大会報告

日本アメリカ演劇学会 第4回

と  き 2014年9月20日(土)・9月21日(日)
と こ ろ HOTEL ルブラ王山(〒464-0841 名古屋市千種区覚王山通8-18)
テーマ 21世紀アメリカ演劇研究

第1日 9月20日(土)

研究発表

司会: 摂南大学 天野 貴史

1.メタライティングとしてのI Am My Own Wife
  ――歴史を語る媒体Charlotteと物語を語る作者Doug Wright

大阪大学(院) 村上 陽香

 Doug WrightのI Am My Own Wifeは、実在した旧東ドイツの異性装者Charlotte Von Mahlsdorfの生涯を題材にして描かれた作品である。彼女はクイアであると同時に、ナチス政権、共産主義という20世紀ドイツ政治史の生き証人であり、以前からゲイについての劇を書きたいと思っていたWrightにとっては恰好の題材となった。Wrightは数年に渡ってCharlotteの下を訪れ、インタビューを繰り返すことでこの作品を生みだす。
 Charlotteは“die Grunderzeit”(創成期、ドイツにおける1890-1900年の期間)の家具類を集めたDas Grunderzeit Museumの管理者でもある。そこには棚や時計など当時のあらゆる家具が収集され、ありのままの姿で保存されているが、その中でもCharlotteがとりわけ強い思い入れを持つのが蓄音機である。彼女の若い頃にはすでにラジオが普及しており、蓄音機はあまり持てはやされないものであった。しかし彼女は生涯ラジオもテレビも持たず、蓄音機でレコードを流すことを楽しみとしていた。
 また、Charlotteは東ドイツ唯一のワイマール・キャバレーを守り抜いた人物としても知られている。そこには当時「いないもの」とされていたゲイやレズビアンが集っていた。Wrightは彼女を「真のゲイ・ヒーロー」と感じ、Charlotte Von Mahlsdorf称賛劇を計画した。しかし、彼女が実は東ドイツ秘密警察の内通者であり、キャバレーもその密告のために使われていたという情報が流れる。Charlotteの二面性に困惑したWrightは本作をCharlotteの伝記的な劇から、Charlotteとの対話を通じて彼女に魅了され、戸惑いながらも彼女のことを描こうとする自分自身のメタライティング的な劇へと変更した。
 本発表では、Charlotteが強い思い入れを持っていた蓄音機とこの作品の「一人芝居」という大きな特徴に注目し、過去の物語を再生してみせる蓄音機=Charlotteという多声的な媒体について考察する。また、この作品には作者もDougとして登場し、Charlotteとのインタビューを重ね、新たな情報を得ては劇作について悩む様子が描かれている。Charlotteの語る「歴史」の不確実性と、翻弄されつつもそれを再構築し「物語」として語る作者Doug Wrightについて考えたい。

2.クィア劇としてのnext to normal
  ――アメリカ演劇における「天使」を手掛かりに

高知工業高等専門学校 沖野真理香

 2010年にピューリッツァーを受賞したロック・ミュージカルnext to normal (2008)は主人公が双極性障害の治療のために脳に電気ショックを受けるという、現代を舞台とした作品としてはショッキングな内容を扱っている。本作品が提示する“next to normal”なものとは何なのか。主人公の精神状態のことだけを示しているのだろうか。
 郊外に住む主婦Dianaが精神疾患の外科治療にさらされるという点で、本作品への批評はジェンダー・マイノリティである女性への抑圧ばかりに焦点が集まりがちであった。しかし、Dianaの息子Gabeをセクシュアル・マイノリティであると仮定して考察を行うことで、舞台は別の様相を帯びる。仮定を検証する際、手掛かりとなるのはアメリカ演劇における「天使」の表象である。我々は一般的に、人間の身体に鳥のような翼を持つ者を天使として認識する。天使がもたらす宗教的意味や「純真」「無垢」といったイメージではなく、その身体に注目すると、天使はグロテスクな「奇形」――フリーク――に他ならない。そこで、Tennessee Williamsの作品などを参考に、天使をフリークとして捉えた場合、天使はセクシュアル・マイノリティと結びつくものであるということを確認する。さらに、アメリカ演劇で「天使」が果たしてきた役割を、Angels in America (1991, 1992)における天使やRent (1996)に登場するドラァグ・クイーンAngelなどを通して考える。これらの作業を通して、Gabeがnext to normalの舞台上における「天使」であるということを主張したい。
 以上のように、本研究発表は、これまでのnext to normalの劇評で見過ごされがちであったセクシュアリティの問題に焦点を当てることにより、本作品をクィア劇として再考する試みである

司会: お茶の水女子大学 戸谷 陽子

3.「喪失」のドラマ
――David Lindsay-AbaireのGood People分析

中央大学 黒田絵美子

 20世紀アメリカ演劇の代表作であるA Streetcar Named Desire (1947)とDeath of a Salesman (1949)に共通するキイワードは「喪失」である。劇の冒頭、Blanche DuBoisは職を失い、住む家も失い、恋人も失った状態でNew Orleansに現れる。同様にWilly Lomanも職を失う寸前の疲れきった状態で舞台に登場する。愛する息子Biffからの信頼ははるか昔に失っている。舞台上で繰り広げられるのは、いわば主人公たちの「喪失」との闘いのドラマである。
 本発表では、2007年にRabbit Hole でPulitzer賞を受賞し、現在Broadwayをはじめアメリカ内外でその作品が上演されているDavid Lindsay-Abaire (1969- )のGood People (2011)を「21世紀の喪失のドラマ」という観点から分析する。
 主人公のMargaretはWilly 同様、職を失い、家賃が払えなければ住む部屋も失うかもしれないという危機に瀕している。窮状を脱するため、Margaretが救いを求めるのは、医師として成功している高校時代の恋人Mikeである。Blancheが語るかつての恋人Shep Hantleyを彷彿とさせるような成功者Mikeに対し、Margaretは自分が人生において得られなかったものや喪失したものを要求するかのような強引な振る舞いをする。
 21世紀のプアホワイトともいうべき恵まれない立場にあるMargaretには、生まれつき重度の精神障害を負った娘以外に家族はない。BlancheやWillyの喪失との闘争に家族が深く関わっていたのに対し、Margaretの場合、アパートの隣人たちや職場の元上司が擬似家族として関わってくる。この点に着目し、失われた家族関係を補完する新たな形の「家族劇」という観点からも分析を加えたい。
 Arthur Millerは、Salesmanを書くに至った根底にある人生経験として、少年時代に体験したGreat Depressionがもたらした喪失感を挙げ、「まるでそれまであったshore lineが消えてしまったかのようだった」と説明している。一方、Good Peopleが書かれた経済的時代背景として、1990年代以降、長期にわたって続いたNew Economyと呼ばれる好景気に陰りが見え始めた2001年9月11日に起こった同時多発テロ、そしてNew Economyが幻想に過ぎなかったことが完全に証明されてしまったLehman Shockがある。本発表では、「喪失」をキイワードとしてSalesman, Streetcarにおける喪失のドラマとの比較をベースにGood PeopleのMargaretが失ったshore lineとは何か、ひいては21世紀初頭のアメリカが遭遇した「喪失感」とは何かを探っていきたい。


第2日 9月21日(日)

シンポジウム
21世紀、変わる/変わらないアメリカとアメリカ演劇

司会兼パネリスト  愛知学院大学  藤田 淳志
パネリスト  大阪大学(非)  森  瑞樹
   愛知大学  川村 亜樹
   九州大学  岡本 太助

 21世紀に入りすでに10年を超える年月が経った。アメリカは大きく動いたかと思えばすぐにバックラッシュを繰り返す振り子のようなダイナミズムの中にあるように見える。本シンポジウムは21世紀に入って上演され、注目された代表的な作品を取り上げる。
 9.11の後、リベラル・メディアまでが扇動した対テロ戦争のなか、国民の大きな支持を得たG・W・ブッシュ政権は大義がなかったイラク戦争や2005年 のハリケーン・カトリーナの失策などにより失墜した。その後オバマが変化と希望を掲げて黒人初の大統領になった。2008年のリーマン・ショックに始まった不況もあり、リバタリアン的なティー・パーティー運動が共和党内で力を持ち、財政を混乱させるとともにアメリカの内向化を促している。アメリカが新興国の台頭とともに超大国としての自信を失う中、2013年9月オバマが宣言していたシリアへの攻撃を断念したことは一つの象徴的な出来事だった。変動する世界情勢の中でアメリカの相対的な地位は低下を余儀無くされている。
 国内では不十分ながら国民皆保険制度がなんとか開始され、2期目のオバマが掲げる人権問題の主要テーマである結婚の平等(同性婚)は過去の歴史に類を見ないほどのスピードで進んでいるように見える。その一方で、サンディフック小学校銃乱射事件(2012年12月)などの悲劇を繰り返しながらも一向に進まない銃規制の問題や、トレイボン・マーティン事件(2012年2月)に代表されるような人種の問題も根深さを強調するばかりである。経済に至っては、2011年の「ウォール街を占拠せよ」運動も明らかにしたように格差社会は生命を左右するほど深刻さを増し、それでも政治家が「富の再分配」を口にすることすらできない状況もある。
 アメリカ演劇はこれら全ての問題を公平に描いてきたわけではない。またミュージカルを中心にブロードウェイが活況を呈する中、セリフ劇といえば安定した興業が見込めるハリウッド・スターを起用したリバイバル作品が多くを占め、オフ・ブロードウェイのセリフ劇を見に行って驚くのは、観客の年齢層の高さである。
 それでも今回の発表者らが取り上げる作品群のように、批評、興業面で成功する作品は出続けている。上に挙げたような混沌とする社会状況の中で作られ、ブロードウェイやオフ・ブロードウェイ、リージョナル・シアターなどの大きな社会・経済活動の中で上演され、多くの観客によって見られ、また読者にも読まれた演劇は同時代のアメリカと密接に関わり、それを表象している。また、これらの作品は新しいアメリカ演劇としての特徴と、それ以前のアメリカ演劇の伝統的な要素の両者を兼ね備えている。これが「変わる/変わらないアメリカとアメリカ演劇」であり、各発表者は様々な分析の視点を提供する。

(藤田 淳志)

3DCG時代の演劇的想像力――David Lindsay-Abaireを中心に

大阪大学(非) 森  瑞樹

 映画等で使用される映像表現技術の飛躍的進歩は、作家の想像力を刺激するとともにそのイメージを具現化し、物語世界を生々しいまでに現前させ始めた。しかしそれにより、物語と読み手(観客)の間に不可避的につきまとう間主観的複雑性は解消され、単純化されたようにも感じる。このような技術的躍進は、演劇的慣習に頼らざるを得ないという演劇の視覚表現の特質を改めて露見させもするが、それは演劇的表現の可能性の限界を示すものではない。演劇はこのような視覚的情報過多な文芸時代に対峙しながら、物語ることの本質に回帰してゆくのではないだろうか。そして、このように制限された想像力にこそ、21世紀の演劇の可能性を垣間みることができるかもしれない。
 映画と演劇という両メディアで精力的な活動を続けているDavid Lindsay-Abaireの特質のひとつは、映画Inkheart (2008)で朗読することにより物語世界を現実にする主人公の話からも伺えるように、物語と視覚の関係性を問うところにある。そこで本発表では、Abaire作品に着目することで、現代の演劇的想像力のあり方の一端を探る。映画においてはOz: The Great and Powerful (2013)をはじめとする、最新の3DCGを駆使した壮大なファンタジーを一貫して手掛ける一方で、演劇でのAbaire作品は素朴なヒューマン・ドラマになる傾向が見られる。しかし、Rabbit Hole (2005)では、幼子を失った夫婦の苦悩に光が当てられると同時に、因果への執着、相互不理解への恐怖といったテーマが問題視される。これらは視覚的単純化を被る3DCG時代の映画の特徴へと接続できる可能性がある。そこで、本作品のこれらテーマ、さらには多元宇宙論等の表象に目を向けることで、3DCG映画と演劇との間を巧みに飛び交うAbaireの演劇的想像力を検討する。

人種問題をめぐる白人の自嘲
――オバマ大統領誕生後のシカゴ、クライボーン・パーク

愛知大学 川村 亜樹

 2012年にブロードウェイで上演され、ピューリッツァー賞、トニー賞などを受賞した、ブルース・ノリス(Bruce Norris)の『クライボーン・パーク』(Clybourne Park)は、「黒人」劇作家ロレイン・ハンズベリー(Lorraine Hansberry)による1959年初演の『ア・レーズン・イン・ザ・サン』(A Raisin in the Sun)に、50年後の2009年から応答するかたちで、「ポスト人種的笑劇」として、「チェンジ」は起こるかを問うている。だが、ノリスは「白人」で、テキサスに生まれ14歳になるまで接した「黒人」は乳母だけだった生い立ちを振り返り、自身を「人種差別主義者」という。それゆえ、『クライボーン・パーク』は「白人」の視点で、オバマ大統領誕生後のアメリカの人種関係を直視しようとする自虐的な作品ともいえ、劇場の観客の大半を占める中流階級以上の「白人」が笑いつつも身悶えする様を想定して制作したとされている。
 『ア・レーズン・イン・ザ・サン』では、運転手としての自己に尊厳を感じられず拝金主義に陥る息子ウォルターと、医師を目指し神を信じない娘ベネッサとの世代間格差を感じつつ、ママ・リーナが「白人」居住区のクライボーン・パークの家を購入することで、アメリカン・ドリームを追求し、家族を基盤とする「黒人」にとっての「倫理感」を回復しようとしており、良くも悪くも変化が予見されていた。反して、『クライボーン・パーク』では、戦争の亡霊が漂いつつ、2009年を舞台として「白人」と「黒人」の登場人物たちが口論をエスカレートさせ、相変わらず人種をめぐる闘争は収まりそうにないが、その一方で、「白さ」を問うという大胆な政治的試みが展開されている。そこで本発表では、「白人」表象を考察したリチャード・ダイヤー(Richard Dyer)の『ホワイト』(White 1997)を理論的参照点とし、一見悲観主義者とも受け取れるノリスの脱構築主義的側面を炙り出し、『クライボーン・パーク』の台詞「なぜ白人女はタンポンみたいなの」の政治的意味を検討したい。

「理論以後」の21世紀アメリカ演劇
――Rajiv Joseph劇に見る否定の存在論

九州大学 岡本 太助

 1983年初版のLiterary Theoryで文芸批評における「理論」の重要性を広く知らしめたTerry Eagletonは、20年後のAfter Theory (2003)においてその「理論」の終焉を宣言してみせた。しかしこれは批評理論が有効性を失ったということではなく、理論が自己完結した純粋にアカデミックなものであることをやめ、より社会の現実に根差した新たな実践的批評の営みの中へと浸透していったことを意味している。演劇研究・批評の分野でも、Palgrave Macmillan社から現在刊行されているTheatre &シリーズに見られるように、演劇的実践を中心に据えたうえで、グローバリゼーション、動物、多文化共生といった、現在の世界における重要テーマを相互に結びつけようとする動きが活発化している。これは言うなれば、演劇を通した批評理論の再編成の試みである。21世紀アメリカ演劇の動向を探るうえでも、「理論以後」の時代において演劇がいかに理論と向き合い、さらにはそうした理論にどのような知見を付け加えうるのかを考えてみる必要があるだろう。
 本発表では、2000年代後半から次々に話題作を発表しているRajiv Joseph (1974- )のいくつかの作品の間のつながりに注目し、理論と演劇的実践の関わりという視点から、21世紀アメリカ演劇の新しさを探る。具体的には、Bengal Tiger at the Baghdad Zoo (2009)、 The North Pool (2011)、Animals Out of Paper (2008)、Gruesome Playground Injuries (2009)の四作品を取り上げ、これらをゆるやかにつなぐテーマとしての亡霊と記憶、動物表象と人間性についての考察、身体損傷と情動、グローバル化にともなう転位の経験などを検討する。真正な経験と作られた見世物との境界線上に位置するのが演劇であることは確かだが、Joseph劇の特質は、その境界そのものを問題視するところにある。そして彼の作品に現れる理論的トピックは、おそらく「○○は~ではない」 という否定形の存在論によって結びつくと思われる。以上の点に注目し、他の劇作家との比較も視野に入れながら、Rajiv Josephと理論の関係を探ることにしたい。

August: Osage Countyに見る家族崩壊の再演――新しい家族と家族劇

愛知学院大学 藤田 淳志

 トレイシー・レッツによるAugust: Osage County (2007)はシカゴの名門ステッペンウルフ・シアター・カンパニーが初演、そのままブロードウェイに移り、批評、興業共に近年稀に見る大きな成功を収めた。
Augustはプロローグから三幕を通して装置転換のない家のセットで、解決できない問題に悩む家族を描く。『夜への長い旅路』をはじめアメリカ演劇のキャノンとされる数多くの作品の影響が見られるように、伝統的な家族劇の体裁をなしている。その一方、父の失踪によって久しぶりに一家が集まり次第に明らかになるたくさんの問題は、処方箋薬中毒、アルコール中毒から小児性愛、近親相姦にいたるまであまりに波乱に富んでいてソープオペラ的でもある。
 本発表はこのあからさまにアメリカ家族劇のパロディ的な作品の意図を探る。作者レッツの自伝的な要素も強いが、彼の過去の作品群を見ても、Augustが機能不全に陥った家族を描いてきたアメリカ演劇の伝統への単なるオマージュであると、一筋縄で解釈するわけにはいかない。
 特に注目したいのは家族の一員でないほとんど唯一の登場人物、お手伝いとして雇われたネイティヴ・アメリカンのジョナの存在である。プロローグでウェストン家の家長ベバリーが失踪前に雇う彼女は、がんを患う妻バイオレットと家の世話を任される。ジョナのウェストン家での過剰とも言える役割に注目することで見えてくるのは劇中劇の構造である。これを読み解きながら、21世紀のアメリカ家族と家族劇について考えたい。