大会報告

全国アメリカ演劇研究者会議 第23回

と  き 2006年6月24日(土)・25日(日)
と こ ろ グリーンヒルホテル神戸(〒650-0001 兵庫県神戸市中央区加納町2丁目8-3)
テーマ エドワード・オルビー研究

第1日 6月24日(土)

研究発表

司会  中央大学  黒田 絵美子

1.The Death of Bessie Smith 再考 ― 人間社会の光と影

駒澤大学(非常勤)  依田 里花

 1960年の4月に当時の西ベルリンで初演された『ベシー・スミスの死』は、黒人のブルースの女王に起きた実話が元になっているが、この作品を再考するにあたり、やはり興味深いのは、オールビーが1960年という時代に、1937年という過去の具体的な事件を見つめて作品を書いた点にある。その背景に、50年代後半から激しさを増していったアメリカ合衆国の人種問題があるのは言うまでもないが、劇中で繰り返される “promise” という言葉に表されるように、「社会的かつ政治的発展」を促そうとするオールビーの、「自明の真理」を謳う社会への本質的な問いかけが、この作品の根底にあるように思われる。そのような社会で、おそらくは誰もが憧れ手に入れたいと切望する「アメリカの夢」は、そもそも本当に実現するのであろうか。はかなく消えていったベシー・スミスの死はまさに象徴的な実例である。現実社会の不合理そのものが描かれているこの作品には、特定の時代や地域や人種といった分類で片付けられない日常性があり、そこに、現代に通ずる人間社会の光と影が浮かび上がる。初演からおよそ46年を経た2006年の5月に日本で、『ベシー・スミスの死』は上演されるが、時を超え国境を超えて上演された8場という短編の1幕劇に、どのような普遍性があるのか。また、この初期の作品にどのようなオールビー作品のエッセンスが見られるのか。人間社会の光と影という視点から考察してみたいと思う。

2.“Notes Toward a Definition of Tragedy” ― The Goatが提示する現代の悲劇

愛知学院大学  藤田 淳志

 2002年ブロードウエイで公開されたThe Goat or, Who is Sylvia? はトニー賞、ドラマデスク賞などを受賞し、大きな話題を呼んだ。この作品が注目を集めた原因のひとつはそのセンセーショナルなテーマにある。タイトルの山羊は成功し安定した人生を送る中年の主人公が恋に落ちる相手である。オルビーが観客の寛容の限界を試すためにこの作品を執筆したと言っているように、このテーマは論争を呼ぶことを狙って意図的に選ばれている。
 保守層を怒りで震え上がらせそうなこのテーマはしかしながら仮面に過ぎない。物語の本筋は成功した建築家である主人公が突然山羊と恋に落ちることと、それによって動揺する夫婦関係にある。しかし山羊の存在は常に登場人物たちの会話の中心にあるにもかかわらずリアリティを持たない。
 オルビーの生い立ちやこの作品についての言及にも触れ、The Goatは伝統的家族劇という枠組みを利用し、同性愛、さらには小児性愛など性タブーを囲い込んで差別する異性愛主義をパロディ化していることを論じる。
 この作品がパロディ化しているのは異性愛主義ばかりではない。スクリプトとなって初めて”Notes Toward a Definition of Tragedy”という副題が加えられた。このサブタイトルがまず示すのはジャンルとしての悲劇の不可能性である。
 そして最終的に問題となるのは、オルビーの言う観客の寛容度の限界である。この作品は自分をリベラルだと思い込んでいるブロードウエイの観客に一撃を食らわす。結局のところこの悲劇とは、リベラルな価値観を持っていると信じ込んでいる観客、現代人の悲劇となる。


第2日 6月25日(日)

シンポジウム
「世紀転換期のEdward Albee  ― Three Tall Women とThe Goat, or Who is Sylvia? を中心に」

司会  大阪外国語大学  貴志 雅之
パネリスト  京都学園大学  古木 圭子
   黒川 欣映
   神戸大学  山本 秀行
   東京家政大学  原  恵理子

貴志 雅之

 Edward Albeeの80年代低迷・迷走期からの脱却と90年代復活を印象付けた1994年度ピューリッツァー賞受賞作品Three Tall Women (1991)。そして、21世紀の新展開を表象する2002年度トニー賞受賞作品The Goat, or Who is Sylvia? (2002)。これら2作は、20世紀から21世紀に至る世紀転換期のAlbee演劇のあり方を検証する上で有効かつ象徴的な作品だと言える。
 本シンポジウムでは、両作品を、衝撃的デビュー作The Zoo Story (1959) 以降のAlbee 20世紀作品群の再考・再評価と、21世紀におけるAlbeeの新たな方向性、テーマ・問題意識の連続性と変化の考察・検証をする上で、最重要作品と位置づける。そして、この立場から、Three Tall WomenThe Goat, or Who is Sylvia? を中心に、2つの世紀を横断するAlbeeの演劇とそこに表象される「アメリカ」の姿を検討しつつ、多様な読みの可能性を提示し、相互に議論を展開しながら、Albee研究の新たな出発点にできればと考えている。

The Three Tall Women, The Goatにおける「仮面」と「ダミー」の劇的効果

古木 圭子

 Peter Hallは、「恐怖」や「暴力」が舞台外で起こり、観客の想像力をかきたてることも演劇の「仮面」としての機能であり、それらを舞台で直接提示することは、「演劇としての効力」を弱めると述べている。The Three Tall Womenの第2幕においては、Aの”life mask”として病の床に臥す”A”の傍らで、肉体を離れたAがBとCに語りかけ、死や病への恐怖感を揶揄する。The Goatの終幕でStevieが舞台に運ぶヤギの「死体」は、MartinやStevieの悲壮感を弱めている。”A”もThe Goatの「死体」も「ダミー」であるとすると、これらは劇的効果を「弱める」「仮面」として捉えることもできる。しかしAlbeeは、The Three Tall Women, The Goatにおいて、「仮面」や「ダミー」を敢えて直接提示し、観客の想像力に制限を加えることで、逆説的に、演劇における「仮面」の定義の拡張を試みているのではないだろうか。以上の点から、これらの作品が内包する「仮面」と「ダミー」について論を展開したい。

現実をいかに乗り超えるか

黒川 欣映

 Three Tall Womenでは、第一幕において登場人物A,B,Cの人物配置を観客に確認させ、それを前提として、第二幕では三人の存在を時間的に垂直に捉え、人生の真実を直截的に提示する。The Goat, or, Who Is Sylvia? では、The Zoo Storyにおける“The Story of Jerry and the Dog”で予知させるような、人間と人間以外の他者とのつながりを日常の中に持ち込むことによって、相互理解不能という悲劇的状況を現出させる。いずれも現実をいかに乗り超えるかという作者の試みである。

90年代以降の多文化主義的アメリカにおけるAlbeeの「反=家族劇」

山本 秀行

 アメリカ演劇史において、Eugene O’Neill, Desire Under the Elm、Arthur Miller, Death of a Salesmanなど、父と子の葛藤に焦点をあてた家族劇(リアリズム・悲劇)は数多い。その一方で、Edward Albeeは、Who’s Afraid of Virginia Woolf?(1962年初演)以来、家族の問題を扱っているものの反リアリズム・反悲劇という、アメリカの伝統的家族劇とは一線を画した「反=家族劇」に取り組んでいる。90年代以降、Albeeが、Three Tall Women (1991年初演)、The Play About the Baby (1998年初演)、The Goat, or Who is Sylvia? (2002年初演)という「反=家族劇」を次々に書き、80年代までの長い不振を脱したことは興味深い。本発表では、90年代以降のアメリカにおけるジェンダー・セクシュアリティ意識の変化、家族像の多様化など、多文化主義的時代の流れと相俟って再生されたAlbeeの「反=家族劇」の演劇的ストラテジーについて考察したい。

Edward Albeeの語る<アメリカ>―愛、記憶、身体

原 恵理子

 Edward Albeeが<アメリカ>の「最後の偉大な劇作家」と呼ばれてきたのはなぜか。本発表では、半世紀にわたり、演劇人として精力的な活動をし、現在も劇作にたずさわるAlbeeの創造の源に迫りたい。 Albee劇における一貫したテーマのひとつは「愛」である。興味深いことに、Three Tall Women(1991)とThe Goat, or Who is Sylvia? (2002)の両作品は、「死」という問題をとおして、身体と真の「愛」の意味について探求し、これまでAlbeeが描いてきた「愛」のテーマを深化させている。作品における愛の記憶がいかに身体の記憶と深く関わるのかに注目することで、Three Tall WomenThe Goat, or Who is Sylvia? が、世紀転換期における<アメリカ>の市民社会やネイションをどのように表象しているのかを読み解きたい。