大会報告 The American Drama Society of Japan
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第6回大会

と  き 2016年9月10日(土)・9月11日(日)
と こ ろ エスカル横浜(〒231-0023 横浜市中区山下町84番地)
テーマ エスニック・マイノリティ演劇研究

第1日 9月10日(土)

研究発表 司会: 広島経済大学 森 瑞樹

1.アメリカの中のイタリアが生み出す悲劇
――A View from the Bridgeにおける白さと男らしさのゆらぎ
福岡工業大学短期大学部(非) 岡裏 浩美

 自伝において、自己の民族性に重きを置かない創作理念を示すArthur Millerの作品では、ユダヤ性やホロコーストの恐怖といったテーマでさえも、普遍的な人間性や、人類共通の感情や理念を示すものとして解釈され、特定の人種や民族性を強く意識させる作品は少ないと言える。A View from the Bridge (1955)では、しかしながら、自身とは縁もゆかりもないイタリア系移民の中年男性(Eddie)を主人公に、その居住地区(Red Hook)を舞台に設定している。イタリア系の知人から聞いた実話をベースにしたとはいえ、本戯曲以外にも、度々イタリア系アメリカ人を作品に扱うMillerには、アメリカの中のイタリアを扱わなければならない創作上の強い意図を感じさせる。
 本発表では、WASPが牛耳るアメリカ社会において、アイルランド系やユダヤ系の移民とともに白人社会の底辺に属し、Italian Diasporaと称される程、20世紀初頭に急増したイタリア系移民の民族性に注目する。言い換えれば、白人と非白人とのあいまいな境界に属し、差別や偏見を受け続けた、ホワイト・エスニックとしてのイタリア系移民のアイデンティティや、その居住地域に注目することで、Eddieが姪へ抱く近親相姦的な欲望ばかりが注目され、『オイディプス王』を模した現代悲劇と安易に解釈される、本戯曲における悲劇性を再考していく。
 特に、外見上は社会における優位性を象徴するWASPの視覚イメージを持ちながら、一方では、保守的な50年代にタブーとされた同性愛者を喚起させる、シチリア島からの不法移民Rodolphoと、典型的なイタリア移民の特徴を保持するEddieとのまなざしを介した関係性を精査することで、Eddieの白さや男らしさの揺らぎから派生する悲劇的な力、すなわち、最終的に彼を身内の密告という裏切り行動へと駆り立てる、運命のような強制力を分析していきたい。

2.ペンとヒジャブ――The Who & The Whatに見るムスリム系アメリカン女性の模索 恵泉女学園大学 有馬 弥子

 Ayad AkhtarはDisgracedがピューリツァー賞を受賞した一年後2014年に、喜劇的な要素を強調したThe Who & The Whatを発表した。パキスタン出身のムスリム系の親世代によるアメリカへの移住は、二世世代の女性主人公Zarinaにイスラームの因襲面からの解放の機会をもたらす。しかし、妻を亡くした父親、妹、イスラームに改宗した白人の配偶者とZarinaの間では、確執、秘密、和解、新たな課題が錯綜し、純然たるハッピーエンディングに至るわけではない。しかし本作においてアクタールはそれら全てのどたばたと主人公の闘いのプロセス自体に意義を付そうとしたのであり、そのために敢えて喜劇的な色彩の濃い人物設定および展開を提示している。本発表ではThe Who & The Whatの喜劇的要素がZarinaによる自由への希求と抗いにどのような意味を与えているかを分析する。  Zarinaの言動に関する焦点の一つは、イスラームにおける表現の自由の問題である。作者自身が喜劇の題材からは最も遠いと見なす題材、イスラームの教祖の風刺とその反響というテーマに、ムスリム系で、しかもイスラームの因襲により心に傷を負った女性主人公を挑ませ、しかも一貫して喜劇的要素を軸にこのテーマに迫ろうとした。なぜ男性作家アクタールは女性主人公にこの挑戦を課したのか。ルシュディ事件より30年ほど、パリの雑誌社襲撃事件より二年弱経ったが、女性主人公を用いたこのようなアプローチが男性作家により2014年に成されたことは注目に値する。ムスリム系二世代をめぐるムスリム系女性の立場やムスリム系アメリカンの社会についてのテーマとThe Who & The Whatの喜劇的要素の関係を分析することにより、本作が示そうとしている方向性を今日的状況にかんがみ探る。
 さらに本発表では、アクタールの前作である悲劇Disgracedと小説American Dervishに見るイスラームをとりまく女性像を通して提示されるジェンダーのイシューとも照らし合わせつつ、The Who & The Whatを論じる。

特別講演
Truer Picture of Present and Future Humanity on Stage:
Casting across race, gender, and age in Chiori Miyagawa’s plays
講師 Chiori Miyagawa氏(劇作家)

講師略歴:
 ニューヨーク市を拠点として活躍する劇作家。長野県に生まれ、高校時代のアメリカ留学を機に移住し、ニューヨーク市立大学で劇作と劇批評を学び、MFAを取得する。ワシントンD.C.のArena Stageのプロデューサー、ニューヨーク市のPublic TheaterおよびNew York Theater Workshopで芸術助監督を務めた後、1995年、オフ・ブロードウェイにてAmerica Dreamingで劇作家としてデビューする。同氏の戯曲は、ニューヨークのオフ・ブロードウェイ、およびその他の地域における主要な劇場で定期的に上演されている。
 代表作として、アラン・レネ監督のHiroshima mon amourへの反駁として創作されたI Have Been to Hiroshima mon amour (2009)、9作の能作品を現代的視点で翻案した戯曲This Lingering Life (2014年サンフランシスコのZ Spaceにて初演、Theater Bay Arena Awardの最優秀戯曲)、Kate Chopinの同名小説を題材としたAwakening (2000)、Chekhovの短編を題材としたLeaving Eden (2005)、『源氏物語』、『更級日記』を題材とし、演出に日本の乙女文楽を取り入れたThousand Years Waiting (2006)、近松門左衛門の『女殺油地獄』を題材としたWoman Killer (2011) などがある。戯曲集としては、7作品を収めたThousand Years Waiting and Other Plays (2012)が Seagull Booksより、5作品を収めたAmerica Dreaming and Other Plays (2012) がNoPassport Pressより出版されている。
 Miyagawa氏は、New York Foundation for the Arts Playwriting Fellowship、McKnight Playwriting Fellowship、Rockefeller Bellagio Residency、Asian American Cultural Council Fellowship、ハーバード大学のRadcliffe Institute Fellowshipを含む多くの基金の受領者であり、ニューヨーク市のNew Dramatistsの元会員でもある。劇作家としての活動の傍ら、Bard Collegeで劇作を教授している。


第2日 9月11日(日)

シンポジウム
21世紀初頭のアメリカにおけるエスニック・マイノリティ演劇――人種、国家、言語、ジェンダーの越境


司会兼パネリスト  神戸大学  山本 秀行
パネリスト  大阪大学(非)  穴田 理枝
   九州大学  岡本 太助
   京都学園大学  古木 圭子


 これまで、本学会のシンポジウムにおいては、特定の作家あるいは時代(またはその両方)に基づくテーマ設定を行ってきた。今回のシンポジウムにおいては、これまで副次的なテーマとしてはたびたび論じられてきたものの、主要テーマとして取り上げてこなかった人種・エスニシティという観点から、21世紀初頭のアメリカのエスニック・マイノリティ演劇に焦点を絞って考察する。
 4人のパネリストそれぞれが、21世紀初頭のアメリカ(カナダも含む)で活躍するエスニック・マイノリティの演劇、具体的には、アフリカ系劇作家Suzan-Lori Parks、アルゼンチン出身のラティーノ劇作家Guillermo Verdecchia、日系劇作家Chiori Miyagawa、中国系劇作家David Henry Hwangの作品を取り上げる。まず、その根底に垣間見える歴史性・文化的遺産などの通時的観点から、エスニック・マイノリティ演劇がこれまで辿ってきた歴史を逆照射しつつ、人種、国家、ジェンダー、言語の越境性(trans-borderness)という共時的観点にも踏み込んで、考察を深めていく。さらに、グローバル化/反グローバル化という二つの相反するベクトル上に位置する21世紀初頭のアメリカにおいて、ますます多様化するエスニック・マイノリティ演劇の新しい潮流を探り、可能な限り、その将来像についても展望していきたい。

(山本 秀行)

ポスト・ミレニアル期のDavid Henry Hwang のtrans-bordernessをめぐって
――Yellow FaceChinglishを中心に
神戸大学 山本 秀行

 アジア系アメリカ人の演劇として初めてニューヨークの商業劇場で上演されたFrank Chin, Chickencoop Chinaman (1972)以降、アジア系アメリカ演劇は、アジア系アメリカ人としてのアイデンティティの探求および、人種差別やホモフォビアなど、彼ら固有の社会的問題をめぐっての葛藤を描くことを「前提」としてきた。
 しかしながら、M. Butterfly (1988)でアジア系初のトニー賞を受賞するなど、これまでアジア系アメリカ演劇を牽引してきたDavid Henry Hwangは、21世紀初頭、いわゆるポスト・ミレニアル期に発表した二つの劇Yellow Face (2007)およびChinglish (2011)において、Frank Chin以来のアジア系アメリカ演劇の「前提」には従わず、人種、国家、言語等の境界(borders)を超えた広範なテーマに取り組んでいる。Yellow Faceは、1992年にブロードウェイ公演前のプレヴューで不評だったために公演中止に追い込まれたFace Valueを書き直し、2009年のオフ・ブロードウェイ上演を経てオビー賞を受賞した作品である。1990年のMiss Saigonのアメリカ初演時の白人優越主義的キャスティングをめぐる論争(“Miss Saigon Broadway Play Controversy”)を元に書かれたスラップステック・コメディに、作者のalter egoとも言えるDHHを新たに登場させ、その父の中国人銀行家HYHの中米関係を揺るがす不正献金スキャンダルというもう一つのエピソードを加えることで、trans-nationalな要素も含んだ劇にしている。また、2011年のシカゴでの初演後、同年にブロードウェイ上演されたChinglishは、中西部で看板製作会社を営む白人男性Daniel Cavanaughが、中国の地方都市での英語看板作成の公共事業受注をめぐって、当初は弊害とさえ思えた中国流の奇妙奇天烈な英語(Chinglish)を通じて、狡猾な現地の中国人の役人たちと交渉/交流を重ねていくうちに、中国人独特の慣習・考え方を理解し、人種、国家、言語の境界を越えた人間同士のコミュニケーションを構築していく過程をコミカルに描いている。
 以上のように、本発表では、trans-bordernessという観点を中心に据え、Hwangの最新作Kung Fu (2014)や、Dan Kwong, Be Like Water (2006)など他の中国系劇作家の作品にも言及しつつ、ポスト・ミレニアル期の中国系アメリカ人演劇の新たな方向性について考察を深めていきたい。


人種について「語る/語らない」――Suzan-Lori Parksの21世紀的作劇法とテーマ 大阪大学(非) 穴田 理枝

 アフリカ系アメリカ人女性作家、Suzan-Lori Parksは、初期のポストモダン的と評される、時空を超えるような作品群とは異なり、近年、家族を中心とした物語性の強い作品を発表している。The Book of Grace (2010)、 Father Comes Home from the Wars Parts 1, 2 & 3 (2014)の2作は、ともにテキサスを舞台とし、「アメリカの戦争と家族」に関わる物語という共通項を持つとは言え、その作劇法は異なり、示されるテーマも大きく異なるように見える。
 The Book of Graceはメキシコとの国境地帯を舞台とした、現代の家族の物語である。登場人物は国境警備隊員の父とその若い妻、そして15年ぶりに現れた先妻の息子の3人。本作は、The Public Theaterでの初演時には白人の父親と白人の妻、黒人の息子というキャストで上演されたが、翌年のZACH Theatre での上演からは全キャストが黒人に変更されている。特筆すべきは、初演時のキャストの人種により、「人種間の問題をテーマとする劇」として観客に受容されたことにParks自身が困惑し、「より深く、困難なテーマ」をもつ劇であることを際立たせるためにキャストの変更を行っていることである。一方、南北戦争を舞台とする最新作、Father Comes Home from the Wars Parts1,2 & 3では、キャストの人種はそれ自体が大きな意味を持つ。本作はギリシャ叙事詩『オデュッセイア』を枠組みとし、南北戦争から現在まで、という、南部奴隷出身のアフリカ系アメリカ人家族の物語を綴る第9部まで続くサイクル・プレイとしてParksが構想する作品群の幕開けとなる作品である。第2部の戦場の場面では、南部奴隷主の白人、その世話係としての南部奴隷の黒人、北部志願兵の「白い黒人」が登場し、人々を分断するマーカーとしての「肌の色」の意味が逆説的に問われる。
 Parksが21世紀に放つ2作について、その演劇手法を確認しつつ、それぞれが人種について「語る/語らない」ことにより射程に入れようとする諸問題を明らかにしたい。


「記憶の精確な座標」――Guillermo Verdecchia劇における転位と越境 九州大学 岡本 太助

 20世紀後半以降のアメリカ合衆国演劇史の中で、チカーノ/ラティーノが果たしてきた役割は決して小さくはない。Luis Valdezらによって創始されたチカーノ演劇は、現在もなおチカーノ・コミュニティの文化的中心であり続けており、政治的パフォーマンス・アートと啓蒙活動の両面におけるGuillermo Gomez-Penaの長年に渡る貢献は、チカーノの地位向上・意識向上を強く後押ししてきた。また、キューバ出身のMaria Irene Fornesが展開した実験演劇の試みは、エスニック演劇のみならず演劇そのものの可能性を押し拡げたが、ラティーノ劇作家によるピューリッツァー賞受賞は、2003年のNilo Cruzまで待たざるを得なかったのであり、人口比と文化における存在感に見合うだけの評価が、チカーノ/ラティーノ演劇に対して与えられてきたとは言い難い。
 近年の研究において提示されている「アメリカ文学の脱領土化」(Paul Giles)や「アメリカ文学の発見」(Caroline F. Levander)といった概念は、特定の場所と分かちがたく結びついたものとしての「アメリカ文学」を相対化し、脱構築する必要性を唱える。本発表では、まず演劇については十分に議論されていないこれらの概念を演劇研究と接続し、さらにエスニシティによって色分けされたアメリカ演劇の地図を、これらの概念を通して描き直す可能性を模索する。そこで今回は、アルゼンチン出身カナダ在住の劇作家Guillermo VerdecchiaのFronteras Americanas/American Borders (1993年初演、改訂版再演2011年)、およびAnother Country(1991年初演)とその続編とも言えるbloom(2006年初演)などの作品を題材に、グローバリゼーションという名の脱領土化、強制されるのではなく自ら望んで行う越境と転位、そしてそれらの舞台となる境界領域(borders)における演劇の生成について考えてみたい。あえてカナダやアルゼンチンといった別の場所からアメリカを眺めることで、その視差の内に浮かび上がるアメリカの姿を素描することができるのではないだろうか。


Chiori Miyagawaの戯曲にみる暴力、ジェンダー、「家族」の解体
――Woman Killerを中心に
京都学園大学 古木 圭子

 1.5世代の日系アメリカ人劇作家Chiori Miyagawaの戯曲には、過去の文学作品とのコラボレーションが多くみられる。劇作家のとしてのキャリアの出発点となった清水邦夫の『楽屋』(1977)の翻案戯曲The Dressing Room (1991)には、後の戯曲に多くみられる時空間の超越という要素が顕著である。Thousand Years Waiting (2006) では、『更級日記』の作者と現代のニューヨークに住む女性が対話を交わす場面が繰り広げられる。そしてWoman Killer (2011) は、近松門左衛門の『女殺油地獄」(1721)を現代ニューヨークに舞台を置き換えた翻案劇である。
 『女殺油地獄』の主人公与兵衛は、その放蕩三昧を家族から非難され、借金に追い詰められたあげく殺人を犯し、その制裁を受ける。一方のWoman Killerにおいては、放蕩息子は現代のブルックリンに住むClayとなり、ドラッグと娼婦Rebeccaに溺れてゆく過程で借金を重ね、一家の友人Jamesの妻Anneを金銭のために殺害する。本戯曲は殺人の場面で終幕を迎え、Clayの行く末やJamesの反応についての描写はない。さらに『女殺油地獄』とは異なり、Clayが体現する悪は他の家族にも潜んでいる要素として提示される。Clayは母Elizabethが、父の「事故死」に関与していた可能性さえ示唆している。またMiyagawaは、母、妻であることの意味を模索するAnneのセリフを創造し、その心の揺れが、借金と放蕩を重ねるClayへの同情へと変貌してゆく過程を描き、彼女とClayの結びつきを複雑化する。これらの要素を盛り込まれることで、Anneの殺害は、あらゆる人間関係に潜む罪の普遍的シンボルへと変容する。そのように考えると、国境や時空間を越える人物を創造する劇作家の試みは、親子、夫婦の関係に焦点をあてる「家族劇」に対する一つの挑戦であるとも考えられる。
 以上のような点から本発表では、Woman Killerを中心に、Miyagawaの戯曲における暴力、ジェンダー、そして、血の繋がりという意味での「家族」を解体する試みについて考察する。




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