大会報告 The American Drama Society of Japan
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第25回大会

と  き 2008年6月28日(土)・29日(日)
と こ ろ エスカル横浜(〒231-0023 横浜市中区山下町84番地)
テーマ 「ソーントン・ワイルダー研究」

第1日 6月28日(土)

研究発表 司会: 京都学園大学  古木 圭子

1.繰り返される命と言葉 ―The Long Christmas Dinnerに描かれた生と死 法政大学(院)  井上 紗央里

 Thornton WilderThe Long Christmas Dinner (1931) では、ある家族の90年にわたる日常風景が、クリスマスの夜の夕食という限定された場面の中で、一幕に凝縮され上演される。この芝居では、特定の登場人物にスポットが当てられることはなく、人間の平凡で普遍的な営みだけが描かれている。芝居の中では、クリスマスの食卓に上る七面鳥の話や、教会での説教の感想などが、世代を超えて繰り返し語られ、観客は同じような場面を何度も目にすることになる。また、終幕近く、芝居の舞台となっていた家が、90年の時を経て煤だらけになりすっかり古びてしまう頃、新たな時代を担う若者たちが、新しい家を建てようとしているのだとErmengardeの口から語られる。これまでBayard家の中で営まれてきたのと同様の日々が、これからはその新しい家で繰り返されるということが、この台詞によって示唆されている。本発表では、この芝居における台詞や営みの「繰り返し」という側面に着目して考察を行う。
 Wilderはこの作品の舞台上に、それぞれ「誕生」と「死」を意味する入退場口を設けている。本来人間の人生において最も重大な出来事であるはずの誕生と死は、この芝居の中では、まるで長い時間の中のほんの一瞬の出来事でしかないかのように描かれる。人の生死がこのような描かれ方をされていることで、この作品(もしくはOur Townなどのほかの作品)の中に表れているWilderの人生観が非常に悲劇的であるという指摘をする先行研究もあるが、Wilder自身が語る人生観から鑑みると、人間の生の儚さに対する哀愁は感じられるとしても、悲劇的な要素は、実は作中にはそれほど存在していないように思われる。
人間の生と死、そして人生が、セリフや営みの「繰り返し」によって作中でどのように描かれているのかを本発表で考察していく。

2.The Skin of Our Teethの寸断されるプロットが示すWilderの人生観 大阪大学(院)  森本 道孝

 Antrobus家を中心に展開するThornton WilderのThe Skin of Our Teeth (1942)は、作品内部においてタイトルと同名の劇中劇が演じられる。このプロットは、舞台監督のカットによってではなく、作中人物であるSabinaによって幾度も中断されるため、作品の内部から劇の枠組みが壊され、劇の内部と外部の境界が曖昧になっていると言うことができる。
 また、この作品には、他にも様々な境界を越えようとするWilderの試みが見られる。その境界とは、観客席の使用から見える舞台と観客席の間のものと、メイドのSabinaの中断から伺える登場人物とそれを演じる俳優の間のものである。後者の分析では、Sabinaとともに、台詞がきっかけで自身の過去の体験が蘇り父親の首を絞めてしまうAntrobus夫妻の息子Henryを取り上げる。これに加えて、Henryの過去の話をSabinaが否定するために、観客にとって、劇中の何が真実で何が違うのかが分かりにくいことにも注目する。
 このように、劇中劇が何度も中断されるため、予定されたプロットからの逸脱が頻繁に起こり、劇が筋書き通りには進まないが、これは「人間の有様」をできるだけきちんと書こうとしたWilderの苦心の現われだと言うことができる。さらに、Wilderは作品内部の世界がこの作品のもともとのタイトルが示す「世界の終わり」という状況にあるにもかかわらず、ラストシーンでSabinaに「この劇の最後はまだ書かれていない。夫妻の頭の中には色々な計画がある。」という発言をさせて、今後への言及で劇を終わらせている。
 本発表では、以上の分析を通して、The Skin of Our Teeth の予定通りに進まないプロットが人生そのものを示すと捉える。ここに、人は予定されたプロットのような真っ直ぐな道ではなく、中断や逸脱を余儀なくされるような様々な困難な状況の中を、前に進んでいくしかないというWilderの人生観を読み取りたい。

3.『危機一髪』―「舞台監督」の退場をめぐって 近畿大学  井上 治

 ソーントン・ワイルダーの二つの一幕劇で初めてその姿をみせ、そののち彼の最初の多幕劇『わが町』において舞台の時空間を自由に操ってみせた「舞台監督」が、『わが町』よりもいっそう活躍できるように思える『危機一髪』から姿を消してしまった理由を探ることから、この作品を考察する。
 まず、ワイルダーは、『わが町』の「舞台監督」のようには何ひとつ満足にできない、「舞台監督」のパロディといえる舞台監督ミスター・フィッツパトリックを描くことで、「舞台監督」という手法を用いなくても、作品の主題や作者の思想を具体性を持って観客に伝えることができるということを暗に示そうとしている。
 次に、「舞台監督」が舞台上にいると、観客はどうしても「舞台監督」の視点から劇を見てしまう。そこで、ワイルダーは、彼の考える演劇の舞台の時空間のさらなる完成に近づくために、「舞台監督」を作品から退場させた。そして、『危機一髪』においてワイルダーは、時間に関しては、話の筋と作品全体を「反復」させて劇全体の「儀式」化を起こすことで、舞台上に「時計の時間」を超えた「瞬間の永遠」という時間を生じさせ、空間に関しては、さまざまな二元・二層の空間を重なり合い混ざり合わせ、登場人物に関しては、アントロバス一家の五人を「人間一家」の象徴として描いた。それにより、幾重にも重なり合い混ざり合う登場人物が現れる、幾重にも時間と空間が重なり合い混ざり合う究極の舞台を完成させた。
 しかし、ミスター・フィッツパトリックは「舞台監督」が本来の舞台監督に戻ったことを示す人物だと考えられ、さらに、『わが町』での「舞台監督」のナレーター役・作者の代弁者という役割を受け継ぐ人物が複数登場することを考えると、「舞台監督」は、作者ワイルダーによって退場させられたのではなく、自らの役目を終えて勇退したといえる。




第2日 6月29日(日)

シンポジウム
Our Townを読み解く ― 歴史と普遍、固体と永遠」」


司会兼パネリスト  中央大学(名誉教授)  長田 光展
パネリスト  文化女子大学  久保田 文
   お茶の水女子大学  戸谷 陽子
   大阪大学  貴志 雅之



 ワイルダー劇は、取っ付き易いように見えて、さて論ずる段になると、意外な難物であるというのが私が常々持ち続けてきた印象ですが、その印象は今も変わりありません。どの作品も平明、単純、その舞台装置から受ける印象たるや、学生演劇を連想させるに十分ですが、にもかかわらず、ワイルダー劇は相反する二つの側面、平易にして難解、単純にして複雑な要素を兼ね備えています。
 そもそも、今でこそ新奇な驚きとは無縁となったワイルダー流舞台装置そのものが、それが登場してきた当時においては、革命的な考案であったことを忘れてはならないでしょう。その単純な舞台装置が生み出す効果はワイルダー劇の叙事的演劇手法ともあいまって、それ自体分析に値するテーマたり得ますが、それはブレヒト劇を始めとする世界の叙事的演劇との深い連続性もあって、その関連性は魅力あるテーマのひとつに違いありません。
 ワイルダーは、常々、演劇におけるnarrativeは小説におけるnarrative を遥かに超えるものと考えてきました。演劇とナラティヴとの関係は本来相性の悪いものと考えるのが普通ですが、ワイルダーの主張の根拠は、どうやら演劇が「純粋存在」(pure existing)(舞台という「永遠の現在」が抽出する真実)を提示し得ることと関係があるようです。ワイルダーが多用するステージ・マネジャーとの役割をも含めて、彼の言う演劇のナラティヴとはいったいどういうものを言うのか、それはどのように具体的に現れ、どの程度に成功しているのか、これも興味あるテーマです。
 ワイルダー劇はリアリズム劇をしっかりと踏まえていますが、リアリズム劇ではありません。素朴単純なリアリズム的様相は、同時に、形而上的、普遍的、神話的、宗教的、シンボル的要素を含んでいます。この複合性は、プラトン的概念に近い彼の演劇理論と深く関係しているのかもしれません。プラトンによれば現実とはイデアの影に過ぎず、影の遥か彼方にイデアとしての実態がありますが、ワイルダーの場合にも、同じことが言えそうです。リアリズム的側面はイデアの影であり、その深奥部には永遠の真実が隠されている。これと同じ発想をしたのがサム・シェパードでしたが、両者は共に個人的・個的次元のなかに普遍・神話的側面を透視する共通性があるようです。『タイニー・アリス』のオールビーまでを含めて、彼らはアメリカ社会という現実のなかに隠れたイデア的アメリカ像を望み見ようとする点でも共通していますが、ワイルダーに即して言えば、彼が己の演劇をギリシャ劇にも共通した儀礼的・祝祭的なものと考えたこととも、これは関係していそうです。小さな町という環境や語り手の使用においては、ランフォード・ウィルソンとの共通性も無視できません。
 単純明快とも見えるワイルダー劇ですが、これを意味深く分析するには、結局、数ある切り口のなかから、それぞれが適切な切り口を見出す以外にはなさそうです。テーマの選択はそれぞれの報告者にお任せして、各自の切り口のなかから意味あるワイルダー像を総合的に引き出す、それを今回のシンポジアムの目的としたいと思います。
(長田 光展)

『わが町』― 極小世界と極大世界をつなぐもの
中央大学(名誉教授)  長田 光展

 ワイルダーは『三つの作品』の序文で、この作品の何よりの目的を次のように述べています。「これは、日々の生活の中のどんな小さな出来事にも計り知れない価値があることを見出そうとするものである。私はこれを主張するのに、途方もなく非常識な方法をとることにした。というのはこの町を極大次元の時間と空間の背景の中に置いたからだ』と。また同じ序文の中で、ワイルダーはブルジョワ演劇の狭隘性を覆す新演劇創出のきっかけを「永遠の真実」を測鉛するプラトンの「想起」説によって説明している。プラトンへの言及は偶然のことに過ぎなかったのだろうか、あるいは彼の宗教性とは切り離しがたく並存し、かつこの観念が、極小と極大をつなぐ橋として働いていたのだろうか。ひとつの切り口として、私はこの点について考察してみたい。

ワイルダーの不思議な時間 ― その根底にある宗教観や生命観
文化女子大学  久保田 文

 ワイルダーは、その作品を見る者に、あらゆる「時」が混じり合い、時としてそれらが一瞬に集中し、また途方もなく拡散していくような不思議な感覚を味わわせる。それはまるで、人類の歴史という広大なタペストリーの中で、時に一点を拡大して見せられ、その直後には全体を途方もない速さで概観させられているような、奇妙で魅力的な体験である。
 ワイルダーの舞台上の独特な「時」を生み出したものは、彼自身の中で常に強く意識されていた宗教観と歴史観だったのではないのだろうか? 例えば歴史観について言えば、歴史を His story としてとらえる極めて素直なクリスチャン的感覚が見てとれる。このこととワイルダーの深い知性や視野の広さが、彼の人類と個々人の生命に対するとらえ方を決定し、舞台上の「時」の扱い方にも大きな影響を与えたものと考えられる。

古典の条件 ―『わが町』に見られる普遍主義の検討
お茶の水女子大学  戸谷 陽子

 Thornton Wilder(1897-1975)はGertrude Stein(1874-1946)に宛てた手紙の中で、Our Town (1938)の第三幕はスタインの美学・哲学的概念に基づくものであると述べている。二人の交流はつとに知られるところであるが、両者の戯曲に共通点を認めることは容易ではない。スタインの実験的な戯曲が一部のカルト的人気を博したにもかかわらず大衆の理解を受けなかった一方で、『わが町』がアメリカ演劇史上今なお不朽の名作として君臨し続けていることについては誰もが認めるところであろう。本発表では、20世紀初頭ヨーロッパのモダニズムを実践した手法(ピランデルロ、スタイン、表現主義等)を採用し、これに普遍的なアメリカ神話を紡ぐことを接続させたワイルダー劇の特質を、スタイン劇との比較における時間の概念とその扱いを中心に、センチメンタリズムとノスタルジア、愛国主義と普遍性といったテーマ、当時の演劇状況と両大戦間の大恐慌を含む社会政治学的背景といった視点から検討する。さらに、今なお「アメリカの古典」として上演され続ける『わが町』に多元主義を擁する現代アメリカの観客が求める意味を検討し、批判的に考察することとしたい。

Grover’s Cornersの地政学 ― Our Townが持つサブリミナル・メッセージ
大阪大学  貴志 雅之

 “Some Thoughts on Playwriting”あるいは“Preface to Three Plays”で、Thornton Wilderは、specificからgeneralへ作品世界を昇華し、個々の物語を「観念、類型、普遍概念の領域」へと高める演劇の力に着目する。一幕劇The Long Christmas DinnerThe Happy Journey to Trenton and Camdenでは、すでに「個」から「一般」へのベクトルが現れ、Pullman Car Hiawathaでは、普遍的次元へと作品世界が時空的拡張を遂げるなか、壮大な歴史的、天文学的、神学的宇宙が姿を現す。人知の及ばぬ秩序と意思を持つ宇宙的規模の世界が存在し、その中で人間の生と死は循環的に繰り返される。そんな世界観が浮上する。「教訓的」とWilderが形容される所以かもしれない。
 本発表では、(1)Our Townの舞台Grover’s Cornersというspecificなスモールタウンが、どのようにgeneralな世界観を表象する演劇メディアとなっているのか、また(2)その世界観とは何か、そして(3)その世界観に底流・付随するイデオロギーとは何か、以上3点を考察する。それにより、Our Townが観客に対して持つサブリミナル・メッセージとそのメカニズムを読み解くことを目的とする。



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