大会報告 The American Drama Society of Japan
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第17回大会

と  き 2000年6月24日(土)・25日(日)
と こ ろ サンハイツホテル名古屋(〒460-0003 名古屋市中区錦1−4−11)
テーマ 「ユージーン・オニール研究」

第1日 6月24日(土)

研究発表 司会  若山  浩(愛知学院大学)

1.初期のオニール劇(1913―20) 三宅 茜巳(岐阜女子大学)

 オニール劇の主題と表現方法、過酷な運命のまっただ中にあって身動きのとれない主人公達。
 この発表で主に取り扱うのはユージーン・オニールの初期の作品である。これら初期の劇の中に、オニールをして偉大な劇作家たらしめているものが凝縮した形ですでに存在していると私は思う。
私が考える「オニールをして偉大な劇作家たらしめているもの」とは、劇の主題のことでもあり、その主題を表現する方法のことでもある。オニール劇はどれも、過酷な運命に翻弄される人間の姿、あるいはその人生そのものを描くことを主題としており、その主題を劇という形式で表現するために様々な工夫・実験をオニールは作品の中で重ねている。
 これをオニールの言葉を使って言い換えるならば、オニールが描きたかったものは、運命とか神とかいった神秘的な、人間を超えた力と、人間がその力に自らを委ねようとして輝かしい自己破壊的苦悩を演ずるという一つの永遠の悲劇であり、オニールにとってはそれこそ書く価値のある唯一の素材であって、観客に舞台上の悲劇的人物との崇高な一致感を身に沁みて感じさせうる演劇的な表現を展開させることがオニール意図であった。

2.Lazarus Laughed――あるいは死者の声 本多  勇(法政大学 院生)

 "Without immortality there can be no virtue" (The Brothers Karamazov). "Then the chief priests planned to kill Lazarus as well" (John 12). この劇はここに端をはっするようだ。生き返ったLazarusは群衆に叫ぶ。"Life! Eternity! Stars and dust! God's Eternal Laughter!" 群集が呼応する。"Laugh! Laugh! We are stars! We dust! We are gods! We are laughter!" 皇帝Tiberius、その孫Caligulaは脅える。 "Laugh! Laugh!" 響きわたるこの声は「世界」を空洞化してしまう。 "Why are we born? To what end must we die?" (Tiberius)という、意味を求める問いさえも無化する。意識の有限性を取り払ってしまう。 "Laugh! Laugh! There is only life! There is only laughter! Fear is no more! Death is dead!"
 "tell me why I love to kill?" (Caligula) "Because you fear to die!" (Lazarus) 悪の根はここにある。それが権力者を拘束する。不死を求める彼らは、Lazarusの不死を見ようと彼を火炙りにする。その中でLazarusは笑う。秩序が崩れ始める。ひたすら皇位を狙うCaligulaはTiberiusを絞殺した後、火中でLazarusを刺殺する。皇位を手中にしたとたん死の恐怖が彼を襲う。 "Forgive me. Lazarus! Men forget!" (Caligula) 幕は降りる。
 だが確かに、O'NeillはLazarusの笑いで兢々たる「人間」を一瞬消滅させた。死者が、"virtue" はそこにしかないと言うかのように。

3.The Iceman Cometh――1999年ブロードウェイ公演をめぐって 小池 久恵(いわき明星大学)

 Almeida Theatre製作、Howard Davies演出により1998年ロンドンで上演されたThe Iceman Comethは、オリヴィエ賞最優秀主演男優賞、最優秀演出賞を受賞、翌99年4月からブロードウェイに移り、さらに大きな話題を呼んだ。過去にJason Robards(1956、1985)、Brian Dennehy (1990)らが演じたHickey役はハリウッドスターのKevin Spaceyが熱演している。
 本発表では、The Iceman Comethの上演史に触れながら、今回の講演の特徴を探る。数々の劇評がこの公演に高い評価をあたえているが、The Iceman Comethの上演を成功させるための要因は何であるのか、またそれはO'Neillの他の作品についても言えることなのか。現在ブロードウェイで公演中のA Moon for the Misbegottenなども例に挙げ、あわせて考えてみたい。

4.A Moon for the MisbegottenのJosie Hogan――「理想の女性」を演じる「女優」 古木 圭子(高知女子大学)

 A Moon for the MisbegottenのJosie Hoganは、母、娼婦、処女と、男性にとって好ましい役柄を次々に使い分ける「女優」としての要素を持つ。「母親」としての精神的勇気と男性並みの腕力を持つ一方で、"all woman" であり、はすっぱな女を演じながら、実は汚れなき処女である彼女は、「理想の女性」としてJamieの人生の終幕を飾る。Tyroneとの別れを経験し、処女のまま父親との生活に戻るという結末は、妻となり母となることによって破滅していくLong Day's Journey into NightのMary Tyroneのような女性とは対照的である。Josieは、愛する者のために自己犠牲を厭わない従順な女性であり、彼女の人生はJamieと父親のためにだけ存在しているように思われる。
 彼女の表面的な穏やかさの陰にはしかし、秘められた怒りそしてフラストレーションが感じられる。父Hoganの助けとして、農場で男性並みの仕事をこなさなくてはならない責任と、それでも男性に批判されないよう、女性らしいコケティッシュな魅力を振り撒く演技をしなければならないことを、彼女は常に意識している。Jamieは俳優であるがゆえに、そのようなJosieの「演技」を見抜いている。しかし、その「演技」だけが、Josieの苦境をどうにか支えているものでもある。つまり、様々な役割を演じる情熱だけが、現実のフラストレーションから彼女の目をそらす役割をしている。そのような観点から考えると、この作品は女性をステレオタイプ化しているものというよりは、むしろ社会の片隅に追いやられた女性を擁護する立場のものではないだろうか。またこの作品は、「演技」そのものの在り方を問い掛けたもののようにも思われる。



第2日 6月25日(日)

シンポジウム 「オニールと女性」
司会・パネリスト 貴志 雅之 (大阪外国語大学)
パネリスト 黒川 欣映 (法政大学)
  中村 英一 (金城学院大学)
  長田 光展 (中央大学)


 米国ユージーン・オニール学会がThe Eugene O'Neill Newsletter Vol.6, no.2. (Summer-Fall, 1982) で「オニールの女性」と題する特集企画を組んだのは18年前のことである。その後もThe Eugene O'Neill Newsletter、さらにNewsletterを改めたThe Eugene O'Neill Reviewと、今日に至るまでオニール学会誌には女性やジェンダーを巡るオニール作品論、フェミニズム的作品研究が断続的に登場する。オニール学会誌だけではない。この種の論考は、Richard F. Jr. Moorton編 Eugene O'Neill's Century: Centennial Views on America's Foremost Tragic Dramatist(Greenwood Press, 1991)、John H. Houchin編 The Critical Response to Eugene O'Neill(Greenwood Press, 1993)、 Michael Manheim編 The Cambridge Companion to Eugene O'Neill(Cambridge University Press, 1998)などにも発表され、またTravis Bogard、Virginia Floyd、Judith E. Barlowも含め、数多くのオニール研究者が著書の中で女性論を展開している。
 「女性」に焦点を当てたオニール研究の一つの動向が、フェミニズム理論・批評・研究の活発化と連動しているのは確かである。しかしフェミニスト的射程ならずとも、女性を巡るオニールの伝記的背景や、グリニッチ・ヴィレッジを中心に社会運動を展開した「新女性」とオニールとのつながり及び当時の社会・文化状況を考えれば、オニール作品群を女性を基点とした社会的テクストとして読む可能性、あるいは必然性が当然現れてくる。無論、数多くの作品に刻まれる女性像が、他のさまざまなアプローチを許容することにもなるだろう。
 このシンポジウムでは、「オニールと女性」をテーマに4人の男性パネリストが議論を展開する。黒川氏は「オニールと初期作品における女性たち」というテーマでBefore Breakfast(1916年),The Straw(1921年),Welded(1924年)などの作品に描かれている女性たちが、いずれもオニールの実人生の中で彼が出会った人々と類似している点に着目。オニールが人生の初期にあって、それらの女性たちとの関係をどのように見ているのかを検証する。中村氏はStrange Interlude(1928年)を中心に20年代を論じ、長田氏は、Desire Under the Elms (1924年), The Great God Brown (1926年), Strange Interlude (1928年), Dynamo (1929年)などに通観されるオニールの女性のイメージについて議論する。貴志は、娼婦という女性像を中心に、初期から中期作品を概観しつつ、後期作品における娼婦のイメージの変容を未完のサイクル劇を中心に検証。これにより「アメリカ社会と女性」という視座からオニールの女性観を考察する。
 「女性の視点」でなく、「男性の視点」からなされる「オニール作品を巡る女性論」が、女性研究者あるいはフェミニストからの激しい反論を引き起こすことも予想される。しかし、そんな論争も「オニールと女性」を巡る次の段階の議論へと向かう試金石になればと期待する。
 この企画が、オニール研究の新たな地平を開拓できるのか、それとも「地平のかなた」のように "hopeless hope"で終わってしまうのか。興味深いシンポジウムになればと思う。(貴志 雅之)



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