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第1日 9月12日(土)
1.Buried ChildとAugust: Osage Countyにおける、「母親がわり」の部外者たち |
白百合女子大学(院) 高橋 典子 |
ウィリアムズ、オールビー、オニールに代表されるアメリカの家庭劇は「機能不全」の家族の物語を多く扱ってきたが、1979年にピュリッツアー賞を受けたSam ShepardのBuried Childもまたその流れの中にあり、家族としての機能を果たさなくなった血縁者たちの物語である。この劇の奇妙な空気を作り出している要因のひとつに、Halieの「母性の放棄,不在」があげられる。ノーマン・ロックウエルの絵のように、病気の夫を気遣い、息子たちの世話を焼き、久しぶりに訪ねてきた孫と彼のガールフレンドを暖かく歓迎する、そういう古き良きアメリカの母親的行動をとるのが「機能する」母とするなら、Halieの行動は、そこからかけ離れている。家族たちの関係性の輪の外に身を置いて、手を差しのべないという「機能不全」の母である。父親と息子のつながりを軸とする、男性性・父性からこの劇をとらえるという従来の見方から、子を持つという私自身の体験を経て変わってきた、女性性・母性から家族の関係をとらえるという視点で、この劇を考えたい。
また、その母性の不在の隙間に滑り込むように現れる、孫のガールフレンドShellyの役割について、「母親代わり」という視点からとらえてみる。その比較対象として、2008年にピュリッツアー賞戯曲部門賞とトニー賞演劇作品賞を受賞したTracy LettsのAugust: Osage Countyを見る。病気の父と息子たちというBuried Childの家族関係に対し、Augustには病気の母と娘たちという家族関係があり、どちらにも「家族の汚点」ともいえる秘密がある。家族に関わろうとしないHalieと、家族を毒のある言葉で苛むAugustのVioletは、まったくタイプは異なるが共に「機能不全」の母親であり、その「不全」をより際立たせて見せているのが、それぞれの劇に登場する、外から来た女性たちである。Augustでは、Violetの代わりに母親役を務めるのはネイティブ・アメリカンの家政婦Johnnaである。
この2つの劇の「機能不全の母親」と「母親代わり」の共通点と相違点を、それぞれの作者の故郷であり、また舞台の設定場所でもあるイリノイとオクラホマの気候風土・歴史的背景、および劇の中で行われる親から子への継承と関連づけながら考察したい。
2.後期Shepardのドラマツルギー――ゼロ年代作品を中心に |
大阪大学(非) 森 瑞樹 |
ロックンロール等の音楽的要素やアバンギャルド等の当時の芸術的トレンドの影響を色濃く映し出す初期。演劇キャノンのドラマツルギーを吸収するとともに、物語性の充実を図ったことで一躍指折りの演劇脚本家に数えられるまで上り詰めた中期。そして現在進行形の後期。Sam Shepardの劇作の系譜に大まかなインデックスを付すのならば、以上のように大別できるかもしれない。このような流れのなかで、劇的プロットの必要性、また物語世界の時間軸的遡及性と進展性に囚われることなく、劇場内で観客が体験する事象もしくは体験そのものが全てというような、切り離され浮遊する現在を表象しようと試みた初期から、血統等のモチーフを巧みに取り入れ、時間の奔流を基にして湧き上がるアメリカ的神話やアイデンティティの有様を暴きだそうと思索した中期への推移は、Shepard自身の歴史/伝統/芸術に向けられた眼差しのドラスティックな転換を如実に浮き彫りにしている。
ただ興味深いことに、前衛を追究するよりもむしろ、いわばキャノンに習うことで手に入れ、練り上げた諸々のドラマツルギーを、今現在のShepardは初期の作風に回帰することで解体し再構築しようとしている節がある。中期で重要な役割をはたしたモチーフを取り入れこそしてはいるものの、例えばKicking a Dead Horse (2007)は、Shepardが得意とするダイアローグによる弁証法的物語展開を廃し、プロットの必然性を大胆に切り捨てたモノローグで展開するオープンエンドの物語である。しかし、単にこれをShepardのアバンギャルドへの懐旧だとか演劇的慣習への諦観だと結論付けてしまうのは尚早なのではないだろうか。そこで本発表では、初期Shepard作品の文化的あらましを捉え直すと同時に、特に2000年代の作品に注目することで、後期への変遷が描き出す現在進行形のShepardの芸術性のあり方を探ってみたい。
3.パフォーマンスと表出的アイデンティティ――Sam Shepard劇をめぐる理論的考察 |
九州大学 岡本 太助 |
従来のSam Shepard研究においては、以下のような議論が一定のコンセンサスを得ている。(1)Shepard劇を実験的な初期、リアリズム寄りの中期、社会的イシューに接近しつつも技法的には初期に回帰する後期に分ける、≪劇作法の変遷≫をたどる言説。(2)カウボーイやひとり荒野に向かう男といった、アメリカ的でありなおかつポップカルチャー的でもある≪神話の類型≫に当てはめる解釈。(3)そしてとりわけ多くの批評において指摘されている、ほとんどの作品が何らかの形で≪アイデンティティの問題≫を扱っているという事実。(1)に関しては今回分析の対象として取り上げる初期の4-H Club、La Turista、中期のCurse of the Starving Class、後期のKicking a Dead Horseなどの作品の間にも明確な技法の変化が確認される。(2)については、現実からの逃避としての異郷への旅が喚起するロマンティシズムとその挫折、あるいは以前別のところで論じた劇中における「死せる動物」の存在などが、テーマとして通底している。これらの点について作品を間テクスト的に分析すると、時代とともに変化するShepard劇は、実のところ同じテーマの様々な変奏である可能性が浮上する。これを、反復可能性に依拠しつつも反復され得ないものであるという、≪パフォーマンスの両義性≫として捉えることで、Shepardにおけるアイデンティティの問題に新たな光を当てることが可能ではないだろうか。
以上のような論点から、本発表では、Shepard劇におけるアイデンティティを、解釈を施すべき所与の現実としてではなく、パフォーマンスの行為を通じて演劇的にそして儀式的に生み出される「表出的アイデンティティ」として捉え、それについての理論的考察を試みる。とりわけ、戯曲テクストとパフォーマンスをそれぞれ素材とその表現として分割するのではなく、一方が既に他方を内包し、なおかつお互いを変化させるものであることを論じてみたい。
第2日 9月13日(日)
シンポジウム
メディアミックスの観点から読み解くSam Shepard
司会兼パネリスト |
近畿大学 |
森本 道孝 |
パネリスト |
お茶の水女子大学 |
戸谷 陽子 |
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神戸大学 |
山本 秀行 |
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京都学園大学 |
古木 圭子 |
劇作家としてのSam Shepardは、Buried Childでのピューリツァー賞の受賞をはじめとして、いわゆる家族劇として発表した作品の評価が高い。しかしながら、彼の経歴を眺めると、その関心はMotel Chroniclesなどの詩やエッセイといった執筆に関連した活動はもちろんであるが、それにとどまることなく、音楽、俳優業、映画脚本の作成など多様な領域へと広がっている。また、Joseph Chaikinらとの共作にも積極的である。
例えば音楽に関しては、自身がドラムを叩いて帯同したBob Dylanのツアーを記録したRolling Thunder Logbookの執筆がある。このような音楽への関心は、ロック音楽の生演奏を盛り込んだ自身の劇作品The Tooth of Crimeなど初期の作品群に特に顕著に見られる。
また、俳優業としては、映画The Right Stuffでのアカデミー賞助演男優賞のノミネートが最も有名であるが、そのほか数多くの作品に出演している。また、Fool for Loveのように、劇作執筆から始まり、映画版の脚本の担当、さらには主役まで自身で演じた作品もある。さらに、脚本としては、自身のMotel Chroniclesを原案として脚色したWim Wenders監督によるParis, Texas、初めて自身が映画監督としてもかかわったFar North、そして自身が出演もしたDon't Come Knockingなどを挙げることができる。
本シンポジウムでは、このような多岐にわたるShepardの活動にも十分に目を配ることで、メディアミックスという観点から彼の劇作品群を改めて読み解くことを試みたい。その際には、原作劇と映画脚本あるいは彼自身の演技とつながりについて、劇作品内部における映画というメディアの扱いや音楽の扱いについて、さらには、彼自身が体現するイメージから見るShepard自身のメディア化について、など多様なアプローチが可能である。
さらには、初期作品群から家族劇の時期を経て最近の作品に至るまでのキャリアを、できる限りバランスよく取り上げ、時期によってメディアとのリンクがどのように変化しているのかについても検討したい。様々な領域にまたがるジャンルでの活動によって、彼の劇作品がプラス・マイナス両面でいかなる影響を受けているのかを明らかにすることで、新たなSam Shepard像を発見することができると思われる。
(森本 道孝)
情動のドラマツルギー
――Sam Shepard 初期戯曲における感情の構造と音楽的抽象表現の配置 |
お茶の水女子大学 戸谷 陽子 |
1963年、弱冠20歳でNew York Cityに移り住み、Village Gateで皿洗いをしながら当時隆盛を極めていたカウンターカルチャーとダウンタウンの実験演劇に立ち会うこととなったSam Shepard (1943-)は、La MamaやCafé Cino等で作品を発表し、次第にオルタナティヴな空間で頭角を現す。当時の戯曲は、その後Curse of the Starving Class (1977)、Buried Child (1978)等メジャーに承認され、一般観客にもアクセス可能な参照項と劇構造をもつ作品とは異なり、シュールレアリスティックなイメージが散漫かつ衝動的に挿入される無手勝流ともいえる劇作のスタイルが特徴的である。こうした特徴は、The Open Theaterを主宰したJoseph Chaikin (1935-2003)の知己を得て、ダウンタウンの実験演劇が標榜した身体や演技、上演空間の実験を体験した影響と、加えて独特の音楽的要素の配置が大きく関わっていると思われる。
しばしば登場人物としてミュージシャンが登場し音楽を演奏するShepard劇の音楽性については指摘されるところであるが、テクストの特徴として挙げられるのは、Jack Kerouacが好んで採用した‘jazz sketching’の手法である。テンポやコード進行にこだわらずに進行するフリージャズセッションのように、初期の戯曲はポップなイメージが流れや連想により配置され、即興的に、予測不能な方向に「トリップ」し、理解可能な終息をみないことも多い。音楽に身を委ねるような、抽象表現主義絵画やアクションペインティングに立ち会うような体験を提供するテクストには、理性や感情による世界の把握といった演劇のアジェンダとは異なる、分節化されることのない抽象的な情動が書き込まれ、それを誘引する「上演」の要素を吟味する必要があると考える。
本報告では、Shepard初期一幕劇Chicago (1965)、Icarus's Mother (1965)、Red Cross (1966)、Melodrama Play (1967)等を中心に、その後の Cowboy Mouth (1971)、Suicide in B Flat (1976)、Angel City (1976)を含め、Shepard初期戯曲に配置された音楽の要素とそれに連動する情動について、カウンターカルチャー、ヴェトナム戦争、戦後冷戦期といった時代の影響を考慮しつつ検討する。
抵抗のロック音楽――Sam Shepard作品に見るアンチエイジング志向 |
近畿大学 森本 道孝 |
Sam Shepardの劇作品の中ではBuried Child (1978)をはじめとするいわゆる家族劇の存在が大きい。これらにおいては、息子の台頭に脅かされる父親という関係性に顕著な男性間の世代交代がテーマとなっているが、特に脅かされる側の世代は、その原因を自身の身体的な衰えに見出し、様々な手段を用いてそこから逃れようとする。家族劇では逃亡や忘却という逃避的な手段が用いられることもある。しかし、Shepard劇全体を見渡してみると、自身の衰えに抗う形で暴力などの強硬な手段によって自身の力を誇示しようとすることで、次世代への正面からの対抗を試みる男性版のアンチエイジング志向とも言える積極的な手段に出るケースも少なくない。例えば、The Tooth of Crime (1972)における若手ミュージシャンCrowに対抗心を燃やすHossはその典型と言える。
また、Shepardと音楽の関係は、かなり密接である。自身がドラムを叩いていた経験もあり、彼の作品には音楽が満ちている。The Tooth of Crimeの他にも、ロックバンドが劇中歌を演奏したMelodrama Play (1967) をはじめ、彼自身がドラマーとして所属していたホーリー・モーダル・ラウンダーズの音楽を挿入し、作品内の楽譜も記載されているOperation Sidewinder (1970) など、多くの作品が音楽とリンクしている。
このような1970年前後のShepardは、若者文化の代表としてのイメージがある一方で、年齢を重ねる中で期せずして体制側に取り込まれていかざるを得ないというギャップのある状況に苦悩し、ロック音楽の本場であったロンドンへの移住まで決意するに至る。つまり、彼が苦境から逃避するための希望の光として選択したのは音楽、しかも若者文化の象徴とも言えるロック音楽であったのである。この苦悩からの逃避として選択したイギリス滞在を経て完成されたThe Tooth of Crime には、若者文化の代表と言えるロック音楽によるShepardなりのアンチエイジング的な抵抗が結集されていると考えられる。
本発表では、Shepard自身および彼の作品内の男たちとロック音楽との関連を、後の家族劇における世代交代への恐怖に怯える男たちのアンチエイジング志向の抵抗につながる萌芽として読み解く。これによって、初期劇作品群から家族劇への展開に新たな視座を提供したい。
演劇と映画の境界を超えるSam Shepard
――「本当の」西部/アメリカ、「失われた」父親/家族を探して |
神戸大学 山本 秀行 |
Sam Shepardと映画との関わりは、1963年の映画Apples in the Treeへの出演に遡る。その後、Shepardは、俳優として、アカデミー助演男優賞ノミネートのThe Right Stuff (1983)、Cinema Writers Circle Award主演男優賞ノミネートのBlackthorn (2011)など、約60本の映画に出演してきた。脚本家としては、Robert Frank監督のMe and Brother (1969)とMichelangelo Antonioni監督のZabriskie Point (1970)に脚本家の一人として関わった他、Robert Altman監督のFool for Love映画版(1985)で脚本(兼出演)、Wim Wenders監督のParis, Texas (1984)で監督との共同脚本、同じくWenders監督のDon't Come Knocking (2005)で監督との共同脚本(兼出演)を手がけた。また、1988年のFar Northで初の監督(兼脚本)、1994年のSilent Tongueでも監督(兼脚本)を務めている。これほど映画界でマルチに活躍する劇作家は、アメリカ演劇史上、Shepardの他にいないが、如何せん彼の映画の仕事は、殊にアカデミズムにおいて劇作家の「余技」として過小評価されがちである。
本発表では、特にShepardが脚本・監督を手がけた二作品Far NorthとSilent Tongue、およびWenders監督とのコラボレーションによる二作品Paris, TexasとDon't Come Knockingを取り上げる。西部劇やロード・ムービーというハリウッド映画のフォーミュラの借用により、「本当」の西部/アメリカ、「失われた」父親/家族の探求という自身の演劇にも通底するテーマにShepardはいかに取り組んでいるのか、また、そもそも、そうした映画との関わりが彼の演劇にいかなる影響を与えているか、など考察する。そうすることで、映画と演劇という境界を超えるShepardのクロス・メディア的側面を再評価したい。
「埋められた子供」の救済――Sam ShepardのHeartlessとBuried Child |
京都学園大学 古木 圭子 |
Sam ShepardのHeartless (2012) は、女性登場人物の視点が中心に置かれているという点で、Shepardの劇作キャリアにおいては特異な作品である。母と娘が家に留まるという終幕は、孫/息子が家を受け継ぐことで血の継承を提示したBuried Child (1978)とは対極を成す。その一方、Buried Childで「埋められた子供」は、Heartlessにおいて、心臓移植手術によって命を取り留めたSallyとなって甦ったとも考えられる。
Buried Childの父親Dodgeは、病のために身体の自由を奪われ、家長としての権限を持たない存在であり、非情なVinceが彼の財産を相続することは、単に権力の移行を示し、そこに祖父と孫の間の情愛は介入しない。一方、Heartlessの母Mableは、車椅子生活を強いられながらも、長女Lucyと看護師Elizabethの上に君臨する家長の立場を保持し、母の存在意義とその愛情の尊さについて繰り返し語る。
次女のSallyが家に留まるHeartlessの終幕は、相続人としてのVinceの役割を彷彿とさせるが、母を世話する娘の役を拒み、映画を撮ることを「ライフワーク」とするSallyは、Elizabethにカメラを壊されて「ライフワーク」を奪われたことにより、母と共に留まることを受け入れる。このカメラの破壊が、彼女への心臓の提供者であるElizabethによって行われることは注目に値する。その破壊行為は、殺人の被害者Elizabethに対してずっと罪の意識を持ち続け、彼女を分身としてみなして生きてきたSallyへの赦しの行為と解することも可能である。
Sallyの映画のテーマは、ボーイフレンドの熟年男性Roscoeの人生であるが、その内容が、まとまりのない彼の私生活の断片であることや、Roscoeが、Sallyの実の父親と同様に妻子を捨てて放浪している男性であることから、彼女の映画製作は、父親像の探求であったとも考えられる。しかし、Roscoeは長女のLucyと共に去り、Sallyは彼との決別を最終的に受け入れることで、父親から見放された娘という呪縛から解放され、Mableの娘としての自己を受容する。その点において、カメラの破壊は逆説的にSallyの救済を意味する。
Buried Childでは、罪を背負って生まれてきた子供が、救済を受けることなく「埋められた」が、Heartlessの「子供」には、罪の意識、孤立感を克服する道筋が示されている。以上の点から、Heartless をBuried Childにおいて未解決であった問題に対する一つの解決策を示す作品として考察したい。
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