大会報告

日本アメリカ演劇学会 第1回

と  き 2011年7月2日(土)・3日(日)
と こ ろ 浅草ビューホテル(〒111-8765 東京都台東区西浅草3-17-1)
テーマ テネシー・ウィリアムズ生誕100年記念大会

第1日 7月2日(土)

研究発表

司会: 神戸大学 山本 秀行

1.ヒロインたちの疑わしい身体とWilliamsのヘテロ・マスキュリ二ティ
And Tell Sad Stories of the Death of Queens….を中心に

成蹊大学(院) 真野 貴世子

 Blancheは私である、というWilliamsの今となっては有名すぎる発言は、彼の演劇作品においてヒロインが彼のホモセクシュアルな欲望を投影するペルソナの役割を担うことが多いという傾向を示唆している。映画界ではプロダクション・コードが幅をきかせており、同性愛的欲望の表象が著しく弾圧を受けていた時代に劇作家として半生を過ごしたWilliamsにとって、女性のペルソナに自らの欲望を注ぎ込む、といった行為はいわば無意識的かつ政治的な妥協策であり、性の二項対立を攪乱する効果を持っているといえる。
 しかし、俳優を通して顕在化するキャラクターの身体性に注目してみてみると、ヒロインたちはホモエロティックな欲望の表象に荷担しクィアな身体を提示する場合が多いのに対し男性キャラクターが男性以外の欲望を担っている可能性はなきに等しく、舞台上における男優の身体は女優のそれよりも安定した印象をうける。Blancheは女性であるにも関わらずドラァグ・クィーンであると指摘されることがあり、彼女には男性性と/女性性、そして身体とが複雑に共存している。たとえばOrpheus Descending (1957)のヒロイン、Ladyと愛人Valの動作を”They shake hands like two men”と記している箇所があるが、Ladyには男性性の要素が吹き込まれている。
 本発表では、今まではあまり論じられてこなかったWilliamsの「男性」としてのジェンダーとヘテロ-マスキュリンな欲望に注目する。主人公が草稿の段階で男性から女性へ、そして最終的にはドラァグ・クィーンの男性へと変化を遂げているAnd Tell Sad Stories of the Death of Queens…という1幕劇を中心にWilliamsのキャラクターの身体、ジェンダーと欲望の表象との関係を考察し、特に女性性や女優の身体といった「女性的なるもの」の扱い方を通じて、Williamsのクィアな試みが一種のhomosocialかつ女性排除的なヘテロ・マスキュリンな様相を帯びていることをフェミニズムの視点から批判的に論じる。
 Williamsは、ホモエロティックな「男性の欲望」を外見上は女性に見える身体を通して舞台上に表すことに執着しているようにも見え、それは女性の生々しい身体を無化していると考えられるのと同時に男性の欲望でもって女性の身体を自在に操るヘテロ・マスキュリンな権力の行使であると解釈でき、ヘテロ男性の支配的な立場を創作を通して得ようとするWilliams自身の創造者/男性的な欲望をかいま見ることができるのではないか 。

2.カイロスの戯れ――Sweet Bird of Youthが結ぶTennessee Williamsの虚像

大阪大学(非) 森 瑞樹

 無情に流れゆく時が奪い去る美。A Street Car Named Desire (1947)のBlancheがそうであったように、老いにたいして過剰な恐怖を滲ませる人物は、初期Williams作品からすでに登場していた。年齢詐称にはじまり、鏡に映る老いた自己への嫌悪など、Williamsにとって身体的/外見的若さとその凋落は、彼自身また彼の創造にとって大きなオブセッションとなっていたようだ。
Sweet Bird of Youth (1959)の原題はThe Enemy: Time とされ、まさにWilliamsの星霜の関心事を物語として発露させた作品である。時は復活祭。自身の老いた姿を忘れ去るかのように、アルコールとドラッグで現実から逃避する往年の人気女優Princessと、若き美しさを失いつつあることを自覚し、彼女を脅迫することで映画界のスターダムに上り詰めようとするChanceが物語を紡いでゆく。ここで問題とすべきは、PrincessとChanceはWilliams自身の姿を曝したいわば分身であるという点、またその両者が、方向性の違いはあれ、スクリーンに映される時を越えた不変の虚像をその思考の中心に据えているという点である。Williamsは、時に抗い、自己の虚像を構造化し、復活させるチャンス(=カイロス)を視覚芸術のうちに求めていたのだろうか。それとも、老いを認めることで到達し得る芸術家としての新たな境地を模索していたのだろうか。
 そこで本発表では、Sweet Bird of Youthに見られる芸術文化的シンボルとそれらの多様な緊張関係に着目し、Williamsのナルシシズムや美学の源流、またその芸術的伝統更新の修辞学を明らかにすることを目的とする。また同時に、視覚芸術メディアとしての演劇の特性を踏まえ、上演されることで新たに発現するWilliamsの虚像を見定め、その芸術的位置付けを検討する。その過程でWilliamsの反体制的な創造のなかから、極めて個人的な美学、つまりは彼のナルシシズムを拡充させる装置としての演劇の有り様も炙り出されてゆくかもしれない。

3.ユートピアとノスタルジアという観点から見たウィリアムズの社会観

中央大学 黒田 絵美子

A Streetcar Named DesireのBlanche は、自分の置かれた窮状を打破する救世主としてしばしばShep Huntleyという、本当に存在したのかどうかも不明なかつての自分の崇拝者の名前を口にする。同様に、The Glass MenagerieのAmandaも小さなアパートに引きこもる娘Lauraの将来をGentleman Callerという、存在の不確かな人物に託す。本発表では、ウィリアムズの主人公たちが現状打破のmagic wordとして繰り返すこれらの存在に着目し、ウィリアムズの思い描く理想的な内的/外的環境、すなわち「ユートピア観」とは何かを主に分析していく。16世紀にトマス・モアが作った「ユートピア」という言葉は、「どこにもない善い場所」を意味するが、Shep HuntleyやGentleman Callerは、「どこにもいない善い人」であり、主人公たちを恍惚とさせ、俗世からの脱却を試みるための原動力ともなっている。さらに興味深いのは、Blanche やAmandaが理想郷として掲げるBelle ReveやBlue Mountainは過去のものであり、彼女たちのユートピアは即ちノスタルジアなのである。これは、今は亡き息子Sebastianとの甘い思い出の中に生きるSuddenly Last Summer のMrs. Venableについても同様であるが、後ろ向きで実現不可能な夢の追求とも捉えられる彼女たちの「ユートピア的意識」を、マンハイム(Karl Mannheim)をはじめとする社会学者のユートピア理論に照らして再検証してみたい。そうすることによって、単にeccentricで夢見がちな主人公たちの戯言としてではなく、ウィリアムズの描く主人公たちが提示する現実変革へ向かうエネルギーに焦点を絞って、ウィリアムズの社会観が抽出できるのではないかと期待する。
 Blanche、Amanda、Mrs. Venableは、経済的現状はそれぞれ異なるが、単にeccentricに世俗社会とかけ離れた世界に身を置いているわけではなく、過去もしくは現在において、社会の一員として経済活動を行っている「働く女性」である。
 アメリカ南部という、文化的・社会的に流動性に満ちたコミュニティー(Levi-Straussの言うhot society)の中にあって自らの思い描くユートピアを掲げて生きる主人公たちが、「安定」を求めつつもユートピアへの固執ゆえに「破滅」「窮状」へと導かれ、孤立化してしまうメカニズムを、アメリカ社会に独特の事象として考察し、ウィリアムズの社会観を抽出したい。


第2日 7月3日(日)

シンポジウム
「テネシー・ウィリアムズ研究の現在」

司会兼パネリスト  立教大学  舌津 智之
パネリスト  慶應義塾大学  常山菜穂子
   東京家政大学  原 恵理子
   京都学園大学  古木 圭子
   大阪大学  貴志 雅之

 テネシー・ウィリアムズが残した膨大な量のタイプ原稿は、今なおテキサス大学をはじめとする全米の図書館に眠っているが、20世紀末頃から、それまで未発表だった作品が次々出版されており、生前には日の目を見ることのなかった戯曲が初演されるなど、ウィリアムズ作品の全体像は現在進行形でその輪郭を変えている。主だった作品だけを拾っても、Not About Nightingales, Spring Storm, Candles to the Sunなど30年代の初期多幕劇や、後期の一幕劇集The Traveling Companion & Other Plays, 生前最後の新作となったA House Not Meant to Standのほか、演劇作品以外にも、Collected Poems, Notebooks, New Selected Essaysなどが、いずれも過去10数年の間に活字となった。そこで、ウィリアムズの生誕100年というこの節目の年に、特権的「現在」に立ってこそ見えてくる劇作家像を新しく浮き彫りにしたい。
 本シンポジウムでは、ゆるやかに時間軸を追いかけながら、必要に応じて時代を往還しつつ、ウィリアムズの最初期から最晩年までを幅広く見直していく。その際には無論、すでに評価の確立した彼の代表作に立ち返り、人種や階級、セクシュアリティなど、今日刻々とその批評的理解が深化しつつある諸問題に向きあう作業が必要となる。しかし彼は、40年代半ばのThe Glass Menagerieで初めて「デビュー」したわけではないし、60年代以降、下り坂の創作人生に甘んじたわけでもない。加えて、彼が生まれる以前の19世紀に端を発する演劇伝統は、ウィリアムズの同時代にも脈々と息づいていた。時代に根ざすと同時にそれを越境し、多彩な表情とともに浮かび上がる彼の作品群を再考することで、「なぜ今ウィリアムズなのか?」という問題意識を皆で共有することができれば幸いである。

(舌津 智之)

抒情と社会意識――ウィリアムズの1930年代

立教大学 舌津 智之

 ウィリアムズ作品には、しばしば炎がほのかにゆらめいている。ローラとジムの語らいは、ロマンティックな燭台の明かりに包まれているし、ミッチとブランチが束の間の抱擁を交わす場面でも、ロウソクの火が二人を抒情的に照らし出している。しかし、上演史に残るウィリアムズ最初期の長編戯曲にゆらめいていたのは、極貧の炭鉱夫一家が暮らす小屋に灯る石油ランプの炎であった。
 ウィリアムズは、炭鉱夫のストライキを描いた30年代作品、Candles to the Sun (1937)のタイトルについて、「ロウソク」は「個人の人生」を、「太陽」は「集団の意識」を表すものだと自己解説を加えている。この暗喩をふまえるなら、劇中に「世界は日の出を待っている」と題された歌の流れるThe Glass Menagerieや、昼間の光に戸惑うブランチを描くA Streetcar Named Desireは、個人的抒情性と集団的社会参加をめぐる葛藤の演劇として再読しうるかもしれない。ウィリアムズの職業的出発点は30年代のプロレタリア演劇にあり、彼の戦後の代表作も、実は大恐慌の時代に深く根ざしていることを、近年新たに活字となった「新」作品に照らして検証するのが本発表の目的である。
Menagerieの語り手は、一見、社会に背を向けた詩人に見えるとしても、その彼が、労働争議という社会背景に言及していることを軽視すべきではない。彼は実際、アパートの電気代を滞納する代わりに、船員労働組合の組合費を支払っている。メキシコの太平洋岸へ消えた父の足跡を追ったというトムは、おそらくこの組合組織の一員として、セントルイスを出たのち西海岸へと向かったことが推察される。語り手のこうした活動とその政治性を念頭におくならば、きわめて「アメリカ的」な自己信頼の価値観を持つジム・オコナーと、彼のようになれないトムとの隔たりは、つまるところ、前者の資本主義と後者の社会主義という文脈によって説明しうるのではあるまいか。
 さらに、時間が許せば、Streetcarの30年代性についてもふれる。我々がブランチに感情移入するとすれば、それは、彼女が貴族的南部の没落を背負っているからというよりも、経済的に困窮する一市民の凡庸なる苦悩のうちに、ある種の庶民的尊厳が宿っているからではなかろうか。ウィリアムズ流の抒情とは、常に社会意識との緊張関係によってこそ生成されていることを見据えたい。

アメリカ演劇史の中のT・ウィリアムズ――黒人表象を中心に

慶應義塾大学  常山 菜穂子

 テネシー・ウィリアムズはアメリカ演劇史上に確固たる地位を占める20世紀最大の劇作家のひとりであり、南部作家の代表格である。創作の中核に南部の人と社会を据え、とりわけ、前世紀に花を競ったサザン・ベルが現代社会でこうむる悲劇をノスタルジックに描いて、アマンダやブランチのような鮮烈なヒロイン像を世に送り出した。
 その一方で、黒人については、南部最大の懸案であるにもかかわらず、ほとんど触れない。ウィリアムズは19世紀の奴隷制度にも、それに端を発する人種問題にもあまり関心を示さないようだ。しかし、新大陸に演劇文化が芽生えた18世紀植民地時代からこのかた、アメリカの劇場には黒人キャラクターが絶え間なく登場していた。ウィリアムズが活躍する直前には、ミンストレル・ショーでブラック・フェイスの芸人が歌い踊り、Uncle Tom’s Cabin (1852年初演)やThe Octoroon (1859年初演)といった黒人を主題とするメロドラマが大人気であった。それらの舞台では、ステレオタイプのキャラクターが白人の望むファンタジーを繰り広げていた。従来の演劇史観に基づけば、これら大衆芸能の流れを断ち切って、オニール、ミラー、ウィリアムズらが20世紀近代劇を樹立したということになるが、果たして、ウィリアムズは19世紀を断ち切ったのか。本発表では、ウィリアムズがいかに、こうした黒人表象にまつわるアメリカ演劇の伝統を反復あるいは転覆しているのかを考える。
 ウィリアムズ作品に登場する黒人キャラクターの大半はステレオタイプの域を出ない。そのような中で、黒人の身体的・性的特徴を与えられたA Streetcar Named Desireのスタンレーは、どのように解釈できるのか。全作品中で唯一の黒人中心人物であり、奴隷制度下では黒人に所有が認められなかった土地と白人女性を手に入れるKingdom of Earthのチキンは、真の勝利者なのか。これらの疑問の分析をとおして、今まで指摘されることのなかった19世紀との連続性を浮き彫りにし、ウィリアムズをアメリカ演劇における黒人表象の系譜の内に位置づける。一連の考察は、近年盛んな演劇史書き換えの作業につながるだろう。ウィリアムズは、20世紀近代劇から始まるとされてきたアメリカ演劇の始点としてではなく、植民地時代から連綿と続くアメリカ演劇伝統の一部としてとらえ直されるだろう。

<Tennessee Williams>というトラウマと表象――Milk Trainにおける「人生はすべて記憶」

東京家政大学  原 恵理子

The Milk Train Doesn’t Stop Here Anymore (1963) は1960年代に入り、Tennessee Williamsの名声に陰りが見えたときに発表されており、あまり知られていない戯曲とみなされてきた。しかし、Williams生誕100周年を記念するために、2011年1月、Milk Trainはオフ・ブロードウェイで幕を開けた。アカデミー賞女優のOlympia Dukakisを主役に迎えて、Michael Wilsonが演出したこの上演は、正典化されたWilliams劇のなかで見過ごされてきた作品に新たな光を当てることとなり、「重要でないと思われた劇でさえも抒情的に力強い」と再評価されている。この「抒情的に力強い」といった劇評のことばは、世界の演劇文化史で20世紀のアメリカ演劇の代表作として名高いThe Glass Menagerie (1945) とA Streetcar Named Desire (1947) を思い起こさせる。Williamsの執筆活動の初期に描かれたこれらの作品のテーマは、変奏のかたちをとりながらも反復されて、あらゆる戯曲の原点となる。いいかえれば、Williamsの自己と人生を告白する形式や主題は、戦後のアメリカ演劇において、新しい声やヴィジョンとなり、偉大な芸術的遺産をもたらすのである。したがって、Williamsが自らの人生のなかでトラウマ的出来事の記憶にとりつかれて、<Tennessee Williams>という自己を反復的に表象する行為には重要な意味がある。
 興味深いことに、Milk Trainの主人公のMrs. Flora Goforthも過去のトラウマ的出来事の記憶にとりつかれて、迫り来る死の影や忘却、喪失に怯えながらも、愛と情熱についてのMemoirsの完成を急いでいる。そして、彼女は象徴的な台詞をいうのである――「人生は一瞬一瞬があるだけでそのほかはすべて記憶だ」と。Milk Trainは、Memoirsによれば、Williamsの「人間としても芸術家としても私生活の暗い影の存在を痛切に反映していた」劇である。本発表では、Milk Trainに焦点を当てて、初期の作品にも言及しつつ、Williamsのトラウマ・記憶・自己表象の関係性を読み解きたい。そして、Williamsの作品は演劇の変革を試みながら、ナショナル・アイデンティティの新たな探求に挑み続けてきたことを明らかにしたい。

過去からのメッセンジャーとしての同性愛者――Tennessee Williams 戯曲における性、暴力、死

京都学園大学  古木 圭子

 Tennessee Williamsの戯曲においては、同性愛者の人物が舞台に登場せず、「死者」として語られる存在となっていても、彼らが大きな役割を担い、他の人物の現在をも支配している場合がある。A Streetcar Named Desire (1947) のAllanは、Blancheの現在を大きく操る力を有し、彼女の苦悩を生み出す要素となっている。Cat on a Hot Tin Roof (1955) においては、MargaretとBrick夫婦の関係を脅かす「亡霊」として、Jack StrawとPeter Ochelloの同性愛者カップルの影が彼らの寝室に潜む。また、夫婦の不仲とBrickのアルコール依存は、親友で同性愛者のSkipperの死によってもたらされたものでもある。つまり、これらの同性愛者たちは陰の存在でありながら、主人公たちに君臨し、彼らを支配するのである。
 しかし、Williamsの同性愛者の描写は、その後期の作品において異なってきている。その一つに、1950年代終わりから70年代にかけて執筆されていながら、2004年になってようやく初演を迎えたAnd Tell Sad Stories of the Deaths of Queens…がある。この作品は服装倒錯者のCandyを主人公とし、あくまで喜劇として意図されているようだが、同時にホモフォビアによる暴力の犠牲者としてのCandyの側面も強調されている。また、心臓疾患を抱える彼は常に死の影に怯えてもいる。このように同性愛の問題に正面から取り組んだ作品を描いたことは、60―70年代アメリカにおけるゲイ解放運動との関連がみられ、そこに劇作家自身の政治的メッセージを読み取ることも可能である。同様に、ホモフォビアの犠牲者としての同性愛者を描写している同時代作品として、短編小説“The Killer Chicken and the Closet Queen” (1977) も挙げることができる。
 本発表では以上の視点から、ホモフォビアの犠牲となる同性愛者を描いている70年代以降の作品と、A Streetcar Named Desire, Cat on a Hot Tin Roofのような40,50年代の作品に描かれている同性愛者の描写とを比較、考察する。その過程で、その描写方法においては大きな変遷がみられるものの、同性愛者の人物は、Williamsの劇作キャリアにおいて、常にメッセンジャーとしての重要な役割を果たし続けてきたことを指摘したい。

エクリチュールと私生活を巡るウィリアムズ晩年の亡霊劇――亡霊・狂気・罪悪感

大阪大学  貴志 雅之

 1945年3月31日、「追憶の劇」Glass Menagerieブロードウェイ初演によって、テネシー・ウィリアムズはアメリカ演劇界の表舞台に華々しいデビューを飾る。そして、1975年Memoirs出版後の70年代終わりから最晩年の80年代初頭、ウィリアムズは再び過去を顧みる。言わば、ウィリアムズの劇作家人生は、回想に始まり、回想に終わる。しかし、そこには一つの変化が見られる。もはや存在しない過去を現時点から回想する作品から、自らの劇作活動と私生活の関わりを過去と現在の密接な関係性のなかで内省・反芻する自伝劇へのシフトである。1938年冬から39年春、フレンチ・クオーターでの同性愛劇作家テネシー・ウィリアムズ誕生物語を描くVieux Carré (1978)、そして1980年9月に生きる作家オーガスト(=ウィリアムズ)が40年9月を回想・内省し、二つの時空が交錯する形で舞台が展開するSomething Cloudy, Something Clear (1981)。両作品はいずれも、Glass Menagerieでは現れることのなかった劇作活動(エクリチュール)と同性愛の関係性を顧みる劇作家=同性愛者ウィリアムズの自己内省を遂行する自伝劇である。そして、両作は亡霊または亡霊的存在として登場人物が描かれる点でも特徴的共通項を持つ。この意味で、これら2作の間に創作・上演されたClothes for a Summer Hotel (1980)は重要な意味を呈する。本作品はフィッツジェラルドと妻ゼルダを巡る半伝記的作品である。その点で自伝的である上記2作と異なる。しかし、小説家夫妻の物語の中に、ウィリアムズが自らのエクリチュールと性生活、そして姉ローズを含む親密な人々との関係性を読み込んだ点で、自己内省を巡る自伝劇の変奏と捉えられる。さらに、副題の「亡霊劇」に前景化される通り、Clothes for a Summer Hotel はVieux Carré、Something Cloudy, Something Clear を含む、過去を現在との関係性のなかで反芻する自己内省の亡霊劇という晩年の3作の演劇的特徴を象徴的に表象する。 
 本発表では、ウィリアムズ最後のブロードウェイ上演作品となったClothes for a Summer Hotelを中心に、「亡霊・狂気・罪悪感」をキーワードにウィリアムズのエクリチュールと私(性)生活を巡る自己内省演劇テクスト=亡霊劇のあり方について読み解き、劇作家ウィリアムズの営為を新たな視座から論じられればと考えている。