大会報告 The American Drama Society of Japan
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第7回大会

と  き 2017年8月30日(水)・8月31日(木)
と こ ろ 広島経済大学 立町キャンパス
テーマ ジャンルを超えるアメリカ演劇

第1日 8月30日(水)

シンポジウム
劇作する小説家ヘンリー・ジェイムズ――小説と演劇のインターフェイス


司会兼パネリスト  大阪大学  貴志 雅之
パネリスト  ノートルダム清心女子大学  中村 善雄
   北九州市立大学  齊藤 園子
   京都大学  水野 尚之


 マーク・トウェイン、ウィリアム・ディーン・ハウエルズとともに、アメリカ・リアリズム文学の形成を担ったヘンリー・ジェイムズは、国際的状況のなかでヨーロッパ文化と対比・対照してアメリカとアメリカ人を精緻な心理描写によって描く心理的リアリズムを開拓した作家だった。父親の教育方針から、幼い頃より新旧二つの大陸の異文化を相対的に見るコスモポリタンのまなざしを身につけていったジェイムズは、アメリカとヨーロッパ二つの世界の劇場・演劇にも慣れ親しんで成長した。こうして育ったジェイムズが作家の目を演劇に向けたのは当然のことだったのかもしれない。
 ジェイムズが劇作に携わったのは1869年から1909年の40年間に及ぶ。この期間の大半を英国で生活していたジェイムズは習作3作を合わせ15作の演劇作品を執筆する。しかし、ジェイムズが存命中、実際にロンドンでの上演にこぎつけたのは、The American (執筆1890;初演1891)、Guy Domville (執筆1893;初演1895)、The High Bid (執筆1907;初演1908)、The Saloon (執筆1908;初演1911)の4作だった。The Complete Plays of Henry Jamesの編者レオン・エデルは、その序文で「ジェイムズは実のところ劇を書けない劇作家だった」という仮説を提示し、それ故にジェイムズは「小説の劇作家」になったと記している。エデルによれば、ジェイムズは自身の小説を「シナリオ」とみなし、「シナリオの聖なる原理」こそ「演劇と物語双方の錠前がかかった複雑な部屋を開ける鍵」と考えたようである。興味深いことに、ジェイムズの演劇作品評以上に、序文でエデルが力説しているのは、ジェイムズの小説が持つ「演劇的フィクション」と呼びうるほどの豊かな演劇性である。エデルは、ジェイムズの小説がのちに演劇や映画になったことに触れ、20世紀中葉までにはジェイムズ小説が視聴覚化され、さまざまな形態の「電子」メディアやオペラに変化したとして、多数の具体例をあげている。こうしてジェイムズの小説20作品中、12作が新たな形態に作り変えられてきたという。

(貴志 雅之)

劇作家Jamesの「誕生」――“dramatic years”以前の戯曲 ノートルダム清心女子大学 中村 善雄

 Leon EdelがHenry Jamesの創作人生の中で、1890年から95年の間を“dramatic years”と称したように、劇作家Jamesに関する研究もこの6年間に集中している。確かにこの期間の初めには、劇団支配人兼俳優であるEdward Comptonの指示により、ハッピー・エンディングにまで改変したThe Americanの戯曲版が上演された。そして、その時期の終わりには、当初から三幕物の戯曲として書かれたGuy Domvilleが上演され、その初日の舞台上でJamesが浴びたブーイングと、同日にJames自身が目の当たりにしたOscar WildeのAn Ideal Husband(1895)に対する拍手喝采という明暗が、“dramatic years”の終焉を決定づけた劇的エピソードとして良く取り上げられる。David Lodgeも皮肉とも言える書名Author, Author(2004)の中で、劇作に苦闘するこの時期のJamesとGuy Domvilleでの彼の失望を活写している。
 しかし、Jamesは幼少の頃より劇に慣れ親しみ、演劇を「最も成熟した芸術」と称し、“dramatic years”以前から劇作を試みている。Jamesの生涯の創作時期が初期/中期/後期と3つに大別されるように、彼の劇作の歴史も3つに分類されるが、1890 年以前の初期にはPyramus and Trisbe (1869)、Still Waters (1871)、A Change of Heart (1872)、Daisy Miller(1882)の、4つの戯曲が執筆されている。これらの劇作は残念ながら上演される機会に恵まれなかったが、Jamesの演劇への願望とその試行錯誤的な実践を伺い知ることが出来よう。本発表ではこの修行時代と言える期間に焦点を当て、Jamesが演劇の世界に足を踏み入れた契機と動機や、Daisy Millerの上演拒否に伴う当時の英米演劇に対するJamesの反応、及びDaisy Millerの小説版と戯曲版との比較を通じたアダプテーションの問題について触れてみたい。


喜劇のアメリカ人――The Americanの小説と劇作をめぐる葛藤 北九州市立大学 齊藤 園子

 The Americanの小説初版、ニューヨーク版、および戯曲版における「アメリカ人」表象に着目する。  小説版のThe Americanはジェイムズ初期の長編の一つであるが、晩年に編纂されたニューヨーク版(The Novels and Tales of Henry James)と呼ばれる作品選集に収められるにあたり、ジェイムズが入念に加筆・修正を施した作品として知られる。小説は最初、1876年6月から1877年5月にかけてThe Atlantic Monthlyに連載された。その雑誌掲載分が改訂されて書籍版の初版が出版されたのが1877年のことである。その後、約30年を経た後に作品は大幅に改訂され、1907年出版のニューヨーク版第二巻に収められた。The Americanはニューヨーク版に入ることはできたが、大幅な改訂を経る必要があったのである。エンディングの描写も大きく異なり、これら二版は、典型的なアメリカ人、クリストファー・ニューマンを通じて、異なる「アメリカ人」の姿を提示している。
 戯曲版はさらに異なるアメリカ人像を提示している。戯曲版は当初、The Californianという題名で発表された。発表は1891年のことで、発表年では小説の初版とニューヨーク版の間に位置する。初演は1891年1月3日、イギリスのリバプール近郊の町で行われた。戯曲版は大団円で、「四幕物の喜劇」という副題がつけられている。小説においては、ニューマンとマダム・ド・サントレの結婚は不可能であるとして断固として描かなかったジェイムズであるが、劇作ではあえて妥協したのである。小説版についてジェイムズは、ウィリアム・ディーン・ハウエルズにあてた書簡において、「我々は環境の産物であって、越えられない石の壁によって隔てられている」とし、ニューマンとマダム・ド・サントレとの間にも越え難い壁が存在するという見解を示している。本発表では、小説の二版と戯曲版におけるアメリカ人表象の揺らぎと作家の葛藤に迫ることを試みる。


座元兼役者との苦闘――The AmericanからThe High Bidまで 京都大学 水野 尚之

 劇The Americanがかろうじて成功といえる上演を続けた後、ジェイムズはGuy Domville上演までに4つの劇を書いている。しかし1890年に書かれたTenants は上演されず、翌年に書かれたThe Albumも上演されなかった。次のDisengagedについては、書き換えを求めたロンドンの劇団との交渉が決裂し、ジェイムズは劇の返却を望んでいる。(この劇は10年ほど後に、他の劇団によりニューヨークでごく短期間上演された。)そしてThe Albumより良い出来とジェイムズが自負した4作目のThe Reprobateも、結局ジェイムズの存命中に上演されることはなかった。つまり、劇The Americanの後にジェイムズが上演までこぎつけたのは、Guy Domvilleが事実上初めてだったのである。
 劇The Americanの上演以来イギリスの演劇界での成功を目指したジェイムズは、「座元兼役者」(actor-manager)という存在を相手にせねばならなかった。採算第一の座元兼役者が望むような芝居を書くべく、ジェイムズは削除の屈辱に耐え、小説を書くときには考えもしなかったハッピーエンドも用意している。そしてジェイムズは、座元兼役者のGeorge Alexanderの要求を聞き入れつつGuy Domvilleを書いた。この劇については、劇の出来そのものよりも、初演の際の事件(終演後、挨拶のために舞台に上がったジェイムズは客席から野次や冷やかしを浴びせられた)がもっぱら言及されてきた。また、この事件を契機としてジェイムズは劇の世界からふたたび小説の創作へ戻った、というのが定説である。本発表では、Guy Domvilleが上演された劇場の当時の姿やその後の変遷を(現地で撮影した写真とともに)紹介しつつ、この劇の初演時の実際の様子を、さまざまな証言をもとに考察する。
 初演の騒動にもかかわらず、Guy Domvilleは必ずしも酷評されたわけではなく、その後5週間上演されている。またジェイムズは、Guy Domvilleの経験によって(文学史でしばしば断定的に書かれているように)劇作の筆を折ったわけではなく、その後も劇を書き続けている。その中でもThe High Bid(イプセン劇の影響が見られる)は、注目に値する。斜陽のイギリス屋敷をアメリカ人が「高値」をつけて救う―この劇の元になった小説「カヴァリング・エンド邸」(“Covering End”)にかけて言えば、結末(エンド)はアメリカの富によってうまくいく(カバーされる)―という、イギリス人には微妙な展開にもかかわらず、この劇のエジンバラ公演(1908年)はおおむね好評だった。またジェイムズ初期の劇に見られた欠点(頻繁な傍白や独白)は、この劇では抑えられている。


ヘンリー・ジェイムズ、劇作の到達点とその真価――The SaloonThe Outcryをめぐって 大阪大学 貴志 雅之

 40年に及ぶ劇作活動を経て、ジェイムズはようやく独自の演劇様式を見出す。それを具体化したと考えられるのがThe Saloon (執筆1908;初演1911)とThe Outcry(執筆1909;初演1917)である。これら2作は小説の脚色による演劇創作と演劇作品の小説化、というジェイムズに特徴的なジャンル変換による作品創作のあり方を示す。しかし、それ以上に重要なことは、両作品がジェイムズ演劇の独自性と問題点を考えるうえで、バーナード・ショーやイプセンの影響も含め、テーマ、話題、内容、手法等にかかわる特徴的要素を最終的に集約した作品だという点である。
 ジェイムズ唯一の幽霊劇The Saloon は、自身の軍人家系の呪縛(霊)に命をかけて抗う主人公の意志と心の葛藤を中心に旧家をめぐる新旧の確執と戦いを描く。一方、喜劇The Outcryは、イギリス貴族所有の芸術品の扱いをめぐり、イギリス人とアメリカ人の姿を対比的に映し出す。こうした作品内容を表現する演劇様式として、ジェイムズは前者でショーの議論劇とイプセン劇の要素を合わせた演劇的リアリズム、後者では議論劇と喜劇的な話の展開を統合した「作者の才能にあった演劇ジャンル」、というジェイムズ独自の新たな演劇様式に行きついたとブレンダ・マーフィーは評している。
 本発表では、これら2作をジェイムズの劇作の二つの到達点と捉え、ショーとイプセンの要素の組み込み、作品内議論の的となる問題系と作品展開、ジェイムズ独自の演劇様式について検討する。そして、ジェイムズの劇評と比較・対照しつつ、イギリスとアメリカ両国の演劇界と演劇研究におけるジェイムズ劇の評価を考察し、イギリスに生きたコスモポリタン小説家ジェイムズの劇作を再考する。


第2日 8月31日(木)

シンポジウム
小説・演劇・映画――ウィリアム・フォークナーとジャンル横断の試み


司会兼パネリスト  九州大学  岡本 太助
パネリスト  千葉大学  山本 裕子
   西南学院大学  藤野 功一


 故郷であるミシシッピ州の架空の土地ヨクナパトーファ郡を舞台とする長篇小説群によって知られるウィリアム・フォークナー(William Faulkner, 1897-1962)だが、そのプロの作家としてのキャリアは詩作から始まっており(The Marble Faun, 1924)、その後も彼は5冊の詩集を出版している(内2冊は死後出版)。また彼は、制作されなかったものも含めれば約20本の映画脚本も書いており、さらに彼の小説を原作とする映画も考慮に入れるならば、フォークナー研究において映画の占める地位は決して軽視すべきものではないと言える。批評的・商業的な成功はともかくとして、小説以外のこれらの創作活動については、これまでも一定の研究がなされてきた。それに比して、フォークナーと演劇の関わりについての研究は圧倒的に少なく、「フォークナー」と「演劇」を結びつけて論じること自体が、フォークナー研究の(そしてアメリカ演劇研究の)常道を外れた奇想であると言っても過言ではない。しかし果たしてこれは、演劇の観点からなされるフォークナー論は不可能であるということを意味するのだろうか。むしろ、フォークナー研究とアメリカ演劇研究にとっての盲点であった「フォークナーと演劇」というテーマは、いずれの分野の研究者にとっても斬新で魅力的な研究アプローチを提供するものであると言えないだろうか。
 本シンポジウムでは、フォークナー研究者とアメリカ演劇研究者それぞれの立場から、フォークナーによる(演劇を軸とした)ジャンル横断の試みについての意見を提示し、またパネリスト間での議論を通して、研究領域横断型の研究アプローチの可能性を探る。とは言え、現在一般的に入手可能なフォークナー作の「演劇作品」はRequiem for a Nun(1951)のみである。そのため本シンポジウムでは、厳密な意味での「演劇」ではない要素についても目を向けることになるが、そうしたアクロバティックな試みの副産物として、そもそも私たちが「演劇」と呼んでいるものは何であるかを考え直す機会を提供できれば幸いである。

(岡本 太助)

A Failed Dramatist? ――初期習作からRequiem for a Nun 千葉大学 山本 裕子

 フォークナーが自身を「詩人くずれ」(a failed poet)と呼んだことは有名であるが、彼が「劇作家くずれ」でもあった事実はあまり知られていない。16歳の頃から試作に励んでいた彼は、大学在籍中に演劇クラブ「ザ・マリオネッツ」に加わり、1920年、上演されなかったものの、一幕劇The Marionettes(1975)を完成させた。2015年になって初めて出版された一幕劇“Twixt Cup and Lip”を執筆したのも、おそらく同時期であろう。フォークナーが再び戯曲と取り組むことになるのは、習作から実に30年後のことである。
 三幕劇Requiem for a Nun(1951)は、戯曲形式の小説とも呼ばれるように、戯曲と随筆と小説をあわせたジャンル混合的形式をもつ。フォークナー自身は本作品のことを、小説のなかに劇場面を組みこむ「面白い形式上の実験」であると述べた。「形式上の実験」は、習作におけるメディア混合の試みにもみられる。散文形式の戯曲The Marionettesは、フォークナー独特の字体とビアズリー風の挿絵からなる。タイプ原稿“Twixt Cup and Lip”には、挿絵はつけられていないものの、1920年前後に大学年報『オール・ミス』に掲載されたフォークナーの素描には、この作品の挿絵になりそうなペン画が数点含まれている。
 フォークナー研究において、詩の習作が注目されることはあれ、戯曲の習作が議論されることはほぼない。本発表では、数多あるフォークナー作品のうちで唯一劇作品として生前出版されたRequiem for a Nunを、初期習作におけるメディア越境の試みと関連付け、作品構造、技法、モチーフ等を比較検討する。フォークナーが、ごく初期の段階からジャンルやメディアを越境する「形式上の実験」と取り組んでいたことを示し、初期習作からRequiem for a Nunに至るフォークナーの劇作法の展開の一端を明らかにできればと思う。


主演女優Temple Drake――SanctuaryRequiem for a Nunに見る「演劇的なもの」 九州大学 岡本 太助

 フォークナー作品のなかでも特にセンセーショナルな小説とされるSanctuary(1931)において、殺人容疑で裁判にかけられた男の命を救うことのできる唯一の目撃者でありながら、保身のために偽証してしまうTemple Drakeは、南部の中上流階層特有の“odorous and omnipotent sanctity”を体現していると言える。つまり彼女は、冒険心から飛び込んだ外部の世界に恐れをなして、自分の属する社会の庇護を受けられる「サンクチュアリ」へと逃げ込むのである。その後結婚し二児の母となった彼女の子供が殺害される事件を描くRequiem for a Nun(1951)では、Templeは一転して犯人である黒人家政婦の死刑執行を食い止めようと奔走する。一見すると彼女の心中に大きな変化があったかのようだが、Sanctuaryにおいても登場人物の心理描写が極力排されていたのに加え、物語の本筋の部分が戯曲形式となっているRequiemにおいては、さらに彼女の心の動きは読み取りにくくなっている。むしろ、前者においても既に舞台で悲劇のヒロインを演じているかのごとく描写されていたTempleは、後者においてはかなり自意識的にTemple Drakeという役を演じていると言える。そしてTempleの個性が際立つのは、まさにそのように表面的なキャラクターを演じる瞬間なのである。
 本発表では、Templeの人物造形に注目しながら、SanctuaryからRequiem(さらにはその上演用戯曲版)という小説から演劇へのジャンル移行に伴い醸成される「演劇的なもの」について考察する。まず、演劇という表現形式を採用することによって、小説ではできなかった表現が模索される一方で、フォークナー小説そのものの潜在的な「演劇らしさ」が強調されもする。さらに、Requiemのテクストの半分を占める神話的な郷土史は、南部やアメリカ合衆国全体の成り立ちを一つの演劇的プロセスとして提示している。これらの点を手掛かりに、同時代の演劇作品との比較も視野に入れつつ、アメリカ演劇研究とフォークナー研究の接点を探ってみたい。


対話劇として読むAbsalom, Absalom!Intruder in the Dust 西南学院大学 藤野 功一

 フォークナーの小説は対話に満ちている。中期の傑作Absalom, Absalom!(1936)にしても、後期のほぼ最初の作品であるIntruder in the Dust(1948)にしても、どちらも重要な部分では登場人物が対話し、その語られる内容と同時に、互いの関係自体が読者の興味を引くように構成されている。そのため、読者がこれらの小説を舞台の上で演じられる対話劇として想像することも充分可能だろう。
 それでは、フォークナーの小説を対話劇として読むとき、彼の作品はどう評価できるだろうか。この問いによって、それぞれの作品の対話構造の意味を探ると同時に、フォークナーの中期における小説群と後期作品との違いも考えてみたい。まず、Absalom, Absalom!の対話構造は、小説全体の主要な語り手であるQuentinがRosaや自分の父親、あるいはハーヴァード大学の同級生でカナダ人のShreveと対話しながらSutpenとその子孫をめぐる物語を再構築するという構成をとっている。ただし、この小説全体が主に対話で構成されているにもかかわらず、奇妙なことにその最も重要な部分では、語り手が対話することを拒否して、沈黙しようとする場面が幾度もあるのが特徴だろう。いっぽう、Intruder in the Dustの登場人物たちは常に対話を続けようとする。この小説では白人を拳銃で撃ち殺したとして誤認逮捕された老黒人のLucasを白人のリンチから助けようと、白人少年のChickと彼の叔父で弁護士のGavinが活躍するが、序盤でChickがLucasのいる拘置所へ赴いて話をしようとする場面と、結末でLucasがGavinと会話する場面では、異質な者同士の対話の価値が強調されている。
 フォークナーの中期作品と後期作品における対話の描写の変化には、フォークナーの曽祖父であるW・C・フォークナー(William Clark Falkner, 1825-1889)の生涯およびその文学作品からの影響が関係している点も見逃せない。この要素も視野に入れながら、ふたつのフォークナー作品の対話劇としての評価を考えてみたい。




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