大会報告

全国アメリカ演劇研究者会議 第24回

と  き 2007年6月30日(土)・7月1日(日)
と こ ろ 名古屋丸の内東急イン(〒460-0002 愛知県名古屋市中区丸の内2丁目17番18号)
テーマ テレンス・マクナリー研究

第1日 6月30日(土)

司会: 東京家政大学  原 恵理子

研究発表

1.A Perfect Ganeshに見るアメリカという地軸

大阪外国語大学(院)  森  瑞樹

 Terrence McNallyのA Perfect Ganesh(1993)は、2人のアメリカ人女性、KatharineとMargaretが2週間のインド旅行へ行く物語で、そこには、「罪」と「罰」、「死」のメタファーが混在し、神界、霊界、現世が複雑に絡み合い、交錯するという反リアリズム劇の形式を成している。
 2人のアメリカ人女性がインドという異空間に身を置くことにより浮上し、可視化される様々な「罪」と、それに対する救済の渇望は、神界でおきた家父長(Shiva)に対抗するフェミニズム(Parvati) が産み出した対抗言説でもありスケープ・ゴートでもあるGanesha誕生と再生の物語という骨子の、現世における入れ子的な変相と捉えてもよいだろう。
 本発表では、作中で展開される様々な物語のパラダイムを一つの「アメリカ」の形態として捉えていく。そしてさらには、「アメリカ」の価値体系で回転している現代性を臨みたい。

2.Corpus Christiにみる「アメリカ」

お茶水女子大(院)  佐藤 里野

 本発表では、マクナリー随一の、そして1998年のニューヨーク演劇界においても最大級の議論を巻き起こした「問題作」とされるCorpus Christiを取り上げる。キリストの受難劇を、現代アメリカに置き換えたこの作品は、イエス・キリスト、及びその使徒たちをゲイとして描いており、彼らを取り巻くホモフォビックな社会が、キリストの受難とパラレルになっている。宗教上もっとも普遍的な物語であるこの受難劇が、ゲイ・シアターで語り直されるということがセンセーショナルであることを除けば、作品自体は構造的にも内容的にも極めて単純なものと言える。しかし、この Corpus Christiの上演及び受容にまつわる当時(90年代後半)の状況は、作品を越えた複雑なテクストを描き出す。そこに見られるのは、当時の「アメリカ」における宗教・セクシュアリティに関する多様なイデオロギーのせめぎあいであり、また、言論の自由や表現の在り方をめぐって交錯する複雑な権力関係である。
 発表では、上演と受容のコンテクストを含んだテクストとしてCorpus Christiを分析し、「アメリカ」が内包する分裂が、そこでいかに表象されているかを検証する。また同時に、90年代ニューヨークにおける主流演劇というサイトにおいて、ゲイ・シアターがどのようにしてメインストリームに取り込まれていったのかを批判的に考察し、舞台芸術における政治と矛盾の問題を検討する。そしてここで見られる分裂や矛盾が、続く時代にどのような問題を投げかけているのかを考えていく。同時代の実験演劇や、批評理論の動向にも、参照項として言及していく。

3.Lips Together, Teeth Apart
 ―ゲイの登場しない「ゲイ演劇」が示すホモフォビア

愛知学院大学  藤田 淳志

 1991年公開のLips Together, Teeth Apartは、ニューヨーク郊外のリゾート地で休暇を過ごすサムとサリー、ジョンとクロエ、二組の夫婦を描いたコメディである。しかしこの要約は作品の内容を十分に伝えていない。本発表はこの作品がホモフォビアをテーマとした「ゲイ演劇」であると捉えるところから出発する。エイズにも関わるホモフォビアが中心テーマでありながら、この作品にゲイやエイズ患者は一人も登場しない。それにもかかわらずこの作品は「ゲイ演劇」の持つ要素にあふれていることに注目する。
 ゲイが集まるリゾート地というマジョリティ/マイノリティが逆転した状況の中で、ゲイやエイズの存在は、しばしば登場人物たちが話しかけたり話しかけられたりする隣人たちや、このコテージを遺してエイズ関連症で死んだサリーの弟への言及によって示され、また「エイズに汚染された」水を湛えるプール、おぼれる身元不明の青年などによって暗示される。コメディとして常に観客を笑わせながらも、4人の登場人物たちの抱えるホモフォビアが辛らつに描かれていく。
 同じマクナリーによる94年公開のLove! Volour! Compassion! もエイズやホモフォビアがテーマになっているが、登場人物はすべてゲイである。ほかの劇作家による同様のテーマを扱う作品でもゲイやエイズ患者が登場しない作品は極めてまれである。この特異性に着目しながらLips Togetherの政治性について考えるのが本発表の目的となる。どうしてゲイが登場しないのか、あるいはゲイが登場しないことでどのような効果が生まれているのかを考察する。


第2日 7月1日(日)

シンポジウム
「Terrence McNallyの譲れないもの ― 芸術観、愛、人生観」

司会兼パネリスト  中央大学  黒田 絵美子
パネリスト  都留文科大学  竹島 達也
   大阪外国語大学(非常勤)  岡本 淳子
   駒沢大学(非常勤)  依田 里花

Master Classに描かれた芸術家の姿勢

黒田 絵美子

 Terrence McNallyの主人公たちは、一様に愛や芸術、ひいては生きる姿勢において執拗なこだわり、「譲れない部分」を主張する。それは、とりもなおさず作者マクナリー自身の譲れない部分である。本シンポジウムでは、McNallyの登場人物たちがこだわりを見せる「譲れない部分」に着目し、これを精査することで見えてくる作者の人間観を検証する。
 黒田は、1996年にトニー賞を受賞しているMaster Class(1995)を中心にその作劇手法とテーマを分析していく。ジュリアード音楽院で後進の指導をしたマリア・カラスについての緻密な取材をもとに彼女の孤独や苦悩、芸術観を描いて見せ、そこに作者McNally自身の人生観や芸術観を重ね合わせていくMaster Classの巧みな構成と、ユーモアあふれるコミカルな会話という独特の劇作手法についても分析する。

テレンス・マクナリーの劇作品から見る“Gay Community”

竹島 達也

 20世紀後半のアメリカ史やアメリカ社会における、同性愛者を巡る諸相や諸局面を自らの劇作品の中に投影してきたテレンス・マクナリーのゲイ作家としての側面を探求することを主たる目標とする。
 具体的には、ストーンウォール暴動後のゲイ解放運動の高揚期に当たる1970年代に発表されたThe Ritz(1975)、ゲイ社会がAIDS危機に直面した激動の1980年代とその後を踏まえて発表された作品群、A Perfect Ganesh (1993)、Love! Valour! Compassion! (1994)、Corpus Christi (1998)を、その内容と「演劇的戦略」の両面から分析・考察し、あわせてアメリカ社会における上演を巡る諸状況についても可能な限り言及したい。

マクナリー作品にみられる孤独との戦い

岡本 淳子

 マクナリー作品は、夫婦、恋人同士、親子、姉弟など親密な関係にある人間が展開する対話によって形成される。観客・読者が登場人物たちの会話から得る印象は、彼らの誰もが孤独であるということである。
 本発表では、Lips Together, Teeth Apart (1991)を取り上げ、二組の夫婦である4人の登場人物の人間関係を分析し、各人物を孤独にしている要因が罪悪感、コンプレックス、偏見、死の恐怖にあることを考察する。そして、われわれが孤独と戦い、生きていくためには何が必要であるのかというマクナリーのメッセージを読み解く。人間関係は常に権力関係にあること、そして人間を孤独にする要因には権力が関係している点については、Bad Habits (1974)を参考にしながら論じることになるであろう。

Frankie and Johnny in the Clair de Lune
            「男と女」 ― 現代の肖像

依田 里花

Frankie and Johnny in the Clair de Lune(1987)には、現代の男と女の「愛」が、ありのまま描かれている。出会って間もないジョニー(男)とフランキー(女)は、互いに自分の孤独や自我をぶつけ合いながら、徐々に、傷をもつ過去の自分を超えて、相手を受け入れていく。それは、自分を受け入れることでもある。自分を、そして、他人を愛するむずかしさと、愛がなくては生きられない人間の性が、ラジオから流れる美しい音楽の調べと、二人の幸せ(“connect”)を心から願うパーソナリティの声に包まれて、物語は展開していく。ピューリーツァー賞をノミネートされたこの作品の現代における意味を読み解いてみたいと思う。