大会報告 The American Drama Society of Japan
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第8回大会

と  き 2018年8月25日(土)・8月26日(日)
と こ ろ HOTEL ルブラ王山
テーマ エドワード・オールビー研究

第1日 8月25日(土)

研究発表 司会: 愛知学院大学 藤田 淳志

1.オールビー劇と動物――The Zoo Storyにみる疎外する社会と孤独 大阪大学(院) 西村瑠里子

 The Zoo Story (1959)をもってEdward Albeeは不条理演劇の旗手としてアメリカ演劇の世界において鮮烈なデビューを果たした。一作目でありながら、そのモチーフや問題意識のなかには後の作品にも通ずるものが見受けられる。また、晩年、“Homelife” (2004)というPeterについて描かれた第一幕が足され、At Home at the Zoo (2009)としてThe Zoo Storyが再び書かれたことからも、本作の持つ重要性がうかがえる。
 本作は、「動物園に行ってきたんだ」というJerryのPeterへの唐突なセリフで始まる。Peterは、出版社に勤め、家庭を持ち、社会規範に従って生きるごく一般的なアメリカの中産階級の男だ。一方、JerryはPeterとは対照的に、社会の底辺層をあらわすようなアパートで独り暮らす、社会から疎外され、孤独にさいなまれる存在である。Jerryとの会話に巻き込まれ、Peterは次第に、それまで意識することすらなかった問題を認識することになる。
 本発表では、作中に散見される動物描写に着目し、Albee劇における動物表象について考える。まず、Jerryとアパートの犬および住人たちとの関係に注目し、Jerryがいかに社会から疎外され、どのような闇を抱えているのかを分析する。ここで、Albeeの動物に対する見解において人間もまた一種の動物としてとらえられていることを考慮する。The Zoo StoryAt Home at the ZooにおけるPeterに注目し、動物や家族に対する彼の関わり方を分析することにより、Peterの人間性や問題点を浮かび上がらせる。最後に、Jerryの語る動物園での物語そしてエンディングに改めて注目し、まとめとしてThe Zoo Storyにおける「動物園」の意味を再考することを試みたい。

2.Death of a Salesmanとニューヨークの自然 福岡工業大学短期大学部(非) 岡裏 浩美

 Arthur MillerのDeath of a Salesman(1949年)において、自らの命を懸けてまで金銭的な成功を確立しようとする主人公Willy Lomanは、アメリカ社会に蔓延する成功神話や、50年代の大量生産消費社会と結びつけて論じられることが多い。しかし、本発表では、Willyを、彼の暮らす自宅周辺(自宅のあるブルックリンと対岸のマンハッタン)の自然環境とその変化に関連付けて考察していく。人里離れた緑あふれる西部や中西部の森や荒野を扱った作品とは異なり、大都市ニューヨークを舞台にした本作品では、その自然環境が注目されることは少ない。しかしながら、幕開け早々、疲れて帰宅したWillyが熱く語る、郊外や自宅周辺の昔の自然を懐かしむ台詞に始まり、自殺間際の必死の種まきシーンに至るまで、一貫して、Willyには金銭的な成功とともに、緑豊かな自然に対する執着も強いことが顕著に示される。
 こうしたWillyの自然に対する視座は、例えば、憧れの兄Benが確立したアナクロニスティックな西部開拓時代の成功神話と結び付けられ、自然やその資源を自由に搾取する人間中心の自然観を強調しているかに見える。あるいは、引退後の田舎生活を夢見るWillyには、西部の牧場を転々とする息子Biffへも継承される、都市や支配的な文化から離れた牧歌的生活への憧れ(パストラリズム)の側面も感じる。しかしながら、本発表では、Willyが固執する自然とは、単に緑豊かな不特定の自然環境ではなく、あくまでも自らが居住し所属するニューヨークという、「場所の感覚」を伴った自然観であることに注目する。
 高層化や都市化に伴う人口増加、大量消費社会や郊外化の中で変わりゆくニューヨークと、その自然環境との関係性の中で改めてWillyを考察することで、大都市を舞台とし、また、戦後の好景気に沸くアメリカ経済が拡大へと邁進する中で描かれた作品であっても、既に人間と自然とを同じ生態系の枠組みの中で捉え、自然(環境)破壊を批判するエコクリティシズム的な視座が読み取れることを分析していく。


第2日 8月26日(日)

シンポジウム
Edward Albeeの詩学


司会兼パネリスト  九州大学  岡本 太助
パネリスト  大阪大学(院)  村上 陽香
   大阪大学  森本 道孝
   大阪大学  貴志 雅之


 2016年9月16日に88年の天寿を全うしたEdward Albeeは、あらゆる意味においてアメリカ演劇を代表する偉大な劇作家の一人であった。生後わずか二週間で裕福な劇場経営者夫婦の養子となったAlbeeだが、一生の終わりに際しても、死の直前まで未完に終わる戯曲の執筆を続けていたという。言うなればAlbeeはその生涯を通じて常に演劇とともにあったのであり、演劇こそがAlbeeの人生であったのである。作家の死後もAlbeeの人気は衰えを知らず、2018年にもThree Tall Womenのブロードウェイ公演が予定されている。また、2017年には代表的研究者であるMatthew Roudanéによる書下ろしの解説書が出版されるなど、作家の死により一応の完結をみたAlbeeの人生と創作活動に関する学術研究も勢いを増している。本学会においても、その前身である全国アメリカ演劇研究者会議時代から数えて、これまで二度大会での特集企画が組まれており、また学会誌『アメリカ演劇』の記念すべき第1号は、他でもないAlbee特集号であった。Albee研究をめぐる近年の動向をふまえ、また学会の伝統を引き継ぎつつも、本シンポジウムではあえて、「Edward Albeeの詩学」という、これまで大きく取り上げられることのなかったテーマに挑んでみたい。
 The Cambridge Companion to Edward Albeeの序文でStephen Bottomsが指摘するように、Albeeはこれぞという一つの特徴に集約して説明することの難しい、多面的な劇作家である。例えば、一方では常にショッキングな作品を発表しては観客や批評家の我慢の限界を試す異端児Albeeは、他方でアメリカ演劇のメインストリームであるブロードウェイを主戦場として活動を続けてきた、言わばエスタブリッシュメント側に属する作家でもある。Samuel Beckettからの影響が色濃い不条理劇や寓意劇などを得意とする反面、Albeeの代表作の多くはアメリカの中流家庭を題材とするリアリズム劇である。古典文学や大衆文化への言及を随所に散りばめ、観客と読者にも一定の知的洗練を要求する一方で、スラップスティック的なアクションやダジャレに近い言葉遊びを矢継ぎ早に繰り出しもする。捉えどころのない作家といえばそれまでだが、これまでの批評研究の主眼は、カウンターカルチャーとの親和性や左翼的な思想の傾きなどに着目するAlbee劇の政治的読解にあったと言える。これは、同時代的にAlbeeに接してきた批評家の政治的無意識の所産であるとも考えられるが、作家の手を離れた作品がひとり歩きをはじめ、Albeeの劇作の全体像を俯瞰で見ることが可能になった現在においては、それがどのように書かれ上演されるのかというドラマツルギーの問題がにわかに重要性を帯びてきている。本シンポジウムは、各パネリストがそれぞれ異なる視点からAlbeeの劇作法を読み解き、全体として「Edward Albeeの詩学」のほんの一端を明らかにしようという、ささやかながら意欲的な試みである。

(岡本 太助)

解体による構築――Three Tall Womenから見るEdward Albeeの自伝劇執筆 大阪大学(院) 村上 陽香

 生後18日で養子となったEdward Albeeは、終ぞ養父母と良好な関係を築くことは出来なかった。家族関係はAlbeeの劇作に大いに影響を与え、特に折り合いの悪かった養母Francesを思わせる高圧的な人物は複数の作品に登場している。中でも、Albeeにとって最も自伝的な作品と位置付けられるThree Tall Women (1991)では、Francesは主題として直接的に扱われている。
 本作の登場人物A、B、Cは、同じ女性の92歳、52歳、26歳の姿であると二幕で発覚する。生涯における三つの段階にいる同一人物が舞台上に共存し、一人の女性の人生を映し出す。この女性こそ、Albeeの養母である。彼女の死後執筆された本作は、作者曰く、よく知った題材である養母について極力客観的に捉えるためのものであった。
 別年齢の同一人物がそれぞれの視点から語る二幕とは違い、リアリズム的に設定された一幕ではA、B、Cがそれぞれ別人として登場していることは注目に値する。一幕のAは記憶の保持も身体制御も儘ならず、自分が衰えていくことを酷く恐れている様子を見せる。ガラスが割られる描写や身体損傷の話題が登場し、完全形であった物が解体されるイメージが浮上する。Albeeは養母について、晩年は心身ともに衰弱が激しかったが、その状況においても強くあろうとして自分に残されたものに何とかしがみつこうとしていた様子に感銘を受けたと語った。壊れていく自分に怯える姿、そして怯える自分を客観視する姿を、Albeeは自らの手で養母を三年代に解体することで描き出したと言えるだろう。
 作中に散りばめられたエピソードの多くは、Albeeが実際に見聞きしたFrancesに纏わる実話を元に作られた。しかし一方で、本作執筆中のAlbeeは、自分が養母について書いているのではなく、登場人物を作り出しているのだと感じていたという。執筆の過程で養母を解体したAlbeeは、養母だけではなく、彼女の視点から見た自分や、彼女を題材として扱う自分にも目を向けることになっただろう。本発表では、一幕に登場するエピソードや、二幕の舞台設定を分析しつつ、Albeeによる自伝劇執筆について考察したい。


つぎはぎの声――Edward Albee作品に見る生と死を奏でる音楽の効果 大阪大学 森本 道孝

 Edward Albeeの演劇作品における重要なテーマの一つに「生と死」が挙げられる。この深遠なテーマを扱う際に、Albeeは様々な実験的劇作法を駆使している。中でも音楽の構成の取入れや、声の扱い方にその手腕が発揮される。
 Quotations from Chairman Mao Tse-Tung (1968)の創作にあたって、Albeeは登場人物それぞれの語りを別々の紙に記載し、それらを適当に区切ったうえでランダムに組み合わせるという実験的手法を用いており、作中では会話らしきものは断片的に展開し、その接続は頼りないものとなっている。また、これと切り離せない作品と位置づけられているBox (1968)冒頭の空洞の箱から聞こえる「声」は会場のあちこちから聞こえる設定とされ、およそ10分にわたる登場人物不在の空間を、観客は聴覚のみで捉えることを余儀なくされる。このようなシーンが劇中で幾度か繰り返されるため、観客は断片をつぎはぎしながら状況を理解していくしかない。「声」に関わる作品として、ラジオドラマとしての依頼から執筆されたListening (1975) でも、数をカウントする正体不明の「声」が登場し、相手に話を聞いてもらえないことに対する不満を明かす会話が展開し、「声」が「終わり」を告げる。ここでも、身体とは切り離された「声」そのものの存在の大きさが際立つ。
 断片的な「声」に対して、たとえばAll Over (1971)では、臨終に際しての周囲の人々の会話が、それ以前の彼の作品に比べ、リアルで緻密な構成で自然な響きを持つものとして描かれる。共通の話題を軸にスムーズに展開しているように見えるが、そこで語られるのは老人たちによる「死」や死に方を巡る話であり、家族ではなく、愛人の家での死を選ぶ人物から見えてくるのは、後を継ぐはずの子供たちも家族を持たない先行きの不透明な家族像でしかなく、作品は医者による「終わり・臨終(all over)」という「声」で締めくくられる。
 本発表では、以上のような音楽や声に纏わる実験的手法の中に見えるコミュニケーションの成否をめぐるAlbee独自の劇作法や描写方法について考えてみたい。


ポストヒューマン・エコロジーに向けて――Seascapeにおける種間遭遇 大阪大学 貴志 雅之

 人間と英語を話す海トカゲ、二組の夫婦が海辺で出会い、交流する。数あるオールビー作品のなかにあって、1975年初演、ピューリッツァー賞受賞作Seascapeが放つ際立った特徴である。本作において、人間夫婦と海トカゲ夫婦との遭遇とコミュニケーションに見られるのは、ヒューマンとノンヒューマンの相互関連性である。しかし、これまでの批評の多くは、人間中心的(anthropocentric)前提にたった分析・解釈に終始し、人間と海トカゲ夫婦との遭遇は人間にかかわる関心事(愛、夫婦生活、出産、加齢、老後、冒険、あるいは人間に至る進化プロセスなど)を表す寓話的テクストに還元される傾向にあった。こうした本作をめぐる批評動向に対し、近年、エコクリティシズムからヒューマンとノンヒューマンの関係性に着目したポスト人間中心主義的(post-anthropocentric)立場に立った新たな研究成果が発表されるようになってきた。
 一方、ポストヒューマニズムは、人間を頂点とした生物のヒエラルキー・モデルという人文科学の基本前提に対する異議と、ヒューマンとノンヒューマンとの関係性、異種生物(存在)間の種間関係/コミュニケーション(interspecies relationships/communication)の認識と提唱および新たな種間関係構築を目指すという点でエコクリティシズムと重なる問題意識を持つ。
 本発表では、ポストヒューマニズムとエコクリティシズムを理論的参照項に、Seascape における人間夫婦と海トカゲ夫婦との遭遇と交流のあり方、そして舞台となる海辺というドメインの特殊性を再検討し、本作当初のタイトルであった“Life”に込められたオールビーの生命観・世界観を探る。それにより、オールビー作品に底流する詩学の一端を明らかにできればと思う。


Edward Albeeの家族ゲーム――演劇的イリュージョンとしてのホーム 九州大学 岡本 太助

 Edward Albeeの代表作Who's Afraid of Virginia Woolf? 第三幕中の印象的な一節、“Truth and illusion. Who knows the difference, eh, toots?”がいみじくも示すように、GeorgeとMarthaが興じる「家族ゲーム」は、現実と虚構、嘘と誠の境界のあいまいさの上にかろうじて成立している。さらに、この劇のメタシアトリカルな性質を考慮に入れるならば、イリュージョンやゲームというものは、少なくともAlbeeにとっては、演劇そのものの欠かすべからざる構成要素でさえある。あるいはこれを少し異なる角度から見ると、同作をはじめとして多くのAlbee劇の主題となる夫婦関係の維持は、劇そのものの成立と不可分であるし、また劇中のアクションが行われる家庭(ホーム)の空間と舞台上に組まれた家屋のセットとのあいだに線引きをすることも容易ではないと言える。つまりこれは演劇的イリュージョンとして作り出されるホームである。なぜAlbeeがこうしたイリュージョンを多用するのかということも(特にAlbee劇におけるpoliticsを理解するためには)重要な問題ではあるが、本発表ではむしろ、この「ホーム」がどのように組み立てられているかに着目し、空間の詩学ならぬ場所の詩学(poetics)とも呼ぶべきAlbeeのドラマツルギーを浮き彫りにしたい。
 具体的にはWho's Afraid of Virginia Woolf?The American DreamA Delicate BalanceMarriage PlayThe Play About the BabyThe Goat, or, Who Is Sylvia? 、さらにThe Zoo Storyの「第一幕」として2004年に発表された“Homelife”などを比較検討する。議論の補助線として、演出家としてのAlbeeの活動に密着取材したRakesh H. SolomonのAlbee in Performance、自然主義以降の演劇における家屋セットについて論じるNicholas GreneのHome on the Stage、その他演劇における場所や空間に関する古今の研究を参照しつつ、上述した「場所の詩学」の理論的な定義を試みる。また時間がゆるせば、Victor Turnerの言う「遊びの真剣さ(seriousness of play)」等を手掛かりに、Albee劇におけるゲームの機能を再検討し、間テクスト性やパロディの観点からも劇の構造を分析する。これらの議論を通して、Albee劇が実は劇を「見る」ことをめぐる寓話、すなわち「見ることのアレゴリー」であることを明らかにできればと思う。




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