大会報告

全国アメリカ演劇研究者会議 第20回

と  き 2003年6月28日(土)・29日(日)
と こ ろ 東京弥生会館 (〒113-0031 東京都文京区根津2-1-14)
テーマ トニー・クシュナー研究

第1日 6月28日(土)

研究発表

司会  若山  浩(愛知学院大学)

1.越境と接続 ― Angels in Americaにおけるファンタジア

岡本 太助(大阪外国語大学 院生)

 Tony Kushnerの大作Angels in America: A Gay Fantasia on National Themesにおいては、現代アメリカの無意識を支配する排除と抑圧の論理を超越したところに形成されるべき、まだ見ぬ新たな共同体の可能性が模索される。しかしその共同体の具体的ヴィジョンは、物語の内容のレベルにおいては明確に示されないままである。つまりここでは、アメリカ社会を分断する様々な境界(性差、セクシュアリティ、人種、宗教、イデオロギー)を、いかにして乗り越えていくことができるのか(あるいはできないのか)については、十分な回答が与えられていないといえる。したがって我々は、作品の形式のなかにヒントを求めなければならない。具体的にいえば、なぜ「ファンタジア」でなければならないかと問う必要がある。今発表では、「ファンタジア」が、人間たちがこれらの境界を越えて相互に干渉し「接続」していくことを可能にする装置であることを明らかにし、そこから導かれる共同体の可能性について考えてみたい。検証にあたっては、Angels in Americaの高度な演劇性に着目し、虚構であることを自ら暴露してしまうブレヒト的な構造のなかに、あえて観客を幻惑するような非現実的スペクタクルを導入することの必然性についても言及することになるだろう。

2.Angels in Americaにおけるクィア・ポリティクスの提示 ― ロイ・コーンのピンクリスティングと許し

藤田 淳志(名古屋大学 院生)

 1993年ブロードウェイで上演されたこの作品は、副題に「ゲイ・ファンタジア」とあるようにゲイ作家による、ゲイが主要な登場人物の多くを占める作品でありながら、政治や宗教や人種といった問題を含む「国家的テーマ」を扱い、トニー賞(第一部、二部共)やピューリッツァー賞(第一部)を受賞するなど幅広い支持を受けた。作品中実名で登場するロイ・コーンは、1950年代初めマッカーシーの右腕として赤狩りを指揮し、その後も法曹界の黒幕的存在として活躍した実在の人物がモデルとなっている。コーンを史実に基づいて批判的に描くことは、この作品の大きなテーマの一つであるエイズの爆発的な流行を引き起こすことになった政治への批判へとつながる。
 しかしAngelsにおいてコーンは史実に基づき悪のイメージで描かれる一方で、同情的に描かれ許されているということもできる。作者クシュナーがコーンを作品に登場させ、許しを与えているのはなぜか。「おれは男とファックするヘテロだ」と主張するコーンのアイデンティティの問題をきっかけとし、クィア理論を参照しながら読み解いていくことで、この作品に表されたエイズ以降のゲイによる新しい政治、クィア・ポリティクスについて考えてみたい。


第2日 6月29日(日)

シンポジウム 「Angels in America: A Gay Fantasia on National Themes. (Part One: Millennium Approaches. Part Two: Perestroika) を読む」

司会・パネリスト 長田 光展 (中央大学)
パネリスト 谷 佐保子 (早稲田大学 非常勤)
  古木 圭子 (京都学園大学)
  貴志 雅之 (大阪外国語大学)

 Tony Kushner(1956~)を取り上げることになったが、この作家をテーマとするには、いささか時期尚早のきらいがないでもなかった。現在47歳、50にも満たない上に、彼の名声を支えているのは、わずかにAngels in America(I、II)にすぎないからだ。これに先立つ作品としては、A Bright Room Called Day (1985) があるだけ。いや、正確には2作。他の一作は、作品集Death & Taxes (2000, TCG)にその後の作品とあわせて収録されたHydriotaphia or The Death of Dr.Browne (1987)である。しかしこれについては作者自身が「ジョークを書く勉強のための速成コース」と解説しているほどだから、何処まで彼の本命であったかは怪しい。同書に収められているその他の作品は、すべてが小品、かつ習作・模索の域を出ず、とてもAngels後の彼の名声を追認させるものとは思えない。同書に寄せた作者の前書もその事実を明らかにしているようだ。これらの作品は、「Angels in America に続く多幕劇を書く勇気を奮い起こすまでの」ウォーミーグアップにすぎないのだ。この作品集以降の見るべき多幕劇と言えば、Slavs (1994), Homebody/Kabul (2001)だけだが、これらとて、模索途上の試作品であることは否めない。
 赫赫たる受賞歴に対するこの実態はどうしたのだろう。批評家たちがたぶらかされたのか、それとも見るべきそれなりのものを見ての評価だったのか。彼の作品に一つの系列を見てとするなら、それは、A Bright Day――Slavs――Homebody/Kabulの系列、つまり「歴史」と「ノンフィクションドラマ」の系列だろう。作者は限りなく細密に歴史そのものを再現し、あるいは追憶することから歴史的意味を掘り起こす試みをする。その際、作者の「左翼的政治観」「ゲイの主張」「政治的行動主義」「楽天的進歩主義」(Angels ,part2 あとがき)が歴史観を色づける重要な要素となるのだが、もう一つ、それを複雑にし、あるいは、曖昧にするものが、彼の限りないレトリックへの執着と愛着である。Logorrhea(支離滅裂な病的饒舌)、Synchysis(文の意味が不明瞭になるような語の混乱した配列)、Amphibology(曖昧語法のために二つ以上の解釈が可能な文・句)などは、彼自身が多用する修辞学用語である。方言を勝手に作り出したHydriotaphia以来の関心事だが、修辞学への偏愛が単なる韜晦以外の意味を持つのか持たないのか、これさえ、Kushnerの現在からは確定できない。
 これほどまでに曖昧ならば、Angels in Americaを改めて多面的多角的に読み直してみるのも意味があるだろう。作品の解釈を始め、他の同性愛作家、同時代作家との歴史観や文明観の異同、死と再生パタンの異同など、報告者たちの限りない想像力を期待したい。  (長田 光展)