大会報告 The American Drama Society of Japan
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第26回大会

と  き 2009年7月25日(土)・26日(日)
と こ ろ エルイン京都(〒601-8004 京都市南区東九条東山王町13)
テーマ 「スーザン=ロリ・パークス研究」

第1日 7月25日(土)

研究発表 司会: 東洋学園大学  松本 美千代

1.「標的」の図像解釈学―The America Playにおけるリンカン・イメージの反復と改訂 大阪大学(院)  後藤  篤

 Suzan-Lori ParksのThe America Play (1990-3)は、後にTopdog/Underdog (2002)でも再び用いられることとなる「リンカン暗殺」という「歴史」を再-収集し、過去の「発掘」をめぐる家族の物語として再構築した作品である。The Foundling Fatherによる扮装あるいは偽装、そして反復可能な参加型のエンターテイメントとして「歴史」を改変し続ける「暗殺ショー」といったモチーフを描いたこの作品は、歴史的事実としての「暗殺」が物語られた「歴史」に過ぎないということを暴露し、“Possession” (1994)において提示される作者の歴史認識とその演劇戦略を確認させるものとなっている。
 しかしながら、この作品で描かれる「記録」としての「歴史」に対する変更が、「リンカン」というアメリカ史のイコン、さらにはそれが孕む歴史上のリンカンを取り巻く様々なイメージに対する変更と密接な関係にあるという点は見逃されるべきではない。なぜなら、「リンカン」もまた、「暗殺」を頂点とするいくつもの神話化のプロセスを経て作り出されたイメージの集成であり、The America Playは「暗殺」の瞬間のみならず、そこで放たれる銃弾の標的となった人物の肖像さえも書き換えていくからだ。
 本発表では、作品において描かれる「リンカン」のイコンとそれを取り巻く神話的なイメージに対する「反復と改訂」に注目し、劇中においてそれらがどのように解体され、また再構成されているかということについて論じていく。その際、結末においてThe Foundling Fatherが「歴史の大穴」でパレードを繰り広げる偉人たちの列に加わるまでの過程を歴史上のリンカンが神話化される過程とアナロジカルに捉え、劇中に散りばめられた「リンカン」の表象についての分析を試みるとともに、作品が持つ「レプリカ」の主題について考察していく。

2.視線と黒人女性――Venusにおける「視る/視られる」という行為 神戸大学(院)  沖野真理香

 1996年に初演されたSuzan-Lori ParksのVenusは、イギリス人によって見世物にされ、“Hottentot Venus”と呼ばれた歴史上の実在人物Saartjie Baartmanをモチーフにしている。この劇の主人公Miss Saartjie Baartman/The Girl/The Venus Hottentot (以下The Venus)は、お尻が異様に大きいことが特徴であるアフリカのコイコイ人女性である。The Venusが白人社会で見世物になるという設定が示すように、この劇はポスト・コロニアルなテーマをはらんでいるように見える。
 特にこの劇では、The Venusが観客の視線に晒されるという点で、黒人女性が「視られる」他者であるという問題を提示している。女性と視線の問題は少なからず議論されてきた。本発表では、アフリカ人女性という人種的・性的に二重に抑圧されたThe Venusと彼女をめぐる人々との間にある「視る/視られる」という行為について検討したい。とりわけ、ハリウッド映画における“male gaze” (男性の視線)の窃視的およびフェティシズム的作用について指摘したフェミニズム映画批評家Laura Mulveyの理論を参照しつつ、この劇における視線について考察したい。また、人種・エスニシティと視線の問題に関しては、メキシコ出身のパフォーマンス・アーティストGuillemo Gomez-Penaらが実践してきた「ミュージアム効果」などを参考にしたい。さらに、The Venusは見世物として「視られる」だけでなく、自分を欲望するThe Baron Docteurを「視る」側に立つことで、<視る側→視られる側>という一方向的な視線の構造を攪乱する。
 これらのことを材料に、Venusにおける視線および窃視行為を考察することで、黒人女性、ひいては人種的マイノリティや女性全般が「視られる」存在であるという問題について考え、そこにParksの黒人女性としてのマイノリティ・ポリティクスを見出したい。


第2日 7月26日(日)

シンポジウム
「スーザン=ロリ・パークスの超時空演劇」


司会兼パネリスト  大阪大学  岡本 太助
パネリスト  大阪大学(非常勤)  岡本 淳子
   愛知学院大学  藤田 淳志
   日本大学(非常勤)  有泉 学宙



 Suzan-Lori Parks (1963- )はこれまでに演劇、映画脚本、小説など多面的な創作活動を展開し、それぞれの分野において高い評価を獲得している。特に2001年初演の劇Topdog/Underdogによって、アフリカン・アメリカン女性劇作家として初のピューリッツァー賞を獲得するなど、現代アメリカ最重要劇作家の一人としての地位を揺るぎないものとしている。本シンポジウムでは、特に劇作家としてのパークスとその作品について、パネリストそれぞれが独自の視点からのアプローチを試み、全体として、パークス劇の多面性を明らかにすることを目指す。
 各論においては、黒人性あるいは黒人演劇史、ジェンダー/セクシュアリティ、主体やアイデンティティ、演劇技法や間テクスト性など、幅広い論点が提示されることが予想される。本シンポジウムでは、「超時空演劇」というテーマによってそれらの論点を緩やかに結び付けたい。これはいかようにも解釈できる漠然としたタームではあるが、ここでは特に次の二点を強調して定義しておきたい。まずひとつめは、劇作家としてのパークスが示す歴史への強い関心と、その作品における歴史の解体と再創造のプロセスを、「超時空」的なものとして理解しようということである。つまり、単に「ありのままの」歴史を再演するのではなく、反復と書き換えによって歴史を解体/再構築し、それを空間的メディアである舞台と戯曲テクストの上において再提示する行為のダイナミズムを表現するものとしての「超時空」である。もう一点は、作品そのものの精読が明らかにする、パークス劇の「超時空」的構造である。非直線的プロット構成はもちろんのこと、過去の文芸作品やその他のドキュメントからの奔放な引用、意図的なアナクロニズムの多用など、パークス劇の複雑極まりない仕掛けは、観客/読者が時間的・空間的に安定した状態にとどまることを許さない。受容する側もまた、複眼的な視点をもって、積極的にコミットすることを求められるのである。
 あるエッセイの中でパークスは、作品に込められた象徴性や意図を読み取ることは無意味であり、各人がそれぞれの解釈をぶつけ合うべきである、という趣旨の発言をしている。これは我々演劇研究に携わる者にとっては勇気づけられるメッセージではあるが、同時に、我々が負うべき責任を容赦なく突き付けるものでもある。本シンポジウムを、こうした責任を果たす機会とし、創造的な議論を交わすための場としたい。
(岡本 太助)

プリズム―Venusにおける断片化と全体性の回復
大阪大学  岡本 太助

 歴史学、生物学、芸術論、情報工学――今日我々がその恩恵に浴する「知」の諸分野において、「全体は部分の総和以上のものである」というテーゼが繰り返し現れる。その一方で、真実や魂は「細部に宿る」とも言われる。The America Playにおいて、断片化し埋められてしまったアフリカン・アメリカンの歴史を掘り起こし、オクシモロン的“whole Hole”の形象を用いてその歴史の全体性を回復・再創造しようと試みたパークスの劇作においても、部分と全体の関係は中心的なテーマとなっている。伝統的劇作が自明のものとする物語の直線的構造からの離脱を図るパークス劇を、<断片化>と<全体性>をキーワードに読み解くことが、本発表の目的である。
 今回は1996年初演のVenusを主なテクストとして議論を進めるが、その議論もまた、部分と全体を往還しながら進められることとなるだろう。例えば、Baartman/Venusの「解体」プロセスにおいて展開する魅了と嫌悪、欲望と恐怖の混在するまなざしの政治学をテクストに即して論じつつ、それをテクスト構造における断片化と照応させ、さらに劇の内部と外部との境界解体の議論へと連結していく。その作業を経て、複数のレベルの間の関係性にこそ、パークス劇の神髄があることを明らかにしたい。
 連続体としての歴史を現在において分節し再構築するためには、いったんその連続性を解体し、断片化する必要がある。パークスの劇作は、「歴史の連続を打ち破る」(ベンヤミン)ためのプリズムとして機能するのである。

アフリカン・アメリカンと資本主義、そして「大文字の歴史」
大阪大学(非常勤)  岡本 淳子

 VenusのThe Venus Hottentot、In the BloodのHester、そしてTopdog/Underdogの二人の兄弟に共通するのは、彼らが経済的に苦しく、金を必要としていることである。搾取する白人と搾取される黒人という大きな二項対立が背景にあることは否めないが、パークスが描くのは、そのような資本主義を逆手にとり、白人あるいは勝者とみなされるものを搾取するアフリカン・アメリカンの姿である。その際にパークスは、見る主体白人と見られる客体黒人という一般的な対立をも解体し、一種のショーとして自主的に見せる黒人を描き出す。そして、社会の一般的な価値規範から大きく外れた“shameless”、 “filthy”、“ugly”、“indecent”、そして“unfortunate”である主人公たちが、人々を魅了し、彼らを支配する力さえ持つことが提示される。
 しかしながら、The Venus HottentotもHester、それにLincolnもBoothも、彼らを搾取する社会を見返し、勝者になることはない。善悪、勝敗、あるいは上下の境界はあいまいであり、恣意的な価値基準は常に変化する。従って、最終的な転覆あるいは勝利というものは存在しない。それに加えてパークスが描くのは、名前に象徴される「大文字の歴史」が与える運命である。アフリカン・アメリカンは歴史の大穴を掘り返す作業を続けているが、それでもなお覆いかぶさる「大文字の歴史」の圧力をパークス作品に感じずにはいられない。
 見るもの、見られるもの、見せるもの、そして価値基準の変化を論じる際には、パークスの初期の作品、Imperceptible Mutabilities in the Third Kingdomにも触れることになるであろう。

ヘスターを隔てる境界―In the BloodThe Scarlet Letterの比較から
愛知学院大学  藤田 淳志

 In the BloodではThe Scarlet Letterと同様、社会の周縁に追いやられた主人公ヘスターが描かれる。どちらの作品でもヘスターと他の登場人物たちの間には境界があり、観客/読者の多くは他の登場人物たちの側から、他者としてヘスターを見ることになる。
 The Scarlet Letterにおける読者に対する直接の語りかけ、In the BloodにおけるThe Scarlet Letterからの様々な要素の借用など、両作品ではメタフィクションの仕掛けが特徴的である。マジョリティにアイデンティファイする観客/読者は、それぞれの作品のメタ性を通してヘスターを苦境に追い込んだことに対する自らの有罪性を認識させられる。しかし2作品の間でその構造と程度は異なり、またへスターを隔てる境界の存在の仕方も異なる。
 これらの作品を比較しながら、パークスがどのようにホーソンの作品を“rep&rev”し、In the Bloodを描いたのか、へスターのセクシュアリティを中心に分析を試みたい。

スーザン=ロリ・パークスの「リンカン劇」
日本大学(非常勤)  有泉 学宙

 主人公がリンカンに扮してリンカンの最後の場面を演じる余興・生業を含むThe America PlayTopdog/Underdogを仮に「リンカン劇」とする。前者はベケット的な前衛劇であり後者はアメリカ伝統の家庭劇。共通するのはこれらが黒人作家パークスの歴史意識の反映であるという点だ。前者の主人公は、無名の「ファンドリング・ファーザー」(「捨て子の父」)として、アメリカの歴史から「捨てられた」黒人として存在する。後者の兄弟は、リンカンとブースと命名され、名付け親から「捨てられ」て、最後には、その名のとおりリンカンはブースに殺される。「ファンドリング・ファーザー」はアメリカの過去を「掘り」続け、また、後者の兄弟は家族の過去からは逃れられない。これらはともにかれらの運命である。リンカン暗殺のイメージに強く引かれるという作者は、黒人はリンカンの死をとおしてはじめて自らの過去を掘り起こす契機を与えられたのだと言う。そして、パークスは、「反復と修正」という独自のドラマツルギーによって、従来の演劇の形式と内容を脱構築するだけでなく、アメリカの歴史(白人が書いた過去の歴史)の掘り起こしをシンボリックに舞台化した。さらに、白人にプロテストする黒人を描くのではなく、また、黒人と白人双方が「トップドッグ」でもなく「アンダードッグ」でもない状況を設定し、人種対立を越えて、黒人が白人の歴史を「修正」することに意味を見出そうとするのである。白人は歴史を持つ者、黒人は持たぬ者と言ったトニ・モリソンのように、パークスの演劇もまた、改めて黒人性の意味を問い、アメリカの歴史のアイデンティティそのものを黒人の視点から再発見しようとするものではないだろうか。



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