長編歴史物語として完結する。
 注目すべきは、1904年を描くGem of the Oceanと1997年を扱うRadio Golfを含め、サイクル9作の舞台となるピッツバーグ、ヒル地区に形成される黒人共同体の姿とその変遷である。特に上記両作に描かれるいずれの時代も、黒人共同体とその遺産を継承し守る側と、白人社会の法と価値観に拠り所を見出す側が対立する。この同一人種内の対立構造は、ほぼ1世紀を隔てた作品舞台に解消されがたい葛藤として展開する。しかしその一方で、Gem of the Oceanに見られる対立関係がRadio Golfにおいて黒人共同体を守り継承する1つの血族の絆へと生まれ変わり、新たな戦士、継承者を生む。
 本発表では、2作を結ぶこのストーリー・ラインを念頭に、自らを「戦士の魂」を持つ「政治的劇作家」だと語ったウィルソンの政治学を、「サイクル」に描かれるアフリカ系アメリカ人コミュニティのあり方と人種的遺産の継承をめぐる問題系を通して考察していく。それによりウィルソンが映し出すコミュニティ像とその政治学を読み解き、彼の「20世紀サイクル」の遺産とその継承の意味について議論を深めることができればと考えている。


第二回大会に参加ご希望の方は、下記の要領でお申し込みください。
<参加費用>
 Aプラン:13,000円(宿泊費、施設利用料、懇親会費、朝食代金を含む)
 Bプラン:1日参加 2,000円/2日参加 3,000円(当日参加で宿泊なし)
 Cプラン:1日参加 8,000円/2日参加 9,000円(当日参加+懇親会費)
※二日目の昼食を申し込まれる方は、希望プランの料金プラス1,500円をお振込みください。
<振込先>
 振込先口座:郵便振替口座 00990−8−269899
 加入者名 日本アメリカ演劇学会
 送金締切 6月8日(金)
 振込用紙通信欄に、「大会参加費」と明記のうえ、A〜Cのプラン名とご自身のメールアドレスをご記入ください。Bプラン、Cプランの一日参加については、「1日目」か「2日目」かをご明記ください。また、昼食を希望される方は「昼食希望」とお書き添えください。
※2012年度年会費は当日会場でお支払い願います。尚、大会に参加されない方は、振込用紙の通信欄に「2012年度会費」と明記のうえ、年会費(一般:6,000円/学生:4,000円)をご送金ください。
※但し、学部学生の当日参加費(施設使用料)は半額とします。
※懇親会への参加は、原則として事前申し込みのあった方のみとします。当日の申し込みはできません。
※申し込み後の変更や、その他ご不明な点がございましたら、代表幹事岡本太助までご連絡ください。また住所等に変更が生じた場合も、できるだけすぐに岡本までご連絡ください。
連絡先メールアドレス:shortcake_15@hotmail.co.jp

会場:グリーンヒルホテル神戸
住所:〒650-0001 兵庫県神戸市中央区加納町2-8-3
TEL:078-222-0909  FAX:078-222-1139
交通:山陽新幹線「新神戸」駅より徒歩7分/神戸市営地下鉄「新神戸」駅より徒歩5分/JR・阪急・阪神の各「三ノ宮」駅より徒歩12分
URL:http://gh-hotel.co.jp/kobe/

グリーンヒルホテル神戸・地図

2012年2月6日
 日本アメリカ演劇学会お知らせ

*2012年度第2回大会開催地決定と研究発表者、シンポジウム・パネリスト募集:
 第2回大会は、「オーガスト・ウィルソン研究」をテーマに、6月30日(土)・7月1日(日)に「グリーンヒルホテル神戸」(http://gh-hotel.co.jp/kobe/)で開催されます。現在事務局と運営委員により、開催に向けた準備を進めています。
 つきましては、第2回大会の研究発表者、シンポジウム・パネリストを募集します。研究発表を希望される方は、その旨を2月24日(金)までにメールで事務局にお知らせください(日本アメリカ演劇学会事務局:nihon_america_engeki@yahoo.co.jp)。メーリングリストでもお知らせしました通り、事務局の代表幹事・岡本太助までご連絡いただいても結構です。発表申込手続きの詳細については、折り返し連絡を差し上げます。たくさんの方のご応募をお待ちしています。
 シンポジウム・パネリストにつきましては、自薦・他薦を問いませんので、候補者をお知らせください。またシンポジウムのテーマ案についてのご意見もお待ちしております。

*機関誌『アメリカ演劇』の発行と原稿募集:
現在『アメリカ演劇』23号(18世紀・19世紀演劇特集)の編集作業が最終段階を迎え、間もなく発行される見込みです。今回から表紙デザインを一新し、内容も非常に充実しています。どうぞお楽しみに。
 『アメリカ演劇』24号の原稿を募集しております。前回大会のテーマでもありました、テネシー・ウィリアムズ特集号です。大会での研究発表者やシンポジウム・パネリストからの投稿はもちろんのこと、それ以外のみなさまからの原稿もお待ちしております。また、特集以外の内容の原稿につきましても、アメリカ演劇に関する論文、上演レビュー、書評なども掲載する予定です。原稿送付先は下記の日本アメリカ演劇学会事務局、送付期限は、2012年5月末日です。
 なお、投稿予定の会員の方はあらかじめ、代表幹事の岡本太助または編集委員長の黒田絵美子、あるいは事務局までメールでご連絡頂ければ幸いです。

宛先:日本アメリカ演劇学会事務局
〒562-8558 大阪府箕面市粟生間谷東8−1−1 
大阪大学大学院言語文化研究科言語社会専攻貴志研究室内

『アメリカ演劇』投稿規定
1. 投稿論文はハードコピー3部とフロッピー・ディスクなどの電子テキストで本部事務局に送付のこと。
2. 内容  特集作家に関する未発表の研究論文(和文)。ただし、特集作家以外のアメリカ演劇に関する未発表の論文、エッセイ、記事も可。
3. 枚数  原則としてA4版用紙に縦書きで30字×30行とし、20,000字以内(後注、文献一覧を含む)。
4. 体裁  注は後注とし、本文の終わりにまとめ、引用文献一覧を付す。引用文は原文ではなく、和訳を記載する。外国の書名・作品名は和文で表記し、初出の箇所で和文の後に括弧をして原名を書く。その他書式の細部については、『MLA新英語論文の手引第6版』(北星堂)に従う。
5. 原稿の採否および掲載の時期は編集委員が決定する。
6. 採用論文の執筆者は原則として『アメリカ演劇』の当該特集号を20部買い上げる。
7. 校正は原則として2回とする。
8. 宛先  日本アメリカ演劇学会事務局(〒562-8558 大阪府箕面市粟生間谷東8−1−1 大阪大学大学院言語文化研究科言語社会専攻貴志研究室内)。
 封筒に「『アメリカ演劇』原稿」と明記のこと。
9. 締切  締切は毎年5月31日(事務局必着)とする。応募原稿と略歴をハードコピーしたものと、フロッピー・ディスクなどの電子テキストで、学会事務局に郵送で提出すること。
※依頼原稿については、この限りでない。
(制定日2010年8月1日)

日本アメリカ演劇学会事務局nihon_america_engeki@yahoo.co.jp
〒562-8558 大阪府箕面市粟生間谷東8−1−1
大阪大学大学院言語文化研究科言語社会専攻貴志研究室内
TEL: 072-730-5252



2011年6月4日
 日本アメリカ演劇学会第1回大会プログラム

時:2011年7月2日(土)・3日(日)
会場:浅草ビューホテル(〒111-8765 東京都台東区西浅草3-17-1)

テネシー・ウィリアムズ生誕100年記念大会
第1日 7月2日(土)
研究発表
司会 神戸大学 山本 秀行
1.ヒロインたちの疑わしい身体とWilliamsのヘテロ・マスキュリ二ティ
 ――And Tell Sad Stories of the Death of Queens….を中心に――
成蹊大学(院) 真野 貴世子
 Blancheは私である、というWilliamsの今となっては有名すぎる発言は、彼の演劇作品においてヒロインが彼のホモセクシュアルな欲望を投影するペルソナの役割を担うことが多いという傾向を示唆している。映画界ではプロダクション・コードが幅をきかせており、同性愛的欲望の表象が著しく弾圧を受けていた時代に劇作家として半生を過ごしたWilliamsにとって、女性のペルソナに自らの欲望を注ぎ込む、といった行為はいわば無意識的かつ政治的な妥協策であり、性の二項対立を攪乱する効果を持っているといえる。
 しかし、俳優を通して顕在化するキャラクターの身体性に注目してみてみると、ヒロインたちはホモエロティックな欲望の表象に荷担しクィアな身体を提示する場合が多いのに対し男性キャラクターが男性以外の欲望を担っている可能性はなきに等しく、舞台上における男優の身体は女優のそれよりも安定した印象をうける。Blancheは女性であるにも関わらずドラァグ・クィーンであると指摘されることがあり、彼女には男性性と/女性性、そして身体とが複雑に共存している。たとえばOrpheus Descending (1957)のヒロイン、Ladyと愛人Valの動作を”They shake hands like two men”と記している箇所があるが、Ladyには男性性の要素が吹き込まれている。
 本発表では、今まではあまり論じられてこなかったWilliamsの「男性」としてのジェンダーとヘテロ−マスキュリンな欲望に注目する。主人公が草稿の段階で男性から女性へ、そして最終的にはドラァグ・クィーンの男性へと変化を遂げているAnd Tell Sad Stories of the Death of Queens…という1幕劇を中心にWilliamsのキャラクターの身体、ジェンダーと欲望の表象との関係を考察し、特に女性性や女優の身体といった「女性的なるもの」の扱い方を通じて、Williamsのクィアな試みが一種のhomosocialかつ女性排除的なヘテロ・マスキュリンな様相を帯びていることをフェミニズムの視点から批判的に論じる。
 Williamsは、ホモエロティックな「男性の欲望」を外見上は女性に見える身体を通して舞台上に表すことに執着しているようにも見え、それは女性の生々しい身体を無化していると考えられるのと同時に男性の欲望でもって女性の身体を自在に操るヘテロ・マスキュリンな権力の行使であると解釈でき、ヘテロ男性の支配的な立場を創作を通して得ようとするWilliams自身の創造者/男性的な欲望をかいま見ることができるのではないか。

2.カイロスの戯れ
   ――Sweet Bird of Youthが結ぶTennessee Williamsの虚像
大阪大学(非) 森 瑞樹
 無情に流れゆく時が奪い去る美。A Street Car Named Desire (1947)のBlancheがそうであったように、老いにたいして過剰な恐怖を滲ませる人物は、初期Williams作品からすでに登場していた。年齢詐称にはじまり、鏡に映る老いた自己への嫌悪など、Williamsにとって身体的/外見的若さとその凋落は、彼自身また彼の創造にとって大きなオブセッションとなっていたようだ。
 Sweet Bird of Youth (1959)の原題はThe Enemy: Time とされ、まさにWilliamsの星霜の関心事を物語として発露させた作品である。時は復活祭。自身の老いた姿を忘れ去るかのように、アルコールとドラッグで現実から逃避する往年の人気女優Princessと、若き美しさを失いつつあることを自覚し、彼女を脅迫することで映画界のスターダムに上り詰めようとするChanceが物語を紡いでゆく。ここで問題とすべきは、PrincessとChanceはWilliams自身の姿を曝したいわば分身であるという点、またその両者が、方向性の違いはあれ、スクリーンに映される時を越えた不変の虚像をその思考の中心に据えているという点である。Williamsは、時に抗い、自己の虚像を構造化し、復活させるチャンス(=カイロス)を視覚芸術のうちに求めていたのだろうか。それとも、老いを認めることで到達し得る芸術家としての新たな境地を模索していたのだろうか。
 そこで本発表では、Sweet Bird of Youthに見られる芸術文化的シンボルとそれらの多様な緊張関係に着目し、Williamsのナルシシズムや美学の源流、またその芸術的伝統更新の修辞学を明らかにすることを目的とする。また同時に、視覚芸術メディアとしての演劇の特性を踏まえ、上演されることで新たに発現するWilliamsの虚像を見定め、その芸術的位置付けを検討する。その過程でWilliamsの反体制的な創造のなかから、極めて個人的な美学、つまりは彼のナルシシズムを拡充させる装置としての演劇の有り様も炙り出されてゆくかもしれない。

3.ユートピアとノスタルジアという観点から見たウィリアムズの社会観
中央大学 黒田 絵美子
 A Streetcar Named DesireのBlanche は、自分の置かれた窮状を打破する救世主としてしばしばShep Huntleyという、本当に存在したのかどうかも不明なかつての自分の崇拝者の名前を口にする。同様に、The Glass MenagerieのAmandaも小さなアパートに引きこもる娘Lauraの将来をGentleman Callerという、存在の不確かな人物に託す。本発表では、ウィリアムズの主人公たちが現状打破のmagic wordとして繰り返すこれらの存在に着目し、ウィリアムズの思い描く理想的な内的/外的環境、すなわち「ユートピア観」とは何かを主に分析していく。16世紀にトマス・モアが作った「ユートピア」という言葉は、「どこにもない善い場所」を意味するが、Shep HuntleyやGentleman Callerは、「どこにもいない善い人」であり、主人公たちを恍惚とさせ、俗世からの脱却を試みるための原動力ともなっている。さらに興味深いのは、Blanche やAmandaが理想郷として掲げるBelle RêveやBlue Mountainは過去のものであり、彼女たちのユートピアは即ちノスタルジアなのである。これは、今は亡き息子Sebastianとの甘い思い出の中に生きるSuddenly Last Summer のMrs. Venableについても同様であるが、後ろ向きで実現不可能な夢の追求とも捉えられる彼女たちの「ユートピア的意識」を、マンハイム(Karl Mannheim)をはじめとする社会学者のユートピア理論に照らして再検証してみたい。そうすることによって、単にeccentricで夢見がちな主人公たちの戯言としてではなく、ウィリアムズの描く主人公たちが提示する現実変革へ向かうエネルギーに焦点を絞って、ウィリアムズの社会観が抽出できるのではないかと期待する。
 Blanche、Amanda、Mrs. Venableは、経済的現状はそれぞれ異なるが、単にeccentricに世俗社会とかけ離れた世界に身を置いているわけではなく、過去もしくは現在において、社会の一員として経済活動を行っている「働く女性」である。
 アメリカ南部という、文化的・社会的に流動性に満ちたコミュニティー(Lévi-Straussの言うhot society)の中にあって自らの思い描くユートピアを掲げて生きる主人公たちが、「安定」を求めつつもユートピアへの固執ゆえに「破滅」「窮状」へと導かれ、孤立化してしまうメカニズムを、アメリカ社会に独特の事象として考察し、ウィリアムズの社会観を抽出したい。

第2日 7月3日(日)
シンポジウム
「テネシー・ウィリアムズ研究の現在」

司会兼パネリスト  :  立教大学   舌津 智之
パネリスト  :  慶應義塾大学   常山 菜穂
   :  東京家政大学   原 恵理子
   :  京都学園大学   古木 圭子
   :  大阪大学   貴志 雅之

 テネシー・ウィリアムズが残した膨大な量のタイプ原稿は、今なおテキサス大学をはじめとする全米の図書館に眠っているが、20世紀末頃から、それまで未発表だった作品が次々出版されており、生前には日の目を見ることのなかった戯曲が初演されるなど、ウィリアムズ作品の全体像は現在進行形でその輪郭を変えている。主だった作品だけを拾っても、Not About Nightingales, Spring Storm, Candles to the Sunなど30年代の初期多幕劇や、後期の一幕劇集The Traveling Companion & Other Plays, 生前最後の新作となったA House Not Meant to Standのほか、演劇作品以外にも、Collected Poems, Notebooks, New Selected Essaysなどが、いずれも過去10数年の間に活字となった。そこで、ウィリアムズの生誕100年というこの節目の年に、特権的「現在」に立ってこそ見えてくる劇作家像を新しく浮き彫りにしたい。
 本シンポジウムでは、ゆるやかに時間軸を追いかけながら、必要に応じて時代を往還しつつ、ウィリアムズの最初期から最晩年までを幅広く見直していく。その際には無論、すでに評価の確立した彼の代表作に立ち返り、人種や階級、セクシュアリティなど、今日刻々とその批評的理解が深化しつつある諸問題に向きあう作業が必要となる。しかし彼は、40年代半ばのThe Glass Menagerieで初めて「デビュー」したわけではないし、60年代以降、下り坂の創作人生に甘んじたわけでもない。加えて、彼が生まれる以前の19世紀に端を発する演劇伝統は、ウィリアムズの同時代にも脈々と息づいていた。時代に根ざすと同時にそれを越境し、多彩な表情とともに浮かび上がる彼の作品群を再考することで、「なぜ今ウィリアムズなのか?」という問題意識を皆で共有することができれば幸いである。
(舌津 智之)

抒情と社会意識――ウィリアムズの1930年代

立教大学 舌津 智之

 ウィリアムズ作品には、しばしば炎がほのかにゆらめいている。ローラとジムの語らいは、ロマンティックな燭台の明かりに包まれているし、ミッチとブランチが束の間の抱擁を交わす場面でも、ロウソクの火が二人を抒情的に照らし出している。しかし、上演史に残るウィリアムズ最初期の長編戯曲にゆらめいていたのは、極貧の炭鉱夫一家が暮らす小屋に灯る石油ランプの炎であった。
 ウィリアムズは、炭鉱夫のストライキを描いた30年代作品、Candles to the Sun (1937)のタイトルについて、「ロウソク」は「個人の人生」を、「太陽」は「集団の意識」を表すものだと自己解説を加えている。この暗喩をふまえるなら、劇中に「世界は日の出を待っている」と題された歌の流れるThe Glass Menagerieや、昼間の光に戸惑うブランチを描くA Streetcar Named Desireは、個人的抒情性と集団的社会参加をめぐる葛藤の演劇として再読しうるかもしれない。ウィリアムズの職業的出発点は30年代のプロレタリア演劇にあり、彼の戦後の代表作も、実は大恐慌の時代に深く根ざしていることを、近年新たに活字となった「新」作品に照らして検証するのが本発表の目的である。
 Menagerieの語り手は、一見、社会に背を向けた詩人に見えるとしても、その彼が、労働争議という社会背景に言及していることを軽視すべきではない。彼は実際、アパートの電気代を滞納する代わりに、船員労働組合の組合費を支払っている。メキシコの太平洋岸へ消えた父の足跡を追ったというトムは、おそらくこの組合組織の一員として、セントルイスを出たのち西海岸へと向かったことが推察される。語り手のこうした活動とその政治性を念頭におくならば、きわめて「アメリカ的」な自己信頼の価値観を持つジム・オコナーと、彼のようになれないトムとの隔たりは、つまるところ、前者の資本主義と後者の社会主義という文脈によって説明しうるのではあるまいか。
 さらに、時間が許せば、Streetcarの30年代性についてもふれる。我々がブランチに感情移入するとすれば、それは、彼女が貴族的南部の没落を背負っているからというよりも、経済的に困窮する一市民の凡庸なる苦悩のうちに、ある種の庶民的尊厳が宿っているからではなかろうか。ウィリアムズ流の抒情とは、常に社会意識との緊張関係によってこそ生成されていることを見据えたい。

アメリカ演劇史の中のT・ウィリアムズ――黒人表象を中心に

慶應義塾大学  常山 菜穂子

 テネシー・ウィリアムズはアメリカ演劇史上に確固たる地位を占める20世紀最大の劇作家のひとりであり、南部作家の代表格である。創作の中核に南部の人と社会を据え、とりわけ、前世紀に花を競ったサザン・ベルが現代社会でこうむる悲劇をノスタルジックに描いて、アマンダやブランチのような鮮烈なヒロイン像を世に送り出した。
 その一方で、黒人については、南部最大の懸案であるにもかかわらず、ほとんど触れない。ウィリアムズは19世紀の奴隷制度にも、それに端を発する人種問題にもあまり関心を示さないようだ。しかし、新大陸に演劇文化が芽生えた18世紀植民地時代からこのかた、アメリカの劇場には黒人キャラクターが絶え間なく登場していた。ウィリアムズが活躍する直前には、ミンストレル・ショーでブラック・フェイスの芸人が歌い踊り、Uncle Tom’s Cabin (1852年初演)やThe Octoroon (1859年初演)といった黒人を主題とするメロドラマが大人気であった。それらの舞台では、ステレオタイプのキャラクターが白人の望むファンタジーを繰り広げていた。従来の演劇史観に基づけば、これら大衆芸能の流れを断ち切って、オニール、ミラー、ウィリアムズらが20世紀近代劇を樹立したということになるが、果たして、ウィリアムズは19世紀を断ち切ったのか。本発表では、ウィリアムズがいかに、こうした黒人表象にまつわるアメリカ演劇の伝統を反復あるいは転覆しているのかを考える。
 ウィリアムズ作品に登場する黒人キャラクターの大半はステレオタイプの域を出ない。そのような中で、黒人の身体的・性的特徴を与えられたA Streetcar Named Desireのスタンレーは、どのように解釈できるのか。全作品中で唯一の黒人中心人物であり、奴隷制度下では黒人に所有が認められなかった土地と白人女性を手に入れるKingdom of Earthのチキンは、真の勝利者なのか。これらの疑問の分析をとおして、今まで指摘されることのなかった19世紀との連続性を浮き彫りにし、ウィリアムズをアメリカ演劇における黒人表象の系譜の内に位置づける。一連の考察は、近年盛んな演劇史書き換えの作業につながるだろう。ウィリアムズは、20世紀近代劇から始まるとされてきたアメリカ演劇の始点としてではなく、植民地時代から連綿と続くアメリカ演劇伝統の一部としてとらえ直されるだろう。

<Tennessee Williams>というトラウマと表象――Milk Trainにおける「人生はすべて記憶」

東京家政大学  原 恵理子

 The Milk Train Doesn’t Stop Here Anymore (1963) は1960年代に入り、Tennessee Williamsの名声に陰りが見えたときに発表されており、あまり知られていない戯曲とみなされてきた。しかし、Williams生誕100周年を記念するために、2011年1月、Milk Trainはオフ・ブロードウェイで幕を開けた。アカデミー賞女優のOlympia Dukakisを主役に迎えて、Michael Wilsonが演出したこの上演は、正典化されたWilliams劇のなかで見過ごされてきた作品に新たな光を当てることとなり、「重要でないと思われた劇でさえも抒情的に力強い」と再評価されている。この「抒情的に力強い」といった劇評のことばは、世界の演劇文化史で20世紀のアメリカ演劇の代表作として名高いThe Glass Menagerie (1945) とA Streetcar Named Desire (1947) を思い起こさせる。Williamsの執筆活動の初期に描かれたこれらの作品のテーマは、変奏のかたちをとりながらも反復されて、あらゆる戯曲の原点となる。いいかえれば、Williamsの自己と人生を告白する形式や主題は、戦後のアメリカ演劇において、新しい声やヴィジョンとなり、偉大な芸術的遺産をもたらすのである。したがって、Williamsが自らの人生のなかでトラウマ的出来事の記憶にとりつかれて、<Tennessee Williams>という自己を反復的に表象する行為には重要な意味がある。
 興味深いことに、Milk Trainの主人公のMrs. Flora Goforthも過去のトラウマ的出来事の記憶にとりつかれて、迫り来る死の影や忘却、喪失に怯えながらも、愛と情熱についてのMemoirsの完成を急いでいる。そして、彼女は象徴的な台詞をいうのである――「人生は一瞬一瞬があるだけでそのほかはすべて記憶だ」と。Milk Trainは、Memoirsによれば、Williamsの「人間としても芸術家としても私生活の暗い影の存在を痛切に反映していた」劇である。本発表では、Milk Trainに焦点を当てて、初期の作品にも言及しつつ、Williamsのトラウマ・記憶・自己表象の関係性を読み解きたい。そして、Williamsの作品は演劇の変革を試みながら、ナショナル・アイデンティティの新たな探求に挑み続けてきたことを明らかにしたい。

過去からのメッセンジャーとしての同性愛者――Tennessee Williams 戯曲における性、暴力、死

京都学園大学 古木 圭子

 Tennessee Williamsの戯曲においては、同性愛者の人物が舞台に登場せず、「死者」として語られる存在となっていても、彼らが大きな役割を担い、他の人物の現在をも支配している場合がある。A Streetcar Named Desire (1947) のAllanは、Blancheの現在を大きく操る力を有し、彼女の苦悩を生み出す要素となっている。Cat on a Hot Tin Roof (1955) においては、MargaretとBrick夫婦の関係を脅かす「亡霊」として、Jack StrawとPeter Ochelloの同性愛者カップルの影が彼らの寝室に潜む。また、夫婦の不仲とBrickのアルコール依存は、親友で同性愛者のSkipperの死によってもたらされたものでもある。つまり、これらの同性愛者たちは陰の存在でありながら、主人公たちに君臨し、彼らを支配するのである。
 しかし、Williamsの同性愛者の描写は、その後期の作品において異なってきている。その一つに、1950年代終わりから70年代にかけて執筆されていながら、2004年になってようやく初演を迎えたAnd Tell Sad Stories of the Deaths of Queens...がある。この作品は服装倒錯者のCandyを主人公とし、あくまで喜劇として意図されているようだが、同時にホモフォビアによる暴力の犠牲者としてのCandyの側面も強調されている。また、心臓疾患を抱える彼は常に死の影に怯えてもいる。このように同性愛の問題に正面から取り組んだ作品を描いたことは、60―70年代アメリカにおけるゲイ解放運動との関連がみられ、そこに劇作家自身の政治的メッセージを読み取ることも可能である。同様に、ホモフォビアの犠牲者としての同性愛者を描写している同時代作品として、短編小説“The Killer Chicken and the Closet Queen” (1977) も挙げることができる。
 本発表では以上の視点から、ホモフォビアの犠牲となる同性愛者を描いている70年代以降の作品と、A Streetcar Named Desire, Cat on a Hot Tin Roofのような40,50年代の作品に描かれている同性愛者の描写とを比較、考察する。その過程で、その描写方法においては大きな変遷がみられるものの、同性愛者の人物は、Williamsの劇作キャリアにおいて、常にメッセンジャーとしての重要な役割を果たし続けてきたことを指摘したい。


エクリチュールと私生活を巡るウィリアムズ晩年の亡霊劇――――亡霊・狂気・罪悪感

大阪大学  貴志 雅之

 1945年3月31日、「追憶の劇」Glass Menagerieブロードウェイ初演によって、テネシー・ウィリアムズはアメリカ演劇界の表舞台に華々しいデビューを飾る。そして、1975年Memoirs出版後の70年代終わりから最晩年の80年代初頭、ウィリアムズは再び過去を顧みる。言わば、ウィリアムズの劇作家人生は、回想に始まり、回想に終わる。しかし、そこには一つの変化が見られる。もはや存在しない過去を現時点から回想する作品から、自らの劇作活動と私生活の関わりを過去と現在の密接な関係性のなかで内省・反芻する自伝劇へのシフトである。1938年冬から39年春、フレンチ・クオーターでの同性愛劇作家テネシー・ウィリアムズ誕生物語を描くVieux Carré (1978)、そして1980年9月に生きる作家オーガスト(=ウィリアムズ)が40年9月を回想・内省し、二つの時空が交錯する形で舞台が展開するSomething Cloudy, Something Clear (1981)。両作品はいずれも、Glass Menagerieでは現れることのなかった劇作活動(エクリチュール)と同性愛の関係性を顧みる劇作家=同性愛者ウィリアムズの自己内省を遂行する自伝劇である。そして、両作は亡霊または亡霊的存在として登場人物が描かれる点でも特徴的共通項を持つ。この意味で、これら2作の間に創作・上演されたClothes for a Summer Hotel (1980)は重要な意味を呈する。本作品はフィッツジェラルドと妻ゼルダを巡る半伝記的作品である。その点で自伝的である上記2作と異なる。しかし、小説家夫妻の物語の中に、ウィリアムズが自らのエクリチュールと性生活、そして姉ローズを含む親密な人々との関係性を読み込んだ点で、自己内省を巡る自伝劇の変奏と捉えられる。さらに、副題の「亡霊劇」に前景化される通り、Clothes for a Summer HotelVieux Carre、Something Cloudy, Something Clear を含む、過去を現在との関係性のなかで反芻する自己内省の亡霊劇という晩年の3作の演劇的特徴を象徴的に表象する。
 本発表では、ウィリアムズ最後のブロードウェイ上演作品となったClothes for a Summer Hotelを中心に、「亡霊・狂気・罪悪感」をキーワードにウィリアムズのエクリチュールと私(性)生活を巡る自己内省演劇テクスト=亡霊劇のあり方について読み解き、劇作家ウィリアムズの営為を新たな視座から論じられればと考えている。

第一回大会に参加ご希望の方は、下記の要領でお申し込みください。
<参加費用>
 Aプラン:22,000円(宿泊費、会場等の施設利用料、懇親会費、朝食代金を含む)
 Bプラン:1日参加2,000円/2日参加4,000円(当日参加のみで宿泊なし)
 Cプラン:1日参加9,000円/2日参加11,000円(当日参加+懇親会費)
<振込先>
 郵便振替口座 00990-8-269899
 加入者名 日本アメリカ演劇学会
 送金締切  5月31日(火)
 振込用紙通信欄に「大会参加費」と明記のうえ、A〜Cのプラン名とご自身のメールアドレスをご記入ください。
※2011年度年会費は当日会場でお支払い願います。尚、大会に参加されない方は、振込用紙の通信欄に「2011年度年会費」と明記のうえ、年会費(一般:6,000円/学生:4,000円)をご送金ください。
※但し、学部学生の当日参加費(施設使用料)は半額とします。
※ホテルがたいへん込み合う時期ですので、ご宿泊はツイン・トリプルのお部屋となります。シングルの部屋をご希望の方は、お振込みの際に「Aプラン シングル希望」と明記のうえ、22,000円に差額分3,150円をあわせた額25,150円をご送金ください。ご希望に沿えない場合は、当日差額分を返却させていただきます。
※申し込みはすでに終了しておりますが、参加ご希望の方は、学会事務局までメールでお問い合わせください。

会場:浅草ビューホテル
住所:〒111-8765 東京都台東区西浅草3-17-1
TEL:03-3847-1111  FAX:03-3842-2117
交通:つくばエクスプレス「浅草駅」直結/東京メトロ銀座線「田原町駅」徒歩7分
 東京メトロ・都営浅草線「浅草駅」徒歩10分/東武線「浅草駅」徒歩10分
 JR「上野駅」から車で5分
URL:http://www.viewhotels.co.jp/asakusa/

浅草ビューホテル・地図


2010年8月1日
 日本アメリカ演劇学会お知らせ

*日本アメリカ演劇学会発足
 2010年7月31日をもって、全国アメリカ演劇研究者会議は1984年以来27年に及ぶ歴史に幕を閉じ、本日2010年8月1日、全国アメリカ演劇研究者会議を改組・名称変更した新たに団体、日本アメリカ演劇学会が発足しました。現在まで21号を数える全国アメリカ演劇研究者会議の機関誌『アメリカ演劇』は、日本アメリカ演劇学会に引き継がれ、同じ名称で号を重ねていきます。全国アメリカ演劇研究者会議の会員は、そのまま日本アメリカ演劇学会会員となります。
 日本アメリカ演劇学会は27年に及ぶ全国アメリカ演劇研究者会議の蓄積を踏まえ、日本における新たなアメリカ演劇研究の中心的学術組織として、活発な研究成果発表・発信と情報交換、さらに研究者の交流の場としての活動を展開してまいります。また、全国アメリカ演劇研究者会議当時から、アメリカ演劇研究者だけでなく、英米小説・演劇、あるいはスペイン演劇など英語圏以外の演劇の研究者の方々の入会も増え、アメリカ演劇研究を核としたジャンル横断的なコラボレーションが可能になり、学会としていっそうの活性化を目指しています。
 年会費は一般会員6,000円、学生会員4,000円で、全国アメリカ演劇研究者会議から引き継いだ機関誌『アメリカ演劇』の発行と年次大会の開催を中心に活動を展開していきます。
 日本アメリカ演劇学会は、活発で先進的なアメリカ演劇研究の組織として、充実と発展を図ってまいります。多数のみなさまの入会と、研究発表・論文投稿を心よりお待ちしております。
 入会希望の方は、下記学会本部事務局までメールでお問い合わせ下さい。

事務局: 〒562-8558 大阪府箕面市粟生間谷東8−1−1
大阪大学大学院言語文化研究科言語社会専攻貴志研究室内
  Tel & Fax:072-730-5252
  E-mail: nihon_america_engeki@yahoo.co.jp
公式ウェブサイト http://www.geocities.jp/nihon_america_engeki/

全国アメリカ演劇研究者会議時代のお知らせ

2010年7月30日
 全国アメリカ演劇研究者会議お知らせ

*2010年第27回大会報告:
 2010年第27回大会は、「18・19世紀アメリカ演劇研究」をテーマに7月24日(土)・25日(日)、名古屋丸の内東急インで開催されました。
 初日は、竹島達也氏(都留文科大学)の司会のもと、森瑞樹氏(大阪大学・院)「ジャクソニアン・ジェミニの末裔――合衆国的英雄スパルタクスの文化的求心力」、次いで、中垣恒太郎氏(大東文化大学)「Mark Twainと19世紀後半のアメリカ大衆演劇――小説The Gilded Ageから演劇Colonel Sellersへの転換」がご発表になり、活発な質疑応答が展開されました。
 2日目のシンポジウムでは、「独立戦争から19世紀末に至るアメリカ演劇」をテーマに、貴志雅之(大阪大学)が司会兼パネリストを務め、黒田絵美子氏(中央大学)、岡本太助氏(大阪大学)、古木圭子氏(京都学園大学)がパネリストとして参加。午前の部(9:30〜12:00)と午後の部(13:00〜 14:30)の2部構成で行われました。午前の部では、各パネリストの発表が行われ、後半の午後の部では、フロアからの活発な質問が提示され、パネリストとフロアとの双方向の議論とパネリスト相互の間でも白熱した議論が展開されました。

*第27回総会――全国アメリカ演劇研究者会議の終幕から日本アメリカ演劇学会発足へ:
 シンポジウム後の総会では、2009年度の会計報告・承認、『アメリカ演劇』発行における金星堂の財政援助、7月18日現在の会員数の報告・承認が行われました。これに引き続き、本会議を改組・名称変更して8月1日より発足する「日本アメリカ演劇学会」の会則および選挙規程が承認されました。これを受けて、大会初日に行われた日本アメリカ演劇学会役員選挙開票の結果が正式に承認され、以下の通り、会長、副会長、評議員、編集委員が選ばれ、評議員会の承認を経て顧問が決定しました。

日本アメリカ演劇学会役員
会  長:  貴志 雅之(大阪大学)
副 会 長:  黒田絵美子(中央大学)
顧  問:  黒川 欣映
   長田 光展
   若山 浩
評 議 員:  古木 圭子(京都学園大学)
   戸谷 陽子(お茶の水女子大学)
   竹島 達也(都留文科大学)
   山本 秀行(神戸大学)
   原 恵理子(東京家政大学)
   児島 一男(獨協大学)
編集委員:  黒田絵美子
   山本 秀行
   古木 圭子
   貴志 雅之
   岡本 太助(大阪大学)

 なお、事務局幹事、地区委員、監事の決定は、評議員会と会長・副会長に委ねられることが承認されました。全役員のお名前は日本アメリカ演劇学会となりましたときに、発表させて頂きます。
 また、2011年に開催される日本アメリカ演劇学会第1回大会は、「テネシー・ウィリアムズ生誕100年」を記念して、テネシー・ウィリアムズをテーマに東京地区で7月の初旬開催を目指すことが承認されました。

 本大会で、全国アメリカ演劇研究者会議は1984年以来27年に及ぶ歴史に幕を閉じ、新たに日本アメリカ演劇学会として生まれ変わります。現在まで21号を数える機関誌『アメリカ演劇』は、日本アメリカ演劇学会に引き継がれ、同じ名称で号を重ねていきます。また、全国アメリカ演劇研究者会議の会員は、そのまま日本アメリカ演劇学会会員となります。
 全国アメリカ演劇研究者会議は、これまで日本におけるアメリカ演劇研究の中心的組織として、年次大会と『アメリカ演劇』を通し、多数の研究者の研究発信と議論の場となり、多くの研究者を世に送り出してきました。本会議発足当時、研究者の道を歩みだした若手が、今は中堅、ベテランとして、後進を育成し、精力的に研究活動を展開しています。また現在も、多くの若き研究者が本会議を通して研鑽を積み、成長を遂げています。
 これまで全国アメリカ演劇研究者会議の活動に、ご理解、ご協力、ご支援を頂きましたこと、同会議役員一同、厚く御礼申し上げます。そして、新たに生まれる日本アメリカ演劇学会にさらなるご支援、ご協力を賜りますようお願い申し上げます。
(文責:貴志 雅之)

全国アメリカ演劇研究者会議事務局nihon_america_engeki@yahoo.co.jp
〒562-8558 大阪府箕面市粟生間谷東8−1−1
大阪大学大学院言語文化研究科言語社会専攻貴志研究室内
TEL: 072-730-5252


2010年5月31日
 全国アメリカ演劇研究者会議第27回大会プログラム

時:2010年7月24日(土)・25日(日)
会場:名古屋丸の内東急イン
住所:〒460-0002 愛知県名古屋市中区丸の内2丁目17番18号
TEL:052-202-0109 FAX:052-202-0197
交通:JR「名古屋駅」桜通口から車で6分。
   地下鉄桜通線「丸の内駅」③番出口前。
   URL: http://www.marunouchitokyuinn.com/

18・19世紀アメリカ演劇研究
第1日 7月24日(土)  受付 13:00〜13:20
研究発表 13:30〜16:50
司会 都留文科大学 竹島 達也
1.ジャクソニアン・ジェミニの末裔――合衆国的英雄スパルタクスの文化的求心力
大阪大学(院) 森  瑞樹
2.Mark Twainと19世紀後半のアメリカ大衆演劇
   ――小説The Gilded Ageから演劇Colonel Sellersへの転換
大東文化大学 中垣 恒太郎
第2日 7月25日(日)
シンポジウム 9:30〜12:00(前半)/13:00〜14:30(後半)
総会 15:00〜17:00
シンポジウム「独立戦争から19世紀末に至るアメリカ演劇」
司会兼パネリスト  :  大阪大学   貴志 雅之
パネリスト  :  中央大学   黒田絵美子
   :  大阪大学   岡本 太助
   :  京都学園大学   古木 圭子

研究発表

司会 都留文科大学 竹島 達也
1.ジャクソニアン・ジェミニの末裔――合衆国的英雄スパルタクスの文化的求心力
大阪大学(院) 森  瑞樹
 古代ローマの剣闘士の物語は、現在においてマルチメディアに展開する合衆国の一大産業・文化としてある。剣闘士物語の合衆国への普及は、Robert Montgomery Birdが、スパルタクスの物語をThe Gladiator(1831)として19世紀初頭に蘇らせたことに端を発する。「大衆の英雄」―合衆国第7代大統領アンドリュー・ジャクソン―政権下の観客は古代ローマをイギリス、スパルタクスの反乱を合衆国の独立に見立て、文化的独立意識と愛国意識を高揚させた。つまり、独立戦争直後のアメリカ演劇に顕著であったように、The Gladiatorも、「アメリカなるもの」の追求・創造による合衆国の文化的独立の物語として捉えられた。その結果Birdは、「合衆国の理想的英雄」を作り上げた愛国者として名を馳せる。
 しかし、当時激化していた黒人奴隷の反乱を支持し、舞台化への欲求に駆られながらも、Birdは、物語を合衆国的に(白人好みに)カモフラージュし、保身をはかったと後に綴っている。このように、The Gladiatorには、民族浄化政策を徹底したジャクソン政権下で燻り、葛藤するBirdの姿も織り込まれている。つまりThe Gladiatorとは、矛盾する2つの物語を内包する政治的/文化的産物なのである。
 しかし、初演当時においても、そしてオルタナティブな読みが明確となったポストモダンの合衆国においても、The Gladiatorの転覆性は忘れ去られている。つまり、WASPのみではなく、アフリカ系アメリカ人のThe Gladiatorの消費も、「合衆国の理想的英雄」の一極に集中している感は否めない。
 そこで本発表では「スターシステム」、「新古典主義」等の視点から、現代にまで影響を及ぼす「合衆国の理想的英雄」の文化的求心力、またそれが可能にした自己言及的な転覆的物語抹消のシステムを解明する。その際に、James Nelson Barker のThe Indian Princess(1808)を対立項として論じてゆく。それにより、現代アメリカ文学が政治的メッセージを発信する際に有効、もしくは無効となる表象の一端も明らかになるだろう。

2.Mark Twainと19世紀後半のアメリカ大衆演劇
   ――小説The Gilded Ageから演劇Colonel Sellersへの転換
大東文化大学 中垣 恒太郎
 Mark Twain(1835-1910)の長編小説第一作The Gilded Age: A Tale of Today(1873、Charles Dudley Warnerとの共著)は、1870年代の時代思潮を体現するアメリカ史の用語として定着するまでに幅広く読まれ、その舞台化作品は興業的にも大成功をおさめた。劇作家David Mametが昨今のハリウッド業界を「現代の『金メッキ時代』」になぞらえたことからも、投機熱・上昇志向といったある種のアメリカ的気質を端的に示した作品として現在も捉えられていることがわかる。
 G. B. Densmoreによる舞台化作品は当初、作者Twainの許諾を得ずに上演されていたが、話題を聞きつけたTwainが脚本の権利を200ドルで買い取り、実際にはほとんど加筆していないものの、作者としての立場で以後の興行に関与した。この舞台化作品Colonel Sellers(1874)は、主要人物であるColonel Sellersを演じたJohn T. Raymond(1836-87)の怪演が人気を呼び、12年間にわたり上演が続けられ、Tom Sawyer , Huck Finnといった小説での代表作をも凌ぐ10万ドル以上の莫大な収益をTwainにもたらした。Twainは以後も脚本執筆、舞台化に並々ならぬ意欲を燃やしたが、続編Colonel Sellers as a Scientist(William Dean Howellsとの共作、1884)も含めてその目論見はすべて失敗に終わっている。
 本発表では小説The Gilded Ageがいかにして舞台版Colonel Sellersに転換しえたのかを、テクストとなる戯曲、興行上演の文化的背景について分析を試みる。Henry James、William Dean Howells、Bret HarteといったTwainの同時代人である小説家たちもまた、劇作に意欲的に関与していた事実から、彼らが19世紀アメリカ演劇にどのような可能性を見出していたのかをも展望してみたい。アメリカ大衆演劇がショー・ビジネスとして確立される以前の、混沌とした文化状況が浮かび上がってくるのではないか。

シンポジウム

「独立戦争から19世紀末に至るアメリカ演劇」

司会兼パネリスト  :  大阪大学   貴志 雅之
パネリスト  :  中央大学   黒田絵美子
   :  大阪大学   岡本 太助
   :  京都学園大学   古木 圭子

 1915年のプロヴィンスタウン・プレイヤーズとワシントン・スクエア・プレイヤーズという2大アバンギャルド劇団の誕生とユージーン・オニールの出現をもたらした1910年代の小劇場運動は、現代アメリカ演劇の黎明期とされ、この時代からアメリカ演劇はヨーロッパと肩を並べる世界演劇レベルの舞台を展開する。これが一つの共通認識になっている。一方、1714年、ニューヨーク植民地総督のRobert Hunter 作Androboros が演劇作品として初めてアメリカで出版されて以来、18世紀から19世紀にかけてアメリカで上演された演劇作品のなかにはシェイクスピアなど英国からの借り物演劇、あるいは19世紀ヨーロッパ演劇の盗作・脚色が多数あった。国内でアメリカ独自の演劇作品を生み出そうという機運も、利潤追求の華やかなショー・ビジネスの陰に隠れ、そのためこの時代のアメリカ演劇界は “A Borrowed Theatre”/ “Show Business"と言及されるのが常である。
 しかし、アメリカの国家形成と発展に、演劇が政治・文化・社会にわたって深くかかわってきたことも事実である。この観点から考えると、植民地時代から20世紀転換期に至るアメリカ演劇の様相は一変する。植民地時代から独立戦争にかけ、イギリスへの追従・忠誠を支持するロイアリスト/イギリス軍と、ホイッグ党を中心とした独立戦争支持派が、演劇上演によって熾烈な政治プロパガンダを展開し、独立を巡る政治力学で演劇は多大な役割を担った。また同時に、ピューリタンを中心とした神権政治による抑圧、あるいは1774年大陸会議による植民地における演劇上演の反対宣言など、政治・宗教に対して演劇が持つ影響力ゆえに逆に規制・禁止を被ることもあった。独立後、若き共和国となったアメリカは、国家およびナショナル・アイデンティティの形成から領土拡大、さらに産業資本主義大国(帝国)への道を歩む。その過程で、政治・文化の支配的イデオロギーとの共犯/対抗関係を持ちながら、アメリカの歩みを映し出すとともに、アメリカ的なるものを生産する文化社会的、政治的メディアの役割を果たしていく。つまり、アメリカの国家形成と発展・拡大、ヨーロッパとの緊張関係を含め、演劇はアメリカの政治・社会・文化的変化と密接に結びつき、国家形成・発展のあり方と方向性を左右する強力なダイナミズムを示したのである。この意味で、植民地時代から19世紀末・20世紀転換期に至るアメリカ演劇の社会的政治的研究の意義は極めて大きい。
 本シンポジウムでは、特に独立戦争から19世紀末に至る時代を射程に、独立戦争、南北戦争、奴隷制問題、インディアン戦争、西漸運動などの歴史問題、ファッション、経済、人種、ジェンダー等の問題、メロドラマからリアリズムへというアメリカ演劇の展開を含め、多角的な視野からこの時代の演劇を考えていく。最終的に、アメリカの国家形成と発展、ナショナル・アイデンティティ生成に関わる問題系を表象するアメリカ演劇の問題意識と展開、そしてその方向性を、社会的・政治的・文化的視座から再検証し、アメリカという国家の歩みとアメリカ演劇の関係性を考察・議論していくことで、アメリカ誕生以来、20世紀転換期直前に至るアメリカ演劇研究の新たな布石となれば幸いである。
(貴志 雅之)


若き共和国アメリカを巡る人物表象と間テクスト性の舞台

大阪大学 貴志 雅之

 独立戦争後のアメリカで、演劇はアメリカ/アメリカ人のアイデンティティ概念の形成・普及にかかわる問題系を映すとともに、アイデンティティ概念の形成・普及を促すパフォーマンス・メディアだった。
 英国贔屓、愛国者、ヤンキー、スパイ、インディアン(ネイティヴ・アメリカン)、牧師、魔女・妖術師の断罪を受ける親子など、特徴的な人物(表象)が登場する当時の舞台は、ナショナル・アイデンティティ生成を巡るアメリカ人のアンビヴァレントな精神状況を映し出す。一方にイギリス/ヨーロッパへの文化的従属・依存・傾倒、他方に新興共和国アメリカの文化的・精神的独立への渇望、という二つの相反する精神性の混在と葛藤状況が舞台上の人物と人物関係に表象される。またこの葛藤状況は、劇作家自身の作品創作の方法・プロセスにも影響を及ぼす。イギリス/ヨーロッパの先行テクスト(演劇作品)の改訂・改変、あるいはイギリスとの関係性に起因した植民地時代の歴史的事件を題材にして、アメリカ的なるものを作品化しようとする劇作家が活躍した。こうした社会的・政治的状況の中から、アメリカ人の底流にある旧世界との緊張関係の上に立った「アメリカ的なるもの」、新たなるナショナル・アイデンティティ創造への欲求と志向性が演劇作品を生み出していった。
 本発表では、Royall Tyler のThe Contrast(1787)、William Dunlap のAndré(1798)、James Nelson Barker のSuperstition (1824)、以上3作を中心に、作品テクストが孕む文学的・文化的間テクスト性と舞台上の人物表象を中心に、若き共和国アメリカのナショナル・アイデンティティ創造を巡るアメリカ演劇の政治学を検討する。そのなかから、(1)イギリス/ヨーロッパの文学文化遺産に依拠しつつ、進行形のアメリカの歴史と国家的アイデンティティ生成を舞台化する劇作家の劇作行為と(2)作品テクスト自身が描きだすアイデンティティ創造に向けた旧世界との緊張関係、この両者のパラレル関係をも浮上させることができればと考えている。

19世紀中葉のアメリカのfashionとlawをめぐる考察

中央大学 黒田絵美子

 19世紀中葉に書かれた、Fashion(Annna Cora Mowatt 1845)とThe Octoroon; Or Life in Louisiana(Dion Boucicault 1859)を扱う。この2作品はともにアメリカのアイデンティティの模索がテーマとなっている。前者においては、fashionをキイワードに、一家の女主人Mrs. Tiffanyが、あくまでもヨーロッパスタイルの生活や振舞いに拘る。経済に破綻をきたしてもなおフランス風に執着するその姿に、Blanche Du Boisの源流を求めることが出来ないか、分析してみたい。また、後者においては、細分化される登場人物たちの出自を背景に、しばしば繰り返されるlawという言葉に着目したい。登場人物それぞれが、Yankee, Indian, Quadroon, Octoroon, Yellow, Educated in Europeなどといった属性を負わされ、人間関係にpower gameが存在する一方で、感情的な好悪も複雑に絡む。勧善懲悪的な単純な展開であることは否めないが、それだけに当時のアメリカにおけるjusticeおよびlawというものの本質が読みとれるのではないかと推察される。19世紀中葉のアメリカにおいては、奴隷制をめぐってミズーリ協定(1820)やカンザス・ネブラスカ法(1854)といったルールが制定された。奴隷制の是非に関するこれらの法の持つ意味合いと絡めつつ、当時のcommon lawを形成していた人々のmentalityやmoral senseを登場人物たちの言動から抽出していきたい。また、作劇法については、両作品ともにasideという形で登場人物たちの内面が語られていることが特徴として挙げられる。このmonologueの形式と劇効果についても分析したい。

破壊と再生のレトリック――AndréShenandoah における戦争の舞台化

大阪大学 岡本 太助

 独立戦争と南北戦争は、アメリカという制度とそれを裏打ちする理念の、まさに根幹に関わる事件であった。そして同時代のアメリカ演劇は、これらの戦争を記録し、記憶するための文化的装置として機能したのである。しかしそれは、演劇が公正中立な媒体であるということを意味するものではない。演劇は特定の歴史認識を一方向的に送り出すだけのものではなく、時代の情勢や観客の欲求などの様々な条件の中で、それらと対話する形ではじめて成立するものだからである。したがって我々は、アメリカ史における重大な戦争についての劇を読むだけでなく、劇とそれを可能なものとした諸条件との関係性を、アメリカを巡るもう一つの物語として読むような、複眼的視点を持たなければならない。本発表では、戦争における死と破壊をより良い未来の建設の礎とするという、アメリカ的レトリックの萌芽と変容の過程と、そこにおいて演劇が果たした役割を、二つの徴候的作品を通して跡付けることを目指す。
 今回扱うWilliam DunlapのAndré(1798)とBronson HowardのShenandoah(1888)は、それぞれ独立戦争と南北戦争という出来事が、いまだ過去のものとはなっていない時期に、それらを舞台化した作品である。Andréの初演に対する観客の反応を見たDunlapは、ごく最近の過去を物語として提示することの困難さを実感したという。発表の前半では、この証言を議論の出発点として、Andréの時代背景について確認し、さらに劇中における様々な対立をつぶさに検証したうえで、歴史と物語の境界についての理論的考察へと進みたい。後半では、同じようにShenandoahの時代背景を押さえたうえで、リアリズム歴史劇・メロドラマ的恋愛物語・政治的アレゴリーなど、複数のジャンルとスタイルが混在する劇の構成に言及し、その効果について考察する。さらに、南北戦争という題材であれば当然そこにあるべきテーマの不在を手掛かりに、Andréとも比較しながら、Shenandoahの政治的無意識ともいうべき部分を明らかにしたい。

「転換期」の劇作家――James A. Herne

京都学園大学 古木 圭子

 「アメリカのイプセン」と呼ばれるJames A. Herneは、アメリカ演劇の「リアリズム」化を推進したとされる一方、そのオリジナリティを疑問視する声もある。Dorothy S. BucksとArthur H. Nethercotは、Margaret Fleming(1890)とIbsenのA Doll’s Houseにおけるプロットの類似点を指摘し、HerneがIbsenの影響を多大に受けていたと指摘する。また、この戯曲の前に発表されたDrifting Apart(1888)が、典型的メロドラマと捉えられることが多いため、彼のリアリズム演劇への転換が突発的であると評される。
 しかし、Margaret Fleming以前のHerne戯曲をメロドラマと位置づけることが妥当であろうか。Arthur Hobson Quinnは、Margaret Flemingを“the study of a woman’s character”と評するが、その萌芽は、既にDrifting Apartに現れている。Margaret Flemingの主人公は、女性ばかりでなく男性にも「貞節」を求めるという「理想」を口にする。Drifting ApartのMaryは、4年も姿を消した後に復縁を迫る夫Jackに対し、彼からの「支配」を拒絶する宣言をする。Drifting Apartは、夫婦の別離が単なるJackの夢であったという結末であり、彼の酒癖をたしなめる「教訓劇」として捉えられることが多いが、Maryの内的葛藤を見る限り、「リアリスト」Herneの成立の奇跡をたどる上で重要な作品と位置づけられる。
 本発表では、以上の点を踏まえて、James A. Herneの戯曲の分析を中心とし、ヨーロッパ演劇の影響も考慮に入れた上で、アメリカ演劇におけるリアリズムの成立過程、およびメロドラマからリアリズム演劇への転換について考察する。その過程で、Herneが「転換期」の劇作家としての役割を真に果たしていたのかどうかを明らかにしたい。

第27回大会に参加ご希望の方は、下記の要領でお申し込みください。
<参加費用> 16,000円(年会費は含まず)
郵便振替口座 00990-8-269899
加入者名 全国アメリカ演劇研究者会議
送金締切  6月30日(水)
振込票の通信欄に、「大会参加費」と明記ください。
年会費は当日会場でお支払い願います。
尚、大会に参加されない方で2010年度年会費をまだ振り込んでおられない方は、振込票の通信欄に、「2010年度年会費」と明記の上、年会費(一般6,000円;学生4,000円)をご送金ください。
※  参加費用は、宿泊費、会議室等の施設利用料、懇親会費と朝食代金を含んでおります。
※  2日目の昼食代金は上記参加費用に含まれておりませんので、昼食は各自でお願いすることになります。ただし、大会参加者にはホテル側が幕の内弁当(1,050円)または丼物(約945円)を予約によって用意してくれるとのことです。
おそらく大半の方が予約されると思います。いずれかをご希望の方は、大会参加費の振込票通信欄に、「弁当希望」または「丼物希望」とお書き添えください。

会場:名古屋丸の内東急イン
TEL:052-202-0109 FAX:052-202-0197
交通:JR「名古屋駅」桜通口から車で6分。
   地下鉄桜通線「丸の内駅」③番出口前。
   URL: http://www.marunouchitokyuinn.com/
名古屋丸の内東急イン・地図

2010年1月5日
 全国アメリカ演劇研究者会議お知らせ

明けまして、おめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

*2009年第26回大会報告:
 2009年第26回大会は、「スーザン=ロリ・パークス研究」をテーマに7月25日(土)・26日(日)、エルイン京都で開催されました。
 初日は、松本美千代氏(東洋学園大学)の司会のもと、後藤篤氏(大阪大学・院)「『標的』の図像解釈学―The America Playにおけるリンカン・イメージの反復と改訂」、次いで、沖野真理香氏(神戸大学・院)「視線と黒人女性―Venusにおける「視る/視られる」という行為」がご発表になり、活発な質疑応答が展開されました。
 2日目のシンポジウムでは、「スーザン=ロリ・パークスの超時空演劇」をテーマに、岡本太助氏(大阪大学)が司会兼パネリストを務められ、岡本淳子氏(大阪大学・非常勤)、藤田淳志氏(愛知学院大学)、有泉学宙氏(日本大学・非常勤)がパネリストとして参加。午前の部(9:30〜12:00)と午後の部(13:00〜 14:00)の2部構成で行われました。午前の部では、各パネリストの発表に次いで、フロアから活発な質問が提示され、後半の午後の部では、質疑に対するパネリストの応答、パネリストとフロアとの双方向の議論と、パネリスト相互の間でも白熱した議論が展開されました。
 総会(午後14:10−15:00)では、2008年度の会計報告・承認、『アメリカ演劇』発行における金星堂の財政援助、7月18日現在の会員数、ホームページ・アクセス数(8289件)の報告と、今後の活動方針についての話し合いが持たれました。その一環として、最重要問題として話し合われましたのが、本会議事務局より出された本会議の名称変更の提案でした。そして、総会での審議の結果、2010年より全国アメリカ演劇研究者会議は、「日本アメリカ演劇学会」に名称変更をする旨、承認されました。(具体的、時期と手続きについては、下記の「学会名称変更のお知らせ」をご覧ください。
 また、2010年度第27回大会は、「19世紀アメリカ演劇研究」をテーマに、7月24日(土)・25日(日)名古屋で開催することが承認されました。

*学会名称変更のお知らせ:
 上述しましたように、2010年より全国アメリカ演劇研究者会議は、「日本アメリカ演劇学会」に名称を変更し、新たな学会活動をスタートすることになります。名称変更とともに、学会本部構成および役員選出方法等に関する会則の策定を始め、現在、日本アメリカ演劇学会発足に向けた準備作業を行っております。予定では、本年2010年7月開催の全国アメリカ演劇研究者会議第27回大会第2日目、7月25日(日)の総会におきまして、新学会の役員最終選出と本部構成の承認を頂き、8月1日(日)をもって、日本アメリカ演劇学会をスタート致します。みなさまには、新学会発足に向けた手続きに関してまして、ご理解とご協力をお願い申し上げますとともに、これまで以上に積極的なご参加とご発表、ご投稿をして頂きますことを、心よりお願い申し上げます。

*2010年度第27回大会開催地決定と研究発表者、シンポジウム・パネリスト募集:
第27回大会は、「19世紀アメリカ演劇研究」をテーマに、7月24日(土)・25日(日)「名古屋丸の内東急イン」(http://www.marunouchitokyuinn.com/)で開催され、現在、愛知学院大学の藤田淳志氏に会場準備を進めて頂いております。つきましては、第27回大会の研究発表者、シンポジウム・パネリストを募集しております。「19世紀アメリカ演劇研究」というテーマですが、18世紀独立戦争以降から、20世紀初頭を含む世紀転換期に至る劇作家、作品であれば結構です。ご参考までに、19世紀および19世紀前後の時代のアメリカ演劇作品は、以下の選集等に収められています。

入手できるもの:
Matlaw, Myron, ed. Nineteenth Century American Plays: Seven Plays Including The Black Crook. New York: Applause, 2001.
Richards, Jeffrey H., ed. Early American Drama. New York: Penguin Books, 1997.

絶版、しかしアマゾン等で中古購入可能なもの:
Gassner, John, ed. Best Plays of the Early American Theatre. New York: Dover Publications, Inc., 2000. (New York: Crown, 1967)
Wilmeth, Don B., ed. Staging the Nation: Plays from the American Theater 1787-1909. Boston: Bedford Books, 1998.

その他、個別作家についての情報ならびに研究書情報は、たとえば、
Richardson, Gary A. American Drama from the Colonial Period Through World War I: A Critical History. New York: Twayne, 1993.
等の研究書に記載の文献リストをご参考ください。

 事務局では、研究者会議のいっそうの活性化と発展を目指し、より多くの会員のみなさまに研究成果をご発表頂きたく考えております。ご希望の方は、全国アメリカ演劇研究者会議事務局(nihon_america_engeki@yahoo.co.jp)までご連絡下さいますようお願いします。応募締切は2010年2月13日(土)とさせて頂きます。

*機関誌『アメリカ演劇』の発行と原稿募集
 現在『アメリカ演劇』21号(ソーントン・ワイルダー特集II)の編集作業が最終段階を迎え、本年2月から3月初旬に発行される見込みです。今少し、お待ちください。
 『アメリカ演劇』22号(スーザン=ロリ・パークス特集)の原稿を募集しております。大会での発表者、シンポジウム・パネリストの投稿はもちろんのこと、それ以外のみなさまの原稿も是非お寄せください。また、特集以外の内容の原稿につきましても、アメリカ演劇に関連するものであれば掲載可能です。宛先は下記の全国アメリカ演劇研究者会議事務局、原稿締切は、2010年5月末日です。(今年は原稿締切を例年より3カ月延長していますが、論文審査、編集作業の都合上、少しでも早い時期に投稿頂けると嬉しく思います。)
 なお、ご投稿予定の会員の方はあらかじめ、その旨、事務局の貴志雅之または編集委員長の黒田絵美子までメールでご連絡頂ければ幸いです。
 
宛先:全国アメリカ演劇研究者会議事務局
〒562-8558 大阪府箕面市粟生間谷東8−1−1 
大阪大学大学院言語文化研究科言語社会専攻貴志研究室内

『アメリカ演劇』投稿規定
1. 投稿論文は3部送付のこと。
2. 内容  特集作家に関する未発表の研究論文(和文)。ただし、特集作家以外のアメリカ演劇に関する未発表の論文、エッセイ、記事も可。
3. 枚数  原則としてA4判400字詰縦書き原稿用紙に50枚以内(後注、文献一覧を含む)。
 ワープロ・パソコン使用の場合は、A4判用紙に縦書きで30字×30行とし、20,000字以内を目安とする。
4. 体裁  注は後注とし、本文の終わりにまとめ、引用文献一覧を付す。引用文は原文ではなく、和訳を記載する。外国の書名・作品名は和文で表記し、初出の箇所で和文の後に括弧をして原名を書く。その他書式の細部については、『MLA新英語論文の手引第6版』(北星堂)に従う。
5. 原稿の採否および掲載の時期は編集委員が決定する。
6. 採用論文の執筆者は原則として『アメリカ演劇』の当該特集号を20部買い上げる。
7. 校正は原則として2回とする。
8. 宛先  全国アメリカ演劇研究者会議事務局(〒562-8558 大阪府箕面市粟生間谷東8−1−1 大阪大学大学院言語文化研究科言語社会専攻貴志研究室内)。
 封筒に「『アメリカ演劇』原稿」と明記のこと。
9. 締切  2010年5月末日。
※依頼原稿については、この限りでない。

*全国アメリカ演劇研究者会議ホーム・ページhttp://www.geocities.jp/nihon_america_engeki/を随時更新しております。またご覧ください。
       
 では、今年度も何卒よろしくお願い申し上げます。
(文責:貴志 雅之)


全国アメリカ演劇研究者会議事務局nihon_america_engeki@yahoo.co.jp
〒562-8558 大阪府箕面市粟生間谷東8−1−1
大阪大学大学院言語文化研究科言語社会専攻貴志研究室内
TEL: 072-730-5408(4月1日より072-730-5252)



2009年5月12日
 全国アメリカ演劇研究者会議第26回大会プログラム

時:2009年7月25日(土)・26日(日)
会場:エルイン京都
住所:〒601-8004 京都市南区東九条東山王町13
TEL:075-672-1100 FAX:075-672-9988
交通:JR京都駅の八条東口を出てすぐ。左手に見える赤いレンガ調の建物がエルイン京都です。(八条東改札は午後11時までです。以降は他の改札をご利用ください。)

スーザン=ロリ・パークス研究
第1日 7月25日(土) 受付 13:30〜13:50
研究発表 14:00〜17:00
司会 東洋学園大学 松本美千代
1.「標的」の図像解釈学―The America Playにおけるリンカン・イメージの反復と改訂
大阪大学(院) 後藤  篤
2.視線と黒人女性――Venusにおける「視る/視られる」という行為
神戸大学(院) 沖野真理香
第2日 7月26日(日)
シンポジウム 9:30〜12:00(前半)/13:00〜14:00(後半) 総会 14:10〜15:00
シンポジウム「スーザン=ロリ・パークスの超時空演劇」
司会兼パネリスト 大阪大学 岡本 太助
パネリスト 大阪大学(非常勤) 岡本 淳子
  愛知学院大学 藤田 淳志
  日本大学(非常勤) 有泉 学宙

研究発表
司会 東洋学園大学 松本 美千代
1.「標的」の図像解釈学―The America Playにおけるリンカン・イメージの反復と改訂
大阪大学(院)  後藤  篤
Suzan-Lori ParksのThe America Play (1990-3)は、後にTopdog/Underdog (2002)でも再び用いられることとなる「リンカン暗殺」という「歴史」を再-収集し、過去の「発掘」をめぐる家族の物語として再構築した作品である。The Foundling Fatherによる扮装あるいは偽装、そして反復可能な参加型のエンターテイメントとして「歴史」を改変し続ける「暗殺ショー」といったモチーフを描いたこの作品は、歴史的事実としての「暗殺」が物語られた「歴史」に過ぎないということを暴露し、“Possession” (1994)において提示される作者の歴史認識とその演劇戦略を確認させるものとなっている。
しかしながら、この作品で描かれる「記録」としての「歴史」に対する変更が、「リンカン」というアメリカ史のイコン、さらにはそれが孕む歴史上のリンカンを取り巻く様々なイメージに対する変更と密接な関係にあるという点は見逃されるべきではない。なぜなら、「リンカン」もまた、「暗殺」を頂点とするいくつもの神話化のプロセスを経て作り出されたイメージの集成であり、The America Playは「暗殺」の瞬間のみならず、そこで放たれる銃弾の標的となった人物の肖像さえも書き換えていくからだ。
本発表では、作品において描かれる「リンカン」のイコンとそれを取り巻く神話的なイメージに対する「反復と改訂」に注目し、劇中においてそれらがどのように解体され、また再構成されているかということについて論じていく。その際、結末においてThe Foundling Fatherが「歴史の大穴」でパレードを繰り広げる偉人たちの列に加わるまでの過程を歴史上のリンカンが神話化される過程とアナロジカルに捉え、劇中に散りばめられた「リンカン」の表象についての分析を試みるとともに、作品が持つ「レプリカ」の主題について考察していく。
2.視線と黒人女性――Venusにおける「視る/視られる」という行為
神戸大学(院) 沖野真理香
1996年に初演されたSuzan-Lori ParksのVenusは、イギリス人によって見世物にされ、“Hottentot Venus”と呼ばれた歴史上の実在人物Saartjie Baartmanをモチーフにしている。この劇の主人公Miss Saartjie Baartman/The Girl/The Venus Hottentot (以下The Venus)は、お尻が異様に大きいことが特徴であるアフリカのコイコイ人女性である。The Venusが白人社会で見世物になるという設定が示すように、この劇はポスト・コロニアルなテーマをはらんでいるように見える。
特にこの劇では、The Venusが観客の視線に晒されるという点で、黒人女性が「視られる」他者であるという問題を提示している。女性と視線の問題は少なからず議論されてきた。本発表では、アフリカ人女性という人種的・性的に二重に抑圧されたThe Venusと彼女をめぐる人々との間にある「視る/視られる」という行為について検討したい。とりわけ、ハリウッド映画における“male gaze” (男性の視線)の窃視的およびフェティシズム的作用について指摘したフェミニズム映画批評家Laura Mulveyの理論を参照しつつ、この劇における視線について考察したい。また、人種・エスニシティと視線の問題に関しては、メキシコ出身のパフォーマンス・アーティストGuillemo Gomez-Penaらが実践してきた「ミュージアム効果」などを参考にしたい。さらに、The Venusは見世物として「視られる」だけでなく、自分を欲望するThe Baron Docteurを「視る」側に立つことで、?視る側→視られる側?という一方向的な視線の構造を攪乱する。
これらのことを材料に、Venusにおける視線および窃視行為を考察することで、黒人女性、ひいては人種的マイノリティや女性全般が「視られる」存在であるという問題について考え、そこにParksの黒人女性としてのマイノリティ・ポリティクスを見出したい。

第2日 7月26日(日)
シンポジウム 9:30〜12:00(前半)/13:00〜14:00(後半)
「スーザン=ロリ・パークスの超時空演劇」
司会兼パネリスト 大阪大学 岡本 太助
パネリスト 大阪大学(非常勤) 岡本 淳子
  愛知学院大学 藤田 淳志
  日本大学(非常勤) 有泉 学宙
Suzan-Lori Parks (1963- )はこれまでに演劇、映画脚本、小説など多面的な創作活動を展開し、それぞれの分野において高い評価を獲得している。特に2001年初演の劇Topdog/Underdogによって、アフリカン・アメリカン女性劇作家として初のピューリッツァー賞を獲得するなど、現代アメリカ最重要劇作家の一人としての地位を揺るぎないものとしている。本シンポジウムでは、特に劇作家としてのパークスとその作品について、パネリストそれぞれが独自の視点からのアプローチを試み、全体として、パークス劇の多面性を明らかにすることを目指す。
 各論においては、黒人性あるいは黒人演劇史、ジェンダー/セクシュアリティ、主体やアイデンティティ、演劇技法や間テクスト性など、幅広い論点が提示されることが予想される。本シンポジウムでは、「超時空演劇」というテーマによってそれらの論点を緩やかに結び付けたい。これはいかようにも解釈できる漠然としたタームではあるが、ここでは特に次の二点を強調して定義しておきたい。まずひとつめは、劇作家としてのパークスが示す歴史への強い関心と、その作品における歴史の解体と再創造のプロセスを、「超時空」的なものとして理解しようということである。つまり、単に「ありのままの」歴史を再演するのではなく、反復と書き換えによって歴史を解体/再構築し、それを空間的メディアである舞台と戯曲テクストの上において再提示する行為のダイナミズムを表現するものとしての「超時空」である。もう一点は、作品そのものの精読が明らかにする、パークス劇の「超時空」的構造である。非直線的プロット構成はもちろんのこと、過去の文芸作品やその他のドキュメントからの奔放な引用、意図的なアナクロニズムの多用など、パークス劇の複雑極まりない仕掛けは、観客/読者が時間的・空間的に安定した状態にとどまることを許さない。受容する側もまた、複眼的な視点をもって、積極的にコミットすることを求められるのである。
 あるエッセイの中でパークスは、作品に込められた象徴性や意図を読み取ることは無意味であり、各人がそれぞれの解釈をぶつけ合うべきである、という趣旨の発言をしている。これは我々演劇研究に携わる者にとっては勇気づけられるメッセージではあるが、同時に、我々が負うべき責任を容赦なく突き付けるものでもある。本シンポジウムを、こうした責任を果たす機会とし、創造的な議論を交わすための場としたい。(岡本 太助)
プリズム――Venusにおける断片化と全体性の回復
大阪大学 岡本 太助
歴史学、生物学、芸術論、情報工学――今日我々がその恩恵に浴する「知」の諸分野において、「全体は部分の総和以上のものである」というテーゼが繰り返し現れる。その一方で、真実や魂は「細部に宿る」とも言われる。The America Playにおいて、断片化し埋められてしまったアフリカン・アメリカンの歴史を掘り起こし、オクシモロン的“whole Hole”の形象を用いてその歴史の全体性を回復・再創造しようと試みたパークスの劇作においても、部分と全体の関係は中心的なテーマとなっている。伝統的劇作が自明のものとする物語の直線的構造からの離脱を図るパークス劇を、<断片化>と<全体性>をキーワードに読み解くことが、本発表の目的である。
 今回は1996年初演のVenusを主なテクストとして議論を進めるが、その議論もまた、部分と全体を往還しながら進められることとなるだろう。例えば、Baartman/Venusの「解体」プロセスにおいて展開する魅了と嫌悪、欲望と恐怖の混在するまなざしの政治学をテクストに即して論じつつ、それをテクスト構造における断片化と照応させ、さらに劇の内部と外部との境界解体の議論へと連結していく。その作業を経て、複数のレベルの間の関係性にこそ、パークス劇の神髄があることを明らかにしたい。
 連続体としての歴史を現在において分節し再構築するためには、いったんその連続性を解体し、断片化する必要がある。パークスの劇作は、「歴史の連続を打ち破る」(ベンヤミン)ためのプリズムとして機能するのである。
アフリカン・アメリカンと資本主義、そして「大文字の歴史」
大阪大学(非常勤) 岡本 淳子
VenusのThe Venus Hottentot、In the BloodのHester、そしてTopdog/Underdogの二人の兄弟に共通するのは、彼らが経済的に苦しく、金を必要としていることである。搾取する白人と搾取される黒人という大きな二項対立が背景にあることは否めないが、パークスが描くのは、そのような資本主義を逆手にとり、白人あるいは勝者とみなされるものを搾取するアフリカン・アメリカンの姿である。その際にパークスは、見る主体白人と見られる客体黒人という一般的な対立をも解体し、一種のショーとして自主的に見せる黒人を描き出す。そして、社会の一般的な価値規範から大きく外れた “shameless”、 “filthy”、“ugly”、“indecent”、そして“unfortunate”である主人公たちが、人々を魅了し、彼らを支配する力さえ持つことが提示される。
しかしながら、The Venus HottentotもHester、それにLincolnもBoothも、彼らを搾取する社会を見返し、勝者になることはない。善悪、勝敗、あるいは上下の境界はあいまいであり、恣意的な価値基準は常に変化する。従って、最終的な転覆あるいは勝利というものは存在しない。それに加えてパークスが描くのは、名前に象徴される「大文字の歴史」が与える運命である。アフリカン・アメリカンは歴史の大穴を掘り返す作業を続けているが、それでもなお覆いかぶさる「大文字の歴史」の圧力をパークス作品に感じずにはいられない。
見るもの、見られるもの、見せるもの、そして価値基準の変化を論じる際には、パークスの初期の作品、Imperceptible Mutabilities in the Third Kingdomにも触れることになるであろう。
ヘスターを隔てる境界?In the BloodThe Scarlet Letterの比較から
愛知学院大学 藤田 淳志
 In the BloodではThe Scarlet Letterと同様、社会の周縁に追いやられた主人公ヘスターが描かれる。どちらの作品でもヘスターと他の登場人物たちの間には境界があり、観客/読者の多くは他の登場人物たちの側から、他者としてヘスターを見ることになる。
 The Scarlet Letterにおける読者に対する直接の語りかけ、In the BloodにおけるThe Scarlet Letterからの様々な要素の借用など、両作品ではメタフィクションの仕掛けが特徴的である。マジョリティにアイデンティファイする観客/読者は、それぞれの作品のメタ性を通してヘスターを苦境に追い込んだことに対する自らの有罪性を認識させられる。しかし2作品の間でその構造と程度は異なり、またへスターを隔てる境界の存在の仕方も異なる。
 これらの作品を比較しながら、パークスがどのようにホーソンの作品を“rep&rev”し、In the Bloodを描いたのか、へスターのセクシュアリティを中心に分析を試みたい。
スーザン=ロリ・パークスの「リンカン劇」
日本大学(非常勤) 有泉 学宙
主人公がリンカンに扮してリンカンの最後の場面を演じる余興・生業を含むThe America PlayTopdog/Underdogを仮に「リンカン劇」とする。前者はベケット的な前衛劇であり後者はアメリカ伝統の家庭劇。共通するのはこれらが黒人作家パークスの歴史意識の反映であるという点だ。前者の主人公は、無名の「ファンドリング・ファーザー」(「捨て子の父」)として、アメリカの歴史から「捨てられた」黒人として存在する。後者の兄弟は、リンカンとブースと命名され、名付け親から「捨てられ」て、最後には、その名のとおりリンカンはブースに殺される。「ファンドリング・ファーザー」はアメリカの過去を「掘り」続け、また、後者の兄弟は家族の過去からは逃れられない。これらはともにかれらの運命である。リンカン暗殺のイメージに強く引かれるという作者は、黒人はリンカンの死をとおしてはじめて自らの過去を掘り起こす契機を与えられたのだと言う。そして、パークスは、「反復と修正」という独自のドラマツルギーによって、従来の演劇の形式と内容を脱構築するだけでなく、アメリカの歴史(白人が書いた過去の歴史)の掘り起こしをシンボリックに舞台化した。さらに、白人にプロテストする黒人を描くのではなく、また、黒人と白人双方が「トップドッグ」でもなく「アンダードッグ」でもない状況を設定し、人種対立を越えて、黒人が白人の歴史を「修正」することに意味を見出そうとするのである。白人は歴史を持つ者、黒人は持たぬ者と言ったトニ・モリソンのように、パークスの演劇もまた、改めて黒人性の意味を問い、アメリカの歴史のアイデンティティそのものを黒人の視点から再発見しようとするものではないだろうか。

第26回大会に参加ご希望の方は、下記の要領でお申し込みください。
<参加費用> 14,000円(年会費6,000円[学生4,000円]は含まず)
郵便振替口座 00990-8-269899
加入者名 全国アメリカ演劇研究者会議
送金締切  7月3日(金)
年会費は当日会場でお支払いお願いします。
尚、大会に参加されない方は、年会費をご送金ください。
※参加費用には、宿泊費、会議室等の施設利用料、懇親会費用を含んでおります。
エルイン京都・地図
※JR京都駅の八条東口を出て左手に見える赤いレンガ調の建物がエルイン京都です。
 (八条東改札は午後11時までです。以降は他の改札をご利用ください。)
会場:エルイン京都
住所:〒601-8004 京都市南区東九条東山王町13
TEL:075-672-1100
FAX:075-672-9988
URL:http://www.elinn-kyoto.com

2009年1月1日
 全国アメリカ演劇研究者会議お知らせ

明けまして、おめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

*2008年の第25回大会は、「ソーントン・ワイルダー研究」をテーマに6月28日(土)・29日(日)、エスカル横浜で開催されました。
 初日は、古木圭子氏(京都学園大学)の司会のもと、井上紗央里氏(法政大学・院)「繰り返される命と言葉 ―The Long Christmas Dinnerに描かれた生と死」、次いで森本道孝氏(大阪大学・院)「The Skin of Our Teethの寸断されるプロットが示すWilderの人生観」、最後に井上治氏(近畿大学)「『危機一髪』―「舞台監督」の退場をめぐって」がご発表になり、活発な質疑応答が展開されました。
 2日目のシンポジウムでは、「Our Townを読み解く ― 歴史と普遍、固体と永遠」をテーマに、長田光展氏(中央大学名誉教授)が司会兼パネリストを務められ、久保田文氏(文化女子大学)、戸谷陽子氏(お茶の水女子大学)、貴志雅之(大阪大学)がパネリストとして参加。午前の部(9:00〜12:00)と午後の部(1:00〜 2:30)の2部構成で行われました。午前の部では、各パネリストの発表に次いで、フロアから活発な質問が提示され、後半の午後の部では、質疑に対するパネリストの応答、パネリストとフロアとの双方向の議論と、パネリスト相互の間でも白熱した議論が展開されました。全体として、ワイルダーを「歴史と普遍、固体と永遠」というテーマのもとで横断的に多岐にわたる議論が交わされ、さらなるワイルダー研究の地平を拓くシンポジウムになりました。
 総会(午後2:40−3:30)では、2007年度の会計報告・承認、『アメリカ演劇』発行における金星堂の財政援助、6月27日現在の会員数、ホームページ・アクセス数(7336件)の報告と、今後の活動方針についての話し合いが持たれました。また、2009年度第26回大会は、「スーザン=ロリ・パークス」(Suzan-Lori Parks)をテーマに、7月25日(土)・26日(日)京都または神戸で開催することが承認されました。

*2009年度第26回大会開催地決定と研究発表者、シンポジウム・パネリスト募集:
第26回大会を「エルイン京都」(http://www.elinn-kyoto.com/)で開催することに決定しました。つきましては、第26回大会の研究発表者、シンポジウム・パネリストを募集しております。事務局では、研究者会議のいっそうの活性化と発展を目指し、より多くの会員のみなさまに研究成果をご発表頂きたく考えております。ご希望の方は、全国アメリカ演劇研究者会議事務局(nihon_america_engeki@yahoo.co.jp)までご連絡下さいますようお願いします。応募締切は2009年1月31日(土)とさせて頂きます。

*機関誌『アメリカ演劇』の発行と原稿募集
 現在『アメリカ演劇』20号(テレンス・マクナリー特集)の編集作業が最終段階を迎え、本年2月に発行される見込みです。今少し、お待ちください。
 『アメリカ演劇』21号(ソーントン・ワイルダー特集)の原稿を募集しております。大会での発表者、シンポジウム・パネリストの投稿はもちろんのこと、それ以外のみなさまの原稿も是非お寄せください。また、特集以外の内容の原稿につきましても、アメリカ演劇に関連するものであれば掲載可能です。宛先は下記の全国アメリカ演劇研究者会議事務局、原稿締切は、2009年2月28日(土)です。
(ただし、論文審査、編集作業の都合上、少しでも早い時期に投稿頂けると嬉しく思います。)
なお、ご投稿予定の会員の方はあらかじめ、その旨、事務局の貴志雅之または編集委員長の黒田絵美子までメールまたは電話でご連絡頂ければ幸いです。
 
宛先:全国アメリカ演劇研究者会議事務局
〒562-8558 大阪府箕面市粟生間谷東8−1−1 
大阪大学大学院言語文化研究科言語社会専攻貴志研究室内

*全国アメリカ演劇研究者会ホーム・ページhttp://www.geocities.jp/nihon_america_engeki/を随時更新しております。またご覧ください。
       
 では、今年度も何卒よろしくお願い申し上げます。
(文責:貴志 雅之)


全国アメリカ演劇研究者会議事務局nihon_america_engeki@yahoo.co.jp
〒562-8558 大阪府箕面市粟生間谷東8−1−1
大阪大学大学院言語文化研究科言語社会専攻貴志研究室内
TEL: 072-730-5408


『アメリカ演劇』投稿規定
1. 投稿論文は3部送付のこと。
2. 内容  特集作家に関する未発表の研究論文(和文)。ただし、特集作家以外のアメリカ演劇に関する未発表の論文、エッセイ、記事も可。
3. 枚数  原則としてA4判400字詰縦書き原稿用紙に50枚以内(後注、文献一覧を含む)。
 ワープロ・パソコン使用の場合は、A4判用紙に縦書きで30字×30行とし、20,000字以内を目安とする。
4. 体裁  注は後注とし、本文の終わりにまとめ、引用文献一覧を付す。引用文は原文ではなく、和訳を記載する。外国の書名・作品名は和文で表記し、初出の箇所で和文の後に括弧をして原名を書く。その他書式の細部については、『MLA新英語論文の手引第6版』(北星堂)に従う。
5. 原稿の採否および掲載の時期は編集委員が決定する。
6. 採用論文の執筆者は原則として『アメリカ演劇』の当該特集号を20部買い上げる。
7. 校正は原則として2回とする。
8. 宛先  全国アメリカ演劇研究者会議事務局(〒562-8558 大阪府箕面市粟生間谷東8−1−1 大阪大学大学院言語文化研究科言語社会専攻貴志研究室内)。
 封筒に「『アメリカ演劇』原稿」と明記のこと。
9. 締切  毎年2月末日。
※依頼原稿については、この限りでない。


2008年1月1日
 全国アメリカ演劇研究者会議お知らせ

明けまして、おめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

*2007年の第24回大会は、「テレンス・マクナリー」をテーマに6月30日(土)、7月1日(日)、名古屋丸の内東急インで開催されました。
 初日は、原恵理子氏(東京家政大学)の司会のもと、森瑞樹氏(大阪外国語大学・院)「A Perfect Ganeshに見るアメリカという地軸」、次いで佐藤里野氏(お茶水女子大・院)「Corpus Christiにみる「アメリカ」」、最後に藤田淳志氏(愛知学院大学)「Lips Together, Teeth Apart ― ゲイの登場しない「ゲイ演劇」が示すホモフォビア」がご発表になり、活発な質疑応答が展開されました。
 2日目のシンポジウムでは、「Terrence McNallyの譲れないもの ― 芸術観、愛、人生観」をテーマに、黒田絵美子氏(中央大学)が司会兼パネリストを務められ、竹島達也氏(都留文科大学)、岡本淳子氏(大阪外国語大学・非常勤)、依田里花氏(駒沢大学・非常勤)がパネリストとして参加。午前の部(9:00〜12:00)と午後の部(1:00〜 3:00)の2部構成で行われました。午前の部では、各パネリストの発表に次いで、フロアから活発な質問が提示され、後半の午後の部では、質疑に対するパネリストの応答、パネリストとフロアとの双方向の議論と、パネリスト相互の間でも白熱した議論が展開されました。全体として、多様なMcNallyの重要作品を一貫したテーマのもとで横断的に論じられた収穫の多いシンポジウムになりました。
 総会(午後3:10−4:00)では、2006年度の会計報告・承認、2007年6月29日現在の会員数と会費納入状況の報告、『アメリカ演劇』発行における金星堂の財政援助とホームページ・アクセス数(5852件)について報告がありました。
 また、2008年度第25回大会は、「ソーントン・ワイルダー」(Thornton Wilder)をテーマに、6月28日(土)・29日(日)東京で開催することが承認されました。

*2008年度第25回大会の研究発表者、シンポジウム・パネリストを募集しております。事務局では、研究者会議のいっそうの活性化と発展を目指し、より多くの会員のみなさまに研究成果をご発表頂きたく考えております。ご希望の方は、貴志雅之(TEL: 079-594-1973; E-mail: mkishigood@jeans.ocn.ne.jp)または若山浩(自宅TEL: 0584-75-0847; E-mail: CZK13164@nifty.ne.jp)までご連絡下さいますようお願いします。応募締切は2008年1月26日(土)とさせて頂きます。

*機関誌『アメリカ演劇』の発行と原稿募集
 『アメリカ演劇』19号(エドワード・オールビー特集 II)が2007年12月に発行されました。大会報告欄には2007年第24回大会の研究発表・シンポジウムのレジュメとともに、前年度一部脱落の不備がありました2006年第23回大会の報告も修正して掲載しております。
 現在、『アメリカ演劇』20号(テレンス・マクナリー特集)の原稿を募集しております。大会での発表者、シンポジウム・パネリストの投稿はもちろんのこと、それ以外のみなさまの原稿も是非お寄せください。また、特集以外の内容の原稿につきましても、アメリカ演劇に関連するものであれば掲載可能です。原稿締切は、2008年2月29日(金)です。(ただし、論文審査、編集作業の都合上、少しでも早い時期に投稿頂けると嬉しく思います。)
 なお、2008年度より編集委員長が若山浩氏から黒田絵美子氏に引き継がれます。18号と19号の編集責任者としてご尽力頂いた若山氏、そして新たに編集委員長をお引き受け頂いた黒田氏に心より御礼申し上げます。

宛先:全国アメリカ演劇研究者会議事務局
〒562-8558 大阪府箕面市粟生間谷東8−1−1
大阪大学大学院言語文化研究科言語社会専攻貴志研究室内

*事務局の所在地および投稿規定記載の原稿の宛先が、2007年10月1日より、上記のとおり、これまでの住所のままで、名称が大阪大学大学院言語文化研究科言語社会専攻貴志研究室内に変わりました。

*2007年度1月以降に入会された新入会員の方々のご紹介:
藤田  秀樹  (富山大学)
沖野 真理香  (神戸大学[院])

*全国アメリカ演劇研究者会ホーム・ページhttp://www.geocities.jp/nihon_america_engeki/を随時更新しております。またご覧ください。

 では、今年度も何卒よろしくお願い申し上げます。

(文責:貴志 雅之)


全国アメリカ演劇研究者会議事務局nihon_america_engeki@yahoo.co.jp
〒562-8558 大阪府箕面市粟生間谷東8−1−1
大阪大学大学院言語文化研究科言語社会専攻貴志研究室内
TEL: 072-730-5408


『アメリカ演劇』投稿規定
1. 投稿論文は3部送付のこと。
2. 内容  特集作家に関する未発表の研究論文(和文)。ただし、特集作家以外のアメリカ演劇に関する未発表の論文、エッセイ、記事も可。
3. 枚数  原則としてA4判400字詰縦書き原稿用紙に50枚以内(後注、文献一覧を含む)。
 ワープロ・パソコン使用の場合は、A4判用紙に縦書きで30字×30行とし、20,000字以内を目安とする。
4. 体裁  注は後注とし、本文の終わりにまとめ、引用文献一覧を付す。引用文は原文ではなく、和訳 を記載する。外国の書名・作品名は和文で表記し、初出の箇所で和文の後に括弧をして原名を書く。その他書式の細部については、『MLA新英語論文の手引第6版』(北星堂)に従う。
5. 原稿の採否および掲載の時期は編集委員が決定する。
6. 採用論文の執筆者は原則として『アメリカ演劇』の当該特集号を20部買い上げる。
7. 校正は原則として2回とする。
8. 宛先  全国アメリカ演劇研究者会議事務局(〒562-8558 大阪府箕面市粟生間谷東8−1−1大阪大学大学院言語文化研究科言語社会専攻貴志研究室内)。封筒に「『アメリカ演劇』原稿」と明記のこと。
9. 締切  毎年2月末日。
※依頼原稿については、この限りでない。


2006年11月28日
 全国アメリカ演劇研究者会議お知らせ

*2006年の第23回大会は、「エドワード・オールビー」をテーマに6月24日(土)25日(日)、グリーンヒルホテル神戸で開催されました。
 初日は、黒田絵美子氏(中央大学)の司会のもと、2人の方の研究発表がありました。依田里花氏(駒沢大学・非常勤)「The Death of Bessie Smith 再考 ― 人間社会の光と影」、次いで藤田淳志氏(愛知学院大学)「“Notes Toward a Definition of Tragedy” ― The Goatが提示する現代の悲劇」がご発表になり、活発な質疑応答が展開されました。
 2日目のシンポジウムでは、「世紀転換期のEdward Albee  ― Three Tall WomenThe Goat, or Who is Sylvia? を中心に」をテーマに、古木圭子氏(京都学園大学)、黒川 欣映氏(本会議運営委員長)、山本秀行氏(神戸大学)、原恵理子氏(東京家政大学)がパネリストとして参加、貴志雅之(大阪外国語大学)が司会を務めました。昨年の大会からシンポジウムの時間を大幅に延長し、今年も午前の部(9:00〜12:00)と午後の部(1:00〜 2:00)という2部構成でシンポが行われました。午前の部では、各パネリストの発表に次いで、フロアから活発な質問が提示され、後半では、質疑に対するパネリストの応答、パネリストとフロアとの双方向の議論と、パネリスト相互の間でも白熱した議論が展開されました。全体として、Three Tall WomenThe Goat, or Who is Sylvia? を中心に、20世紀と21世紀という2つの世紀を横断するAlbeeの演劇とそこに表象される「アメリカ」の姿をめぐり、多様な読みの可能性と問題点が相互に論じられ、Albee研究の新たな出発点を模索する上で意義深いシンポになりました。
 総会では、2005年度の会計報告・承認に次いで、現在の会員数と会費納入状況および、ホームページ・アクセス数(4291件)を含む本会議の社会的認知度の報告。研究書・研究論文、学会発表・司会など会員の顕著な業績を紹介・報告が行われ、本会議のさらなる充実・発展を図る活動方針が検討され、今後の会議運営に新たな展望が開かれました。

*来年度2007年度第24回大会は、「テレンス・マクナリー」(Terrence McNally)をテーマに、6月30日(土)・7月1日(日)名古屋で開催する予定です。
 例年通り、研究発表者、シンポジウム・パネリストを募集しております。事務局では、研究者会議のいっそうの活性化と発展を目指し、より多くの会員のみなさまに研究成果をご発表頂きたく考えております。ご希望の方は、貴志雅之(mkishigood@jeans.ocn.ne.jp)または若山浩(CZK13164@nifty.ne.jp)までご連絡下さいますようお願いします。応募締切は2007年1月20日(土)とさせて頂きます。

*日本アメリカ文学会の「登録団体」申請が、本年10月13日の日本アメリカ文学会代議員会で承認され、全国アメリカ演劇研究者会議が正式に日本アメリカ文学会「登録団体」となりました。これを契機に、本会議のジャンル横断的な共同研究を含め、さらなる研究活動の活性化・発信の機会が増え、会員のみなさまのいっそうのご研究成果発表を期待しております。

*機関誌『アメリカ演劇』の発行と原稿募集
 ここに『アメリカ演劇』18号(マリア・アイリーン・フォルネス特集)をお届けします。昨年同様、本部構成を掲載し、大会報告欄に研究発表・シンポジウムのレジュメを掲載、執筆者紹介欄を設け、演劇研究者会議メンバーの研究成果を広報し、いっそう研究(者)情報発信型の雑誌内容にしております。ただ、残念なことに、本年度の第23回大会報告のシンポジウムの箇所に関して、パネリストの方々の発表タイトルとご氏名は記載されていたのですが、発表概要が脱落しているという不備がございました。編集委員会から心よりお詫び申し上げます。第23回大会報告につきましては、来年度の『アメリカ演劇』19号(エドワード・オールビー特集II)で完全な形で改めて掲載させて頂きます。ご海容賜れば幸いです。
 事務局・編集委員は、『アメリカ演劇』をジャッジ(審査)のある学術誌として、ますます高い評価を受ける機関誌にする努力を続け、みなさまの研究活動のいっそうの発展に貢献できればと考えております。そのためにも、ふるってご投稿して下さいますようお願い申し上げます。(投稿論文の体裁・書き方[特にかっこ内引証と引用文献一覧]については、投稿規定、あるいは『アメリカ演劇』18号(マリア・アイリーン・フォルネス特集)収録論文の体裁等を参考ください。)
 現在、『アメリカ演劇』19号(エドワード・オールビー特集II)の原稿を募集しております。大会での発表者、シンポジウム・パネリストの投稿はもちろんのこと、それ以外のみなさまの原稿も是非お寄せください。また、特集以外の内容の原稿につきましても、アメリカ演劇に関連するものであれば掲載可能です。上記特集号の原稿締切は、2007年2月28日(水)です。(ただし、論文審査、編集作業の都合上、少しでも早い時期に投稿頂けると嬉しく思います。)

宛先:全国アメリカ演劇研究者会議事務局
〒562-8558 大阪府箕面市粟生間谷東8−1−1
大阪外国語大学外国語学部地域文化学科アメリカ講座 貴志研究室内

*2006年度1月以降に入会された新入会員の方々のご紹介:
佐 藤 求 太 金星堂
森   晴 菜 大阪外国語大学(院)
(文責:貴志 雅之)

『アメリカ演劇』投稿規定
1. 投稿論文は3部送付のこと。
2. 内容  特集作家に関する未発表の研究論文(和文)。ただし、特集作家以外のアメリカ演劇に関する未発表の論文、エッセイ、記事も可。
3. 枚数  原則としてA4判400字詰縦書き原稿用紙に50枚以内(後注、文献一覧を含む)。
 ワープロ・パソコン使用の場合は、A4判用紙に縦書きで30字×30行とし、20,000字以内を目安とする。
4. 体裁  注は後注とし、本文の終わりにまとめ、引用文献一覧を付す。引用文は原文ではなく、和訳 を記載する。外国の書名・作品名は和文で表記し、初出の箇所で和文の後に括弧をして原名を書く。その他書式の細部については、『MLA新英語論文の手引第5版』(北星堂)に従う。
5. 原稿の採否および掲載の時期は編集委員が決定する。
6. 採用論文の執筆者は原則として『アメリカ演劇』の当該特集号を20部買い上げる。
7. 校正は原則として2回とする。
8. 宛先  全国アメリカ演劇研究者会議事務局(〒562-8558 大阪府箕面市粟生間谷東8−1−1大阪外国語大学 外国語学部地域文化学科アメリカ講座貴志研究室内)。封筒に「『アメリカ演劇』原稿」と明記のこと。
9. 締切  毎年2月末日。
※依頼原稿については、この限りでない。

全国アメリカ演劇研究者会議事務局nihon_america_engeki@yahoo.co.jp
〒562-8558 大阪府箕面市粟生間谷東8−1−1
大阪外国語大学外国語学部地域文化学科アメリカ講座 貴志研究室内
Tel & Fax:072-730-5408

2005年12月30日
 全国アメリカ演劇研究者会議お知らせ

*2005年の第22回大会は、「マリア・アイリーン・フォルネス」をテーマに6月25日(土)26日(日)、エスカル横浜で開催されました。
 初日は有泉学宙氏(静岡県立大学)の司会のもと、3人の方の研究発表がありました。石田愛氏(大阪外大・院)「ジェンダーが生まれる場所―Fefu and Her Friendsの『女』たち」、清水純子氏(法政大学<非常勤>)「Mud とThe Conduct of Lifeにみるジェンダー、階級、権力」、谷佐保子氏(早稲田大学<非常勤>)「Abingdon Square―姦通の顛末」が発表。各発表のあと、興味深い質疑応答が展開されました。
 2日目のシンポジウムでは、「Gender/Sexuality and Theatricality」をテーマに、岡本太助氏(大阪外大・院)、戸谷陽子氏(お茶の水女子大学)がパネリストとして、また黒田絵美子(中央大学)が司会およびパネリストとして参加。各パネリストに対してフロアーから活発な質問が提示されました。午後は、質疑に対するパネリストの応答、そこから発展してさらなるディスカッションが繰り広げられました。当初、貴志雅之氏(大阪外大)もパネリストとして参加予定でしたが、大会前日にご家族にご不幸があり、急遽欠席となりました。会の実務的な運営を一手に引き受けておられた上、強力な論客として定評のある貴志氏の不在は、大変残念でした。また、今大会において初めて2日目午後をディスカッションにあてたため、貴志氏の不在と重なって、当初は午後の時間をうめるだけの有意義な討論が展開できるか一抹の不安がありました。幸い、午前中にフロアーから質問のみを提示していただき、昼食の時間をはさんでパネリストが個々の見解を述べる段取りが功を奏したようで、質疑応答の内容がより明確にフロアーに浸透し、その後のディスカッションにスムーズにつながって、結果としては時間いっぱいに議論が飛び交うという、望ましい状況が生まれました。
 大会の開催地によっては、遠方から参加される方は、午後のセッションがあまり長引くとお帰りの都合上、不便が生じるので、その点の配慮が必要ですが、午後3時ごろ切り上げることを目安にして今年のようにディスカッションのみの時間を設定することは、有意義なのではないかと思われます。この点について、みなさまのご意見、ご提案を賜れれば幸いです。
 総会においては、研究者会議の円滑な運営と会議のさらなる充実・発展を図るため下記のような新本部構成が、大会準備委員と事務局から提案され、参加会員によって承認されました。

運営委員長 黒川 欣映
大会運営委員 貴志 雅之(大阪外国語大学)
  長田 光展(中央大学)
  若山  浩(愛知学院大学)
事務局幹事 (大阪) 貴志 雅之
  (大阪) 古木 圭子(京都学園大学)
  (東京) 竹島 達也(都留文科大学)
  (東京) 黒田 絵美子(中央大学)
編集委員長 若山  浩
編集委員 貴志 雅之
  長田 光展
  黒川 欣映
  有泉 学宙 (静岡県立大学)
  黒田 絵美子
監事 長田 光展
  若山  浩

 最後に、本年度大会の会議・懇親会の会場の手配に尽力頂いた竹島達也氏、お身内のご病気、ご逝去という大変な状況の中で大会開催のための細々した準備をしてくださった貴志氏、受付・集金などの実務を担当してくださった大阪外大の院生のみなさまに対し、心より御礼を申し上げます。
(報告:黒田絵美子)


*来年2006年度第23回大会は、「エドワード・オールビー」(Edward Albee)をテーマに、6月24日(土)・25日(日)京都または神戸で開催の予定です。例年通り、研究発表者、シンポジウム・パネリストを募集しております。事務局では、研究者会議のいっそうの活性化と発展を目指し、より多くの会員のみなさまに研究成果をご発表頂きたく考えております。ご希望の方は、貴志雅之(E-mail: mkishigood@jeans.ocn.ne.jp)または若山浩(E-mail: CZK13164@nifty.ne.jp)までご連絡下さいますようお願いします。応募締切は2006年1月20日(金)とさせて頂きます。
 
*機関誌『アメリカ演劇』の発行と原稿募集 
 『アメリカ演劇』17号(アーサー・ミラー特集II)を12月30日付けで発行しました。
上記の黒田絵美子氏の報告にもありましたように、新たになりました本部構成を大会報告欄(研究発表・シンポのレジュメ)とともに掲載、執筆者紹介欄を設け、演劇研究者会議メンバーの研究成果を広報し、いっそう研究(者)情報発信型の雑誌内容にしております。 
事務局・編集委員は、『アメリカ演劇』をジャッジ(審査)のある学術誌として、ますます高い評価を受ける機関誌にする努力を続け、みなさまの研究活動のいっそうの発展に貢献できればと考えております。そのためにも、ふるってご投稿して下さいますようお願い申し上げます。(投稿論文の体裁・書き方[特にかっこ内引証と引用文献一覧]については、投稿規定、あるいは『アメリカ演劇』17号(アーサー・ミラー特集II)収録論文の体裁等を参考ください。)
 現在、23号「マリア・アイリーン・フォルネス特集」(仮称)の原稿を募集しております。大会での発表者、シンポジウム・パネリストの投稿はもちろんのこと、それ以外のみなさまの原稿も歓迎します。また、特集以外の内容の原稿につきましても、アメリカ演劇に関連するものであれば掲載可能です。上記特集号の原稿締切は、2006年2月28日(火)です。(ただし、論文審査、編集作業の都合上、少しでも早い時期に投稿頂けると嬉しく思います。)なお、投稿規定の「8.宛先」にも明記しましたように、宛先は今回より全国アメリカ演劇研究者会議事務局(〒562-8558 大阪府箕面市粟生間谷8−1−1 大阪外国語大学外国語学部地域文化学科アメリカ講座 貴志研究室内)に変更になっております。ご注意ください。
また、2005年第22回大会総会の承認を得て、全国アメリカ演劇研究者会議の本部構成が新たになりましたが(「団体紹介」をご覧ください)、それに伴い次号より『アメリカ演劇』編集責任者は貴志雅之から若山浩氏になります。よろしくお願い申し上げます。

*2005年度1月以降に入会された新入会員の方々のご紹介:
穴 田 理 枝 大阪外国語大学(院)
磯   愛 未 お茶の水女子大学(院)
佐 藤 里 野 お茶の水女子大学(院)
戸 谷 陽 子 お茶の水女子大学
松 田 智穂子 一橋大学(院)
村 上 裕 美 関西外国語大学短期大学部
森 田 睦 明 大阪外国語大学(院)
森 本 道 孝 大阪大学(院)
吉 田 真理子 津田塾大学
(文責:貴志 雅之)

『アメリカ演劇』投稿規定
1. 投稿論文は3部送付のこと。
2. 内容  特集作家に関する未発表の研究論文(和文)。ただし、特集作家以外のアメリカ演劇に関する未発表の論文、エッセイ、記事も可。
3. 枚数  原則としてA4判400字詰縦書き原稿用紙に50枚以内(後注、文献一覧を含む)。
 ワープロ・パソコン使用の場合は、A4判用紙に縦書きで30字×30行とし、20,000字以内を目安とする。
4. 体裁  注は後注とし、本文の終わりにまとめ、引用文献一覧を付す。引用文は原文ではなく、和訳を記載する。外国の書名・作品名は和文で表記し、初出の箇所で和文の後に括弧をして原名を書く。その他書式の細部については、『MLA英語論文の手引第5版』(北星堂)に従う。
5. 原稿の採否および掲載の時期は編集委員が決定する。
6. 採用論文の執筆者は原則として『アメリカ演劇』の当該特集号を20部買い上げる。
7. 校正は原則として2回とする。
8. 宛先  全国アメリカ演劇研究者会議事務局(〒562-8558 大阪府箕面市粟生間谷東8−1−1大阪外国語大学 外国語学部地域文化学科アメリカ講座貴志研究室内)。封筒に「『アメリカ演劇』原稿」と明記のこと。
9. 締切  毎年2月末日。
※依頼原稿については、この限りでない。

全国アメリカ演劇研究者会議事務局nihon_america_engeki@yahoo.co.jp
〒562-8558 大阪府箕面市粟生間谷東8−1−1
大阪外国語大学外国語学部地域文化学科アメリカ講座 貴志研究室内
Tel& Fax:072-730-5408

2005年2月15日
 年会費変更のお知らせ

昨年(2004年)6月26日(土)・27日(日)の第21回大会の総会におきまして、アメリカ演劇研究者会議運営上、年会費一部値上げの必要性について事務局から提案があり、審議の上、承認されました。その決定に基づき、2005年度より、年会費は以下の通りになりました。よろしくお願い申し上げます。

一般会員:6000円
学生会員:4000円(据え置き)

2004年11月28日
 全国アメリカ演劇研究者会議お知らせ

*今年2004年の第21回大会は、「アーサー・ミラー」をテーマに6月26日(土)・27日(日)、サンハイツホテル名古屋で開催されました。
初日は4人の方の研究発表がありました。前半では、原恵理子氏(東京家政大学)の司会で、岡本淳子氏(大阪外大・院)「Broken Glassにおける排除の構造――自己と他者の鏡像関係」、松本美千代氏(和光大学)「成功神話の犠牲者たち――受容と寛容」が発表。
引き続き後半、小玉容子氏(島根県立島根女子短期大学)の司会で、本多勇氏「Arthur Miller――絶対的関係に佇む劇作家」、Jon Brokering氏(法政大学)「The Crucible as "Melo-tragedy"」が発表。
2日目のシンポジウムでは、「80年代以降のアーサー・ミラー」をテーマに、及川正博氏(立命館大学)の司会で、黒川欣映氏、竹島達也氏(都留文科大学)、有泉学宙氏(静岡県立大学)、そして司会を兼ねた及川氏がパネリストとして参加。両日とも、発表、シンポを行った研究者に加え、多数の院生、学部生を交えた活発かつ刺激的議論の場となりました。
昨年の反省点であったシンポジウムでの質疑応答セッションの時間も、今年はかなり長めにとり、改善されたと思います。ただ、1年に1回のシンポですし、さらに徹底した討論をするには、2日目の午前をシンポジウムのパネリスト発表、午後を質疑応答セッションと総会にする案を検討中です。発表者とフロア双方向の参加者全員による活発な議論が十分になされる時間的ゆとりを取り、同時にシンポの方法についても改善するよう心がけてまいります。みなさまのいっそうのご理解とご協力を賜れば幸いです。

*来年2005年度第22回大会は、「マリア・アイリーン・フォルネス」(Maria Irene Fornes)をテーマに、6月25日(土)・26日(日)横浜または東京で開催の予定です。例年通り、研究発表者、シンポジウム・パネリストを募集しております。事務局では、研究者会議のいっそうの活性化と発展を目指し、より多くの会員のみなさまに研究成果をご発表頂きたく考えております。ご希望の方は、貴志雅之(E-Mail: mkishigood@jeans.ocn.ne.jp)または若山浩(E-Mail. CZK13164@nifty.ne.jp)までご連絡下さいますようお願いします。応募締切は2005年1月8日(土)とさせて頂きます。

機関誌『アメリカ演劇』の発行と原稿募集 
 『アメリカ演劇』16号(トニー・クシュナー特集)を10月25日付けで発行いたしました。大会報告欄に研究発表・シンポのレジュメを掲載、執筆者紹介欄を設け、いっそう研究(者)情報発信型の雑誌内容にしております。
事務局・編集委員は、『アメリカ演劇』をジャッジ(審査)のある高水準の学術誌として刊行する努力を続け、アメリカ演劇研究のさらなる発展と活性化に貢献することを目指しております。そのためにも、ふるってご投稿して下さいますようお願い申し上げます。(投稿論文の体裁・書き方[特にかっこ内引証と引用文献一覧]については、投稿規定、あるいは『アメリカ演劇』16号(トニー・クシュナー特集)収録論文の体裁等を参考ください。)
 現在、「アーサー・ミラー特集」(仮称)の原稿を募集しております。大会での発表者、シンポジウム・パネリストの投稿はもちろんのこと、それ以外のみなさまの原稿も歓迎します。また、特集以外の内容の原稿につきましても、アメリカ演劇に関連するものであれば審査対象になります。上記特集号の原稿締切は、2005年2月28日(月)です。(ただし、論文審査、編集作業の都合上、少しでも早い時期に投稿頂けると嬉しく思います。)宛先は貴志雅之。(〒669-2231 兵庫県篠山市住吉台65−7 E-Mail: mkishigood@jeans.ocn.ne.jp)。封筒に「『アメリカ演劇』原稿」と明記ください。

*2004年度大会以後に以下の方々が新入会員として入会されました。よろしくお願い申し上げます。
井上 紗央里 (法政大学・院) 
黄  迪     (法政大学・院)
萩  三恵  
山本 秀行  (神戸大学)
(文責:貴志 雅之)
『アメリカ演劇』投稿規定
1. 投稿論文は3部送付のこと。
2. 内容  特集作家に関する未発表の研究論文(和文)。ただし、特集作家以外のアメリカ演劇に関する未発表の論文、エッセイ、記事も可。
3. 枚数  原則としてA4判400字詰縦書き原稿用紙に50枚以内(後注、文献一覧を含む)。
 ワープロ・パソコン使用の場合は、A4判用紙に縦書きで30字×30行とし、20,000字以内を目安とする。
4. 体裁  注は後注とし、本文の終わりにまとめ、引用文献一覧を付す。引用文は原文ではなく、和訳を記載する。外国の書名・作品名は和文で表記し、初出の箇所で和文の後に括弧をして原名を書く。その他書式の細部については、『MLA英語論文の手引第5版』(北星堂)に従う。
5. 原稿の採否および掲載の時期は編集委員が決定する。
6. 採用論文の執筆者は原則として『アメリカ演劇』の当該特集号を20部買い上げる。
7. 校正は原則として2回とする。
8. 宛先  貴志 雅之(〒669-2231 兵庫県篠山市住吉台65−7)。封筒に「『アメリカ演劇』原稿」と明記のこと。
9. 締切  毎年2月末日。
※依頼原稿については、この限りでない。


全国アメリカ演劇研究者会議事務局nihon_america_engeki@yahoo.co.jp
〒562-8558 大阪府箕面市粟生間谷東8−1−1
大阪外国語大学外国語学部地域文化学科アメリカ講座 貴志研究室内
Tel& Fax:072-730-5408

2004年4月22日
 事務局移転のお知らせ

 2004年4月1日より全国アメリカ演劇研究者会議事務局が大阪外国語大学に移りました。
[新事務局]
〒562-8558 大阪府箕面市粟生間谷東8−1−1
大阪外国語大学 外国語学部地域文化学科アメリカ講座 貴志研究室内
Tel& Fax:072-730-5408
E-Mail:nihon_america_engeki@yahoo.co.jp

2004年4月22日
 2004年度第21回大会のご案内

時:2004年6月26日(土)・27日(日)
会場:サンハイツホテル名古屋
住所:〒460-0003 名古屋市中区錦1-4-11
TEL:052-201-6011 FAX:052-231-7670
交通:地下鉄桜通線「丸ノ内」駅6番出口から徒歩1分。
   地下鉄東山線「伏見」駅10番出口から徒歩3分。
   タクシーで「名古屋」駅から約5分

アーサー・ミラー 研究
第1日 6月26日(土)受付 12:30〜13:30
研究発表 13:00〜17:00
司会 東京家政大学  原 恵理子
1.Broken Glassにおける排除の構造 ― 自己と他者の鏡像関係
大阪外国語大学(院) 岡本 淳子

Arthur Millerは1994年の作品Broken Glassの舞台を1938年に設定している。ナチスによるユダヤ人の迫害が大きなテーマとなっている本作品のなかで、医師のHymanは「ナチスは長くは続かない。すぐに終わるだろう」と繰り返す。しかしながら、50年を優に越す1994年において、いまだMillerはナチスとユダヤ人との問題にこだわっており、彼の中ではこの問題は終息していない。確かに、1938年以降、ユダヤ人狩りは、赤狩り、ホモ狩りとターゲットの変化のみを伴って存続していると言える。
本発表では、Broken Glassのテキスト内の「誰もが皆迫害されているのであり、迫害する者など存在しない」という言葉をもとに、ナチスによるユダヤ人迫害の深層心理を解明し、「自己の悪を投影する他者」の排除という赤狩り、ホモフォビア、人種差別にも共通する構造を考察する。その場合、題名が暗示し、作品中でも言及される「鏡」について考えることは分析の主眼点となるであろう。
2.成功神話の犠牲者たち――受容と寛容
和光大学  松本 美千代

1990年代の『ラスト・ヤンキー』『モーガン山を下る』『壊れたガラス』の三作品を検討する。これらの作品ではミラーは経済的成功を追い求めるあまり精神的なるものの価値を忘れた現代人を描いている。『モーガン山を下る』は経済的成功を果たした男が妻と愛人に経済的安定を与えることによって二つの家庭を持つ権利を主張する話であり、『ラスト・ヤンキー』は経済的成功を夢見る妻が夫の競争社会からの絶縁振りに精神を患う話であり、『壊れたガラス』はやはり経済的に成功した夫が妻の精神的生活に無関心であったことによって結婚生活が崩壊するという物語である。社会的と個人との関わりにおける悲劇を描いてきたミラーであるが、90年代の作品では登場人物が経済活動によって麻痺した道徳観を見つめなおし、それを修正しながら生きていくという希望を含んだ結末を取ることが特徴である。そのなかでミラーは文化的神話や秩序、教えや伝統にとらわれない生き方を示し、また精神的な価値をないがしろにした自己中心的な個人主義と無関心さを非難しているように見える。発表ではこれらの点を踏まえつつミラーの90年代作品におけるメッセージを考えてみたい。
司会 島根県立島根女子短期大学  小玉 容子
3. Arthur Miller ─ 絶対的関係に佇む劇作家 ─
本多 勇

「二つの物体が同一空間を占めることができないと同様に、全ての組織は排除と禁止の理念に基づく」( The Crucible )。このことをMillerは、自らの人生で露骨に体験する。
彼の二度の離婚は、二つの物体(人間)の同一不可能な絶対的関係を露呈する。
McCarthyismは、他人が信じる事実に雷同するところの政治という幻想の力と自己との軋轢という絶対的関係をMillerに体験させる。After the Fall はこれらの体験をMillerがラジカルに描いた作品である。この後の作品はAfter the Fallの延長線上にあるものの、ラジカルであった表現は薄められてしまう。彼の体験自体つまり意識存在であるところの人間自体への問いには進んではいない。1994年のBroken Glassに「あらゆる人間は迫害されている」という台詞が表出する。人間自体への問いがないところでは、この台詞も虚しく響く。記録作家Millerの限界がここにある。このことはまた現在の文学表現の限界ではなかろうか。
4.The Crucible as "Melo-tragedy"
法政大学  Jon Brokering

This paper looks at Arthur Miller's The Crucible (1953) in terms of how its dramatic form serves as a vehicle for the underlying moral themes of the play. An analysis of the text reveals that the play displays aspects of both tragedy and melodrama in a dynamic fashion that leaves leeway for various interpretations along a tragedy-melodrama continuum. Moreover, given Miller's aim of condemning the specific threat to human freedom posed by McCarthyism, as well as the play's more universal theme of the dangers that lie in "the handing over of conscience to another, be it woman, the state, or a terror,"* the unique combination of tragedy and melodrama served his purposes most effectively. Although melodrama had long since fallen out of favor in mainstream American theatre, the success with which Miller employed melodramatic devices in The Crucible demonstrated that it can still be a worthy and viable theatrical form.

*Miller, Arthur. The Theatre Essays of Arthur Miller. Robert A. Martin, ed. London: Methuen, 1994. (p. 162)

夕食・懇談会 18:00〜

第2日 6月27日(日)
シンポジウム 9:00〜12:25   
「80年代以降のアーサー・ミラー」
司会・パネリスト 立命館大学 及川 正博
パネリスト   黒川 欣映
  都留文科大学 竹島 達也
  静岡県立大学 有泉 学宙
80年代以降のミラーの作品数は、12本に上る。これらを4人のパネリストが、年代別、テーマ別、あるいは技法別に論ずる方法が考えられるが、今回はまず、テーマの関連性を勘案して次の4グループに分け、◎の付いた主要作品を中心に*を付した他の作品と関連させ、80年代以降のミラー劇の特色を浮き彫りにする。その上で、それぞれを80年代以前の作品と関連させ、ミラー劇の主題と演劇技法の全体的な特色を論じてみたい。
(1)◎The American Clock、*Playing For Time(共通テーマ ―― 極限状況、サバイバルなど)。まずClock に見られる技法すなわち壁画を思わせるコラージュ的手法、二人の語り手の使用、ボーム家の場面と社会的ドキュメンタリーとの交互の平行展開などを考察し、次にテーマとして30年代初期の大恐慌時の極限状況に見られる人間のサバイバルの問題をTimeで描かれた、同じくナチのユダヤ人収容所での極限状況下で生き延びた主人公のサバイバルと比較した後、大恐慌を直接・間接に描く他の作品との関連性も考察の対象とする。(担当者:及川正博)   
(2)◎The Ride Down Mt. Morgan, *Two-Way Mirror, *Danger: Memory, *Mr. Peter's Connection (共通テーマ ―― 幻想と現実、娘の役割、死など)。上記の作品との関連性に触れた後、主としてこの作品のモラル劇の側面とその語りの手法を、これまでのミラー作品との関連で言及する。Death of a Salesman, The Crucible, A View from the Bridge、After the Fallには、男女関係、夫婦問題などを通して主人公の女性問題についての苦悩が描かれているが、Mt. Morganでは、大胆にも重婚が取り上げられる。また、ここにはSalesmanやFallに見られる主人公の意識を軸とする語りの手法が使用され、プロットの展開を助ける。その方法の分析も試みる。(担当者:黒川欣映)
(3)◎The Last Yankee, *The Ride Down Mt. Morgan (共通テーマ ―― 夫婦関係など)。まず、テーマの観点からYankeeとMt. Morganとの比較を試みる。次に、ごく平凡なリアリズム劇と評価されがちなYankeeの技法の特色、特に科白の特徴に焦点を当てて分析を試みる。さらに、アメリカン・ドリームや勤労倫理といったSalesman やAmerican Clockなどに見られるテーマとの関連でYankeeを論じ、この作品がミラー劇の系譜の中で置かれている位置やその意義などについて考察する。(担当者:竹島達也)
(4)◎Broken Glass、*Playing For Time (共通テーマ ―― ホロコースト、ユダヤ人問題など)。ミラー劇ではAfter the FallやIncident at Vichyに見られるように、反ユダヤ主義・ホロコーストは人間の原罪の象徴となり、人間性の試練として描かれる。それはまた、現代人の倫理観=社会的責任性を試す踏み絵的な機能も果たしている。このような特徴が、Playing For Time やBroken Glassでもどのように引き継がれているのか、を考察する。また、これら2作品に見られる主題は、All My Sons以来のほとんどのミラー劇にも通底するもので、この点に関して私見を述べる。(担当者:有泉学宙)

総会 12:25〜13:00

参加申込方法:
会員のみなさんには、5月初旬に事務局より大会案内とともに参加申込の振込用紙をお送りします。
会員でない方は、下記の要領でお申し込みください。
<参加費用> 14,000円(年会費4,000円は含まず)
郵便振替口座 00990-8-269899
加入者名 全国アメリカ演劇研究者会議
送金締切  6月11日(金)
年会費は当日会場でお支払いお願いします。
※参加費用には、宿泊費、会議室等の施設利用料、懇親会費用を含んでおります。
※宿泊はすべてシングルで、原則として禁煙室が用意されます。喫煙室を希望される方は、申し込みの時にその旨お書き添えください。

2004年2月6日
 訃 報

 早稲田大学名誉教授、鈴木周二先生が、2月2日、急逝されました。享年71歳。鈴木先生は全国アメリカ演劇研究者会議設立者のお一人で、設立から十数年にわたり会議運営にご尽力され、またご著者『現代アメリカ演劇』を初め、アメリカ演劇研究の発展と後進の育成に大きな貢献をされてこられました。
 鈴木先生のご逝去を悼み、全国アメリカ演劇研究者会議会員一同、衷心よりお悔やみ申し上げます。

2003年9月13日
 訂正とお詫び

 『アメリカ演劇』15号(オーガスト・ウィルソン特集)本体の目次に誤りがありましたので、以下の通り訂正させて頂きます。

 誤  マーガレット・エドソンの「ウィット」について   原 恵理子

 正  『ウィット』にみるジェンダー ― 愛と知の演劇 ― 原 恵理子

 なお、104ページ記載の原恵理子氏の論文タイトルは、正しく、「『ウィット』にみるジェンダー ― 愛と知の演劇 ―」と印刷されております。
 原恵理子氏と読者のみなさんに心よりお詫び申し上げます。(編集委員長 貴志雅之)

2003年9月8日
 大会案内

 来年2004年度第21回大会は、「アーサー・ミラー」をテーマに、6月26日(土)・27日(日)京都で開催の予定です。例年通り、研究発表者、シンポジウム・パネリストを募集しております。事務局では、研究者会議のいっそうの活性化と発展を目指し、より多くの会員のみなさまに研究成果をご発表頂きたく考えております。ご希望の方は、貴志雅之(自宅Tel: 079-594-1973, E-Mail: mkishigood@jeans.ocn.ne.jp)または若山浩(自宅TEL: 0584-75-0847, E-Mail: CZK13164@nifty.ne.jp)までご連絡下さいますようお願いします。応募締切は2003年12月31日(水)とさせて頂きます。

 機関誌『アメリカ演劇』の発行

 2003年9月、『アメリカ演劇』15号(オーガスト・ウィルソン特集)を発行しました。本号からは、大会報告欄に研究発表・シンポのレジュメを掲載、執筆者紹介欄を設け、いっそう研究(者)情報発信型の雑誌内容にしています。また、発表レジュメ等の掲載に対応して、巻末から始まる横書きのセクション導入にも踏み切りました。
事務局・編集委員は、『アメリカ演劇』をジャッジ(審査)のある学術誌として、ますます高い評価を受ける機関誌にする努力を続け、みなさまの研究活動のいっそうの発展に貢献できればと考えております。そのためにも、ふるってご投稿して下さいますようお願い申し上げます。

 原稿募集

 現在、次号の『アメリカ演劇』16号「トニー・クシュナーとクイア演劇特集」(仮称)の原稿を募集しております。大会での発表者、シンポジウム・パネリストの投稿はもちろんのこと、それ以外のみなさまの原稿も歓迎します。また、特集以外の内容の原稿につきましても、アメリカ演劇に関連するものであれば掲載可能です。上記特集号の原稿締切は、2004年2月29日(日)です。(ただし、論文審査、編集作業の都合上、少しでも早い時期に投稿頂けると嬉しく思います。)
 宛先は貴志雅之。
 〒669-2231 兵庫県篠山市住吉台65−7
 TEL:: 079-594-1973
 E-Mail: mkishigood@jeans.ocn.ne.jp
 封筒に「『アメリカ演劇』原稿」と明記ください。
(文責:貴志 雅之)

『アメリカ演劇』投稿規定
1. 投稿論文は3部送付のこと。
2. 内容  特集作家に関する未発表の研究論文(和文)。ただし、特集作家以外のアメリカ演劇に関する未発表の論文、エッセイ、記事も可。
3. 枚数  原則としてA4判400字詰縦書き原稿用紙に50枚以内(後注、文献一覧を含む)。
 ワープロ・パソコン使用の場合は、A4判用紙に縦書きで30字×30行とし、20,000字以内を目安とする。
4. 体裁  注は後注とし、本文の終わりにまとめ、引用文献一覧を付す。引用文は原文ではなく、和訳を記載する。外国の書名・作品名は和文で表記し、初出の箇所で和文の後に括弧をして原名を書く。その他書式の細部については、『MLA英語論文の手引第5版』(北星堂)に従う。
5. 原稿の採否および掲載の時期は編集委員が決定する。
6. 採用論文の執筆者は原則として『アメリカ演劇』の当該特集号を20部買い上げる。
7. 校正は原則として2回とする。
8. 宛先  貴志 雅之(〒669-2231 兵庫県篠山市住吉台65−7)。封筒に「『アメリカ演劇』原稿」と明記のこと。
9. 締切  毎年2月末日。
※依頼原稿については、この限りでない。



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