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第1日 8月24日(土)
講演
司会 中央大学 黒田絵美子
ミュージカル研究序説――コミュニティ形成と人種表象から「読み解く」アメリカン・ミュージカル
九州大学 岡本 太助
高級文化と大衆娯楽、社会風刺と拝金主義といった相反する要素が交錯する地点に形成されてきたミュージカルは、そのハイブリッド性においてきわめてアメリカ的なジャンルであると言える。それは時代ごとに変化するアメリカの自己像を映し出す鏡であり、また“The American Way of Life”の理想像を生産・流布することでその自己像を創出するメディアであった。20世紀半ばのアメリカで、Richard RodgersとOscar Hammerstein IIの共作から生まれたOklahoma! やCarousel といった古典作品は、総合芸術としてのアメリカン・ミュージカルの完成形と見なされている。今日アメリカン・ミュージカルの歴史的変遷とその文化的意義について考察するためには、RodgersとHammersteinが創り出したミュージカルの文法が継承あるいは改変・更新されてきた過程を批判的に検証する必要があるだろう。本発表では、上述の古典作品を起点に、West Side StoryからA Chorus Line、Avenue Q、Wicked、In the HeightsそしてHamiltonへと至るブロードウェイ・ミュージカルの系譜をたどることで、アメリカの自己像の変化がミュージカルにおいて生じた変化と連動してきた様を跡付けたい。
議論を進めるにあたっては、まずアンサンブルの活用がミュージカルにコミュニティ創出の場としての機能を与えたとするScott McMillinの議論を手掛かりとする。戯曲・歌・ダンスなどの要素を有機的に組み合わせることによって、ミュージカルの形式上の統合性が生みだされ、その結果そこに一種の共同性が生じるわけだが、McMillinはむしろそれらの要素が統合されず、互いに差異をはらむものとしてミュージカルの内に混在していると捉える。この観点を敷衍して、ミュージカルを構成する要素の「混ざり合わなさ」を、アメリカにおける人種的対立を構造的・形式的に反復するものとして考えてみたい。例えば、Rodgers/Hammerstein作品が、意識的にも無意識的にも「白い」アメリカをロマンティックに謳いあげ、アメリカとそのミュージカルの繁栄のための道(つまりThe Great White Way)を切り開いたとすれば、West Side Storyはその白いアメリカの他者である民族的マイノリティの若者に仮託して(あるいは擬装して)、アメリカ社会の統合を訴えかけ、アメリカン・ミュージカルの不滅の金字塔をうちたてた。しかるに、20世紀終わりから現在にいたるミュージカルは、そのジャンルとともに形成されてきたコミュニティ神話を脱構築し、混ざり合わないものの共存という新たな共同性のモデルのうえに自らを再構築していると言える。
以上のような視点から、ミュージカルを統合された一つの芸術形式として想像したいという欲望は、アメリカが同じように統合された一つの社会であってほしいという希望と、様々なレベルで結びついていることを例証したい。またこの発表により、ミュージカル研究という学会初の企画に際して、議論のために共有すべき基本的概念や方法論を提示できればと思う。
研究発表
司会 中央大学 黒田絵美子
制約という跳躍板
――Betty Comden & Adolph Green作品を貫く劇作法とそのミュージカル史上の意義
早稲田大学坪内博士記念演劇博物館招聘研究員 辻 佐保子
セリフ・歌・ダンスという3つの異なる表現モードが作品に盛り込まれる。これがミュージカルの表現形式としての基本的性質であると共に、根本的な制約でもある。特に楽曲の挿入は、ミュージカル最大の見せ所であると同時に、劇に亀裂をもたらす異物でもある。ミュージカルの歴史とは、「異物としての楽曲」を劇中でどのように機能させるかという劇作法の模索の歴史と解釈できる。
1920年代前半までの初期ミュージカルでは、ドラマと楽曲は基本的に「乖離」していた。ところが、1920年代後半からは、ドラマと楽曲を緊密に連携させる方法論=「統合」の確立が試行錯誤され、1943年のOklahoma! を境に「統合」は劇作の基本方針として定着した。他方1960年代半ば以降、ドラマと楽曲の衝突と相対化を通じて「乖離」を強調する作品が制作された。翻って1980年代以降には、始終奏でられる音楽が展開を統御するという、別の形での「統合」を目指す作品が席巻する。
ミュージカルの劇作法の歴史は、ドラマと楽曲の「統合」と「乖離」との間で揺れる歴史である。振り子の動力は、「異物としての楽曲」をいかに作品に位置づけるかという問題意識と言える。このように概観した時、特異な存在として浮上するのがBetty Comden & Adolph Greenである。彼らは1940年代半ばから1990年代初頭にかけて、演劇・ラジオ・映画・テレビで脚本と歌詞を執筆したミュージカル作家である。彼らの作品では常に、楽曲の異物としてのありよう自体を劇的に機能させるというオルタナティブな方法論がとられる。本発表では、プロットの展開やキャラクター描写に直接的に寄与しないように見える楽曲が、その異物としてのあり方ゆえに劇的機能を発揮するというComden & Green作品のメカニズムを考察する。具体的には、On the Town、Bells Are Ringing、I’m Getting Married、On the Twentieth Century を対象とする。楽曲の位置づけや歌の機能の比較分析を通じて、ミュージカルの表現形式としての制約を跳躍版としていくComden & Greenの方法論の意義を検討することを目指す。
第2日 8月25日(日)
シンポジウム 21世紀ミュージカルにおける生(Life)
司会兼パネリスト 広島経済大学 森 瑞樹
北九州市立大学 齊藤 園子
高知工業高等専門学校 渡邊 真理香
愛知学院大学 藤田 淳志
大阪大学 貴志 雅之
昨今のアメリカ舞台芸術界に受賞というひとつの側面から臨むならば、ミュージカル形式を採用する作品がその基軸として煌々と照らされていることは否定のしようもない。所謂、言語的解釈を超える音楽を流麗に操るエンターテインメント・ショー。その特殊な文学空間においては、怪物や動物は言わずもがな、まさに文字通りの多様な生(Life)の在り方が舞台上で躍動する。ここに鑑みれば、「ミュージカル」という言葉を、21世紀現在においてもなおアメリカ社会が切望し続けている多様性というロマン的姿のメタファーとして捉えることも可能となるだろう。
一方、文学研究のフィールドにおいては、ミュージカル作品はフラグシップであるとは言い難く、その後景に影を潜めてきた。もちろん本学会においても、ミュージカルをテーマに据えたシンポジウムが初めての試みであることは言うまでもない。しかしながら、多様性という結節点において、ミュージカルとアメリカ社会とが緩やかながらも確かなつながりを見せるいま、文学の一形式としてのミュージカルの可能性に改めて真摯に向き合う必要もあるだろう。
そこで本シンポジウムでは、各パネリストが物語の内外を問わず、多様な視点から「生(Life)」の在り方についての思惟を巡らせ、21世紀ミュージカルの姿の一端を明らかにしてゆく。「ミュージカルとは何か?」という命題を追究しようとする壮大な試みではないものの、この企画が文学研究の細くとも新たな水脈を引く端緒となれば幸いである。(森 瑞樹)
「革命」の影響――Les Misérablesの受容に関わる一考察
北九州市立大学 齊藤 園子
The Musical: A Look at the American Musical Theater (1995)においてRichard Kislanは、アメリカン・ミュージカル産業が縮小の憂き目に合っているとし、その主要因の一つとして、“The British Invasion”を挙げている。Les Miserablesも、そうしたミュージカルの一つとして挙げられている。フランスの作家、Victor Hugoによる1862年の長編小説に基づくミュージカル作品は、ロンドンのウェストエンドと米国のブロードウェイの双方で、記録的な長期興行をみた作品の一つである。同作品のミュージカル版は、1980年に仏語版がパリで上演されたのが最初で、その後、イギリスのプロデューサー、Cameron Mackintoshが中心となって英語版が制作され、1985年にロンドンで初めて上演された。ブロードウェイでの初演はその翌年のことである。
英国と米国の双方で好評を博したとはいえ、両国での受容には温度差があるように思われる。英国に比して、米国での興行は断続的である。また、英国生まれと米国生まれのミュージカル一般に通じる相違点や、Les Miserablesのウェストエンド版とブロードウェイ版で上演されるナンバーや場面の違いが指摘されている。本発表では、こうした諸点を考察しながら、大西洋両岸における同ミュージカルの受容の相違点とその系譜をたどることを試みる。
2012年には、英米の合作によるミュージカル映画が発表されて話題となった。Hugo作品の映画化というより、ミュージカル版の映画化作品である。米国、英国、オセアニアの俳優を起用している点で、英語圏の国際的な作品と言ってよいであろう。Les Miserablesの受容と展開の流れは、英語圏社会の現状と今後を考察する一契機にもなると思われる。
ミュージカル作品の寿命――The Book of MormonとAvenue Q
愛知学院大学 藤田 淳志
辛辣な風刺で知られるテレビアニメSouth Park (1997-)の作者、Trey ParkerとMatt StoneはAvenue Q (2003)を見たとき、プレイビルのクレジット欄で作者のRobert Lopezが自分たちに感謝を述べているのに気づいた。3人は意気投合し、The Book of Mormon(2011)が生まれた。
LopezとJeff MarxによるAvenue QはWicked (2003)に勝ってトニー賞ベストミュージカルを受賞した後ロングランを続け、2009年からはオフに劇場を移して、今年5月までの興行を終えた。ジョージ・W・ブッシュからオバマ、トランプの3代の大統領の間上演されたことになる。一方The Book of Mormonはオバマ時代に始まり、トランプ政権の今もブロードウェイだけでなく、アメリカ国内各地、ロンドンなど海外の都市でも興行を続けている。
本発表では、皮肉に富んだユーモアでPC (Political Correctness)を笑い飛ばすこれら2作品の受容の変化について考察する。Avenue Qの人種や同性愛を笑うメッセージはブッシュ時代には革新的、刺激的で、オバマ時代には社会が大きく変化してそのインパクトは弱まった。しかしトランプ就任後にはどうだったのか。“Everyone’s a Little Bit Racist”と開き直るキャラクターたちを前にした観客の爆笑の意味の違いについて考える。The Book of Mormonは初の黒人大統領オバマ政権下で、マイノリティに対する社会の寛容度が大きく進化し、その方向性が不可逆だと思われていた中で公演が始まった。しかしトランプの当選以来、観客は同じミュージカルを見て同じように笑っているのだろうか。
興行だけでなく劇評でも大成功したこれら2作品のエンターテインメントとしての、また社会的メッセージをもった芸術作品としての寿命について考えてみたい。
父と娘をめぐる素描――Fun Homeにおける生と性
高知工業高等専門学校 渡邊 真理香
2013年にオフ・ブロードウェイ、2015年にブロードウェイで開幕したFun Homeは、Alison Bechdelによる自伝的グラフィック・ノベルを原作に、Lisa Kronの脚本と作詞、Jeanine Tesoriの作曲によって作られた。
原作者を投影した主人公Alisonが父Bruceの死の真相を求める回想劇という形を取る本作品は、回想劇にありがちな欺瞞に満ちた視点や隠蔽体質を許容しない。彼女は、父が死んだ年と同じ43歳を迎えたことをきっかけに、9歳の自分(Little Alison)と大学に入学したばかりの自分(Medium Alison)を舞台上に呼び起こし、彼女たちの経験を目の当たりにすることで、自分と父の関係を理解しようと努める。
この親子は共にセクシュアル・マイノリティでありながら、異なった生を歩んできた。Alisonは、自分がレズビアンであるとカミングアウトしたことが、クローゼット・ゲイであった父を自死に追いやったのではないかという疑問を抱いている。つまり、この作品は家族という小さなコミュニティ内での行き違いだけでなく、セクシュアル・マイノリティの当事者同士の不完全な相互理解も描いているのである。ミュージカル作品では、クロージング・ナンバーが登場人物全員で歌われることがよくある。そこには、自分と他者の差異を受け入れ、相互理解の上に共同体を形成し、社会的抑圧に抗うというクィア・ポリティクス的価値観がある。そのことを踏まえ、本作品のクロージング・ナンバーが3人のAlisonだけで歌われることの意味について検討したい。
以上のように、本発表では回想劇とミュージカルという構造とクィア・ポリティクスの功罪を念頭に置きながらFun Homeを考察する。「ゲイのもの」だと言われてきたミュージカルという舞台芸術が、どのような展開を見せているのかまで考えることができれば幸いである。
拡張する物語空間の生――Next to Normalの自己言及的側面から
広島経済大学 森 瑞樹
双極性障害。Next to Normal (2008) の主人公家族のDianaが患うこの疾病は、本作を駆動させるひとつの明示的なモチーフにすぎない。例えば、虚実や時間軸上の二つの定点といった物語内容に関するものから、作品を豊かに彩る楽曲同士の音楽的な対話関係に至るまで、この作品では二極間のたゆたいが幾層にも織り合わされ語られてゆくことになる。
これらのなかにおいても、一際の特殊性を顕示しているものは「存在/非存在」の二項関係であろう。例えばGabeは‘i’m alive’において、身体性も含めたこの二項に関する自己言及的(もしくは行為遂行的)なリリックを歌い上げる。Gabeは、そうであるがゆえに、単なる登場人物以上の存在へと自身を位相転換することになる。すなわち、コペンハーゲン解釈さながら、想像の息子(非存在)であることと、実体のある役者(存在)であることのふたつの可能性が同時に存在していることが前傾化されてゆくのである。言い換えるならば、Next to Normalの物語空間は演者の身体、更には観客の認識をも包摂しながら拡張してゆく。
そこで本発表では、本作キャラクター達の上記のような自己言及性に着目することで、物語空間の生(Life)の諸相を探ることから始める。そうすることで、物語(芸術)と身体との新たな関係の地平を提示することを目指してゆく。そして更には、本作がミュージカルという形式であることの意義への考察も論及可能となるだろう。
心の病、その脱スティグマ化に向けて
――21世紀アメリカン・ミュージカルの一つの方向性
大阪大学 貴志 雅之
全米そして世界で、精神疾患、心の病はこれまでになく大きな社会問題として注目され、精神衛生の改善に向けた取り組みが行われている。にもかかわらず、双極性障害・うつ病・社交不安障害・統合失調症に対する社会の無理解と、精神疾患をスティグマと同一視する社会的偏見は依然として根強い。こうした態度と意識・無意識は、病に苦しむ個人と家族、親しい関係にある人々をさらなる苦境へと追い込む。それは人と人との関係を蝕み、共同体と社会からヒューマニティを奪う脅威となる。
こうした状況のなか、21世紀に入り、アメリカ演劇の世界で、心の病を中心的テーマとしたミュージカル作品がこれまで以上に上演され、ピューリッツァー賞、トニー賞をはじめとする賞を受賞する高い評価を受ける作品が現れている。しかし、なぜ心の病に苦しむ個人と家族、彼らに関わる人々を巡るストーリーがミュージカルとして制作され、人々の心を打ち、大きなヒットとなって高い評価を産むのか。しかも、心の病を描くミュージカルには死が伴うことが少なくない。心の病と死の影、そしてミュージカルとの親和性とは何か。
本発表では、夭逝した息子の幻影に囚われ続け、双極性障害を病むDianaと家族を描くNext to Normal (2008)、そして社交不安障害を抱え、同級生の自殺を機に自らの嘘によってさらなる苦境へと追い込まれていく高校生Evanの姿を描くDear Evan Hansen (2015)を取り上げる。二作を中心に、心の病と精神衛生の課題を描くミュージカルの現代性と意義、新たな可能性を考える。