大会報告

日本アメリカ演劇学会 第2回

と  き 2012年6月30日(土)・7月1日(日)
と こ ろ グリーンヒルホテル神戸(〒651-0001 兵庫県神戸市中央区加納町2-8-3)
テーマ オーガスト・ウィルソン研究

第1日 6月30日(土)

研究発表

司会: 拓殖大学 大森 裕二

1.Joe Turner’s Come and Gone
――アフリカ系アメリカ人の「アメリカ」への道

大阪大学(院)穴田 理枝

 本発表では、そのアフリカ的要素により観客、批評家に賛否両論を巻き起こしつつも、ウィルソン自身が「最も好きな作品」であるとするJoe Turner’s Come and Gone を取り上げる。白人Joe Turnerに連行され理不尽な7年間の強制労働へと従事させられたLoomisがアフリカ系アメリカ人の集まる下宿屋でJubaや祖先の幻影との邂逅などの肉体的、精神的経験を経た後に自らのアイデンティティを獲得して旅立つという物語には、アフリカ系アメリカ人の歴史的な経験が再現される。アメリカ人になることを強要されながら、常に白人のルールによって下位に置かれる彼らは人間としての権利を容易に踏みにじられる。しかし物語の中心となるのはあくまでもアフリカ系アメリカ人の自己覚醒であり、ウィルソンは行商人Seligを登場させることで、白人との協力関係の可能性も描いている。
 物語にはJubaダンス、呪術など身体と深く結びついた文化としてのアフリカ的要素が盛り込まれる。中間航路から流れ着き、人間となって歩き出す骨たちの幻影は直接的にアフリカ系アメリカ人の身体の根元的な意味について言及するものである。また、宗教、男女関係を含めた彼らの人生の選択の有り様についても語られる。アイデンティティ獲得への道は「自分の歌を探す」というメタファーで語られ、彼らの歩みをアフリカ系アメリカ人の口承文化としての音楽史に照らし合わせて論じることも可能である。発表では、奴隷制度廃止後、北部工業地帯への移動を経て本当の意味でアメリカで生きる道を探さなければならなかったアフリカ系アメリカ人が認識すべき自らの身体性や音楽性、さらには選択すべき人生の指標についてのウィルソンのメッセージを読み解く。また、彼らの目指す「アメリカ」が彼らのアフリカ的要素を文化として受け入れるような場所でありうるのかどうかという点についても、ウィルソンの演劇的挑戦の意味を含めて考察する。

2.August Wilsonとヒップホップ
――“Keep It Real”というイディオムのパフォーマティヴィティ

愛知大学 川村 亜樹

 アフリカ系アメリカ人の若者文化として1970年代初頭に開花したヒップホップは、2000年以降、そのコミュニティの重鎮Russell SimmonsによるHip-Hop Summit Action Networkが組織されたことを契機として、若者の政治参加を促進する運動媒体として機能するようになった。また彼はDef Poetry Jamというテレビ番組を制作し、詩人とともに、社会問題に対して「意識ある」セレブ・ラッパーを登場させ、ブロードウェイでの公開もおこない、トニー賞Best Special Theatrical Eventを受賞している。このトレンドのなかで、Hip Hop Theater Festivalが結成され、ラップ、ダンス、グラフィティを統合した新たな芸術様式として「ヒップホップ演劇」が誕生した。そして、2009年にグランド・オープンしたAugust Wilson Center for African American Cultureにおけるダンス・アカデミーのプログラムにも、バレエやアフリカの伝統的な踊りとともに、ヒップホップが組み込まれている。こうした事例から、いま、アメリカ黒人演劇の系譜におけるヒップホップの存在感の高まりが垣間見える。
 すでにWilsonに関する研究書August Wilson and Black Aesthetics(2004)に、Harry J. Elam, Jr.の“‘Keeping It Real’: August Wilson and Hip-Hop”という論文が収められており、Wilsonの描き出す黒人コミュニティとヒップホップが共有する精神性を考察している。だが、Elamが分析対象とするKing Hedley IIの主人公Kingは、設定された時代1985年に30代、つまり、恐らく50年代生まれであり、一般的な定義(Malcolm Xが没した1965年から1984年の間に誕生した世代)に従えば、ヒップホップ世代ではない。その一方で、本テクストが提示する、貧困、サイコロ賭博、家庭における父親の不在、窃盗や殺人などの犯罪の多発と刑務所問題は、ヒップホップ世代の支配的イメージを構成しており、ラップやヒップホップ映画でも繰り返し現れるテーマである。そこで本発表では、ヒップホップ文化を支配する“Keep It Real”というイディオムを念頭に置いて、King Hedley II におけるヒップホップ的要素に焦点を当てるとともに、登場人物たちの手をすり抜けていく「リアル」に対して、公民権運動世代のWilsonが紡ぎ出したメッセージの意義を検討したい。

3.Aunt Esterの誕生について

東洋大学(非) 伊勢村 定雄

 Aunt Esterという登場人物は、August Wilsonが劇作開始当初からキーパースンとして考えていたのではなく、文字通りもがき苦しみながら芝居を書いていく過程で生まれた人物であるという。Aunt Esterは、ピッツバーグという一地方都市にいながらアフリカンアメリカン全てにとっての母であり、精神的な支柱として重要な役割を持つ存在として語られ、登場し、そして時代の進展とともに、姿を消す。だが、最後の作品であるRadio Golfでは、亡くなった後でさえ、彼女は主人公であるHarmond Wilksの動向に大きな影響を与える存在として登場する。
 このAunt Esterが初めて登場するのはTwo Trains Running (1992)であるが、作者自身はSandra Shannonとのインタヴューで、彼が大事にしているのはJoe Turner’s Come and Gone (1986)であり、その中に全てのアイデアが詰まっていると語っている。またRichard PettengillにはBynum Walkerとの関連を問われて、基本的に同じテーマを持っていると答えている。これはとりもなおさず、Century Cycleといわれる一連の芝居を書くためにAunt Esterは誕生したのではなく、以前から存在していた可能性がある。
 それ故、本発表ではこの問題を探るため、これら2作品を起点として、Aunt Esterと類似点の多いBynum WalkerとEsterとの異同を取り上げ、さらに、何故男性から女性へとアフリカンアメリカンの精神的支柱が移っていくのか、その必然性と理由を問題としたい。その議論を進めるにあたって、先ず作品中の女性たちのEster像へつながる可能性を吟味し、更にアフリカンアメリカンの女性たちが背負わされた立場と宿命からかいま見える問題とEster像、そして最終的にEsterが彼らの統合の象徴という立場を獲得する理由を考察し、結果としてEster像の誕生に結び付けられるように議論を進めたい。


第2日 7月1日(日)

シンポジウム
オーガスト・ウィルソンの「20世紀サイクル」とその遺産

司会兼パネリスト  大阪大学  貴志 雅之
パネリスト  大阪大学  岡本 淳子
   神戸大学  山本 秀行
   東洋大学名誉教授  桑原 文子

 アメリカ初のノーベル賞受賞劇作家ユージン・オニールは、かつてニューイングランド名門一族の独立戦争から1932年に及ぶ一族史を通し、富と権力の欲望に駆られ自己の魂を喪失するアメリカ人の姿を描こうとした。11作よりなる連作劇「サイクル」、「自己を喪失した所有者の物語」である。しかし、構想のあまりの巨大化により大半の作品創作が頓挫し、オニール・サイクルは未完に終わる 。
 オニール亡きあと半世紀、アメリカに新たな「サイクル」の完結をもたらせたのがオーガスト・ウィルソンである。ウィルソンの「20世紀サイクル」(「ピッツバーグ・サイクル」)は20世紀100年の名もなきアフリカ系アメリカ人の民衆史を10年単位全10作で描く。しかも、そこで語られる物語は20世紀に留まらず、アフリカより初めて奴隷がアメリカにもたらされた17世紀初頭から20世紀末に至る380年の歴史をも映し出す。このアフリカ系アメリカ人年代記こそ、現在に至るアメリカを描く唯一の歴史連作劇「サイクル」に他ならない。
 2005年、「20世紀サイクル」最終作Radio Golf 初演の年の10月2日、ウィルソンはこの世を去る。その後、Radio Golf で予見された黒人指導者の登場は、2009年1月、アメリカ初の黒人大統領、第44代バラク・オバマ大統領誕生となって現実のものとなる。以来、劇作家ウィルソンと若きアメリカ大統領を結び付ける論評や報道は数多く、2009年5月30日、オバマ夫妻によるベラスコ劇場でのJoe Turner’s Come and Gone 観劇は、いっそう両者の繋がりを印象付けるものとなる。こうして黒人と白人の混血という人種的ルーツを大統領と共有するウィルソンは、アメリカの人種政治学で一つの強力なイコンとなり、彼の「サイクル」は国家的歴史ナラティヴとしてアフリカ系アメリカ人の歴史と存在をアメリカ社会と国民の意識に強く刻み込むものとなっている。オバマ政権が4年目を迎える今年、11月の大統領選でアメリカ国民は初の黒人大統領に審判を下す。この政治展開をみせるアメリカで、ウィルソン作品はさらなる注目と再評価を受け、アメリカの過去から現在、未来を考えるうえでまた新たな指針を与えてくれるにちがいない。つまり、2012年はウィルソンの「サイクル」について1つの総括的再検証・再考を行う意義深い年であると言える。
 本シンポジウムでは、ウィルソン批評研究の動向を踏まえつつ、パネリストそれぞれの視座からウィルソンの「20世紀サイクル」を読み直し、その遺産の意味・意義を考える。それにより、オーガスト・ウィルソン研究、アフリカ系アメリカ演劇研究、さらにはアメリカ演劇・文化研究の新たな議論を拓く契機になれば幸いである。

(貴志 雅之)

アフリカ系アメリカ人にとっての神、亡霊、そして子孫
――交換価値・使用価値としての存在からの脱却

大阪大学 岡本 淳子

 オーガスト・ウィルソンのサイクル劇の第二作目Ma Rainey’s Black Bottom(1984)のなかに“African conceptualization”という言葉が出てくる。欲求を達成するために神や先祖の名を唱えることを意味し、それをウィルソンは非常にアフリカ的なものとして捉えている。
 本発表では、上記の作品に加え、神やイエス・キリスト、先祖や白人の亡霊、あるいは夢に出る亡き者の言葉を扱ったThe Piano Lesson (1990)とSeven Guitars (1996)を扱い、アフリカ系アメリカ人にとっての神の存在、奴隷として生きた先祖に対する思慕と反発、そして彼らの子孫が継承するものについて論考する。その際、ウィルソン作品に共通する要素である、アフリカ的なものへの愛着、白人に対する憎悪、白人に同化することへの願望など、アフリカ系アメリカ人のなかに見られる白人社会に対する温度差、あるいは個人の中に存在する感情の矛盾を考察する。また、交換価値あるいは使用価値としての存在である奴隷として生きた時代が終焉した現在においてもなお、そのような存在として扱われ続ける彼らの苦悩と葛藤を明らかにし、それがどのような形で解消されるのかについても論じる。加えて、エピソードとして頻繁に語られる白人による黒人の殺害や黒人間の殺し合いに注目し、アフリカ系アメリカ人にとって彼らの血を残すことが非常に困難である点と、ウィルソン作品の登場人物がこだわる土地所有への執着を分析し、所有される立場にあって何も所有することが許されなかった彼らにとって、子孫への遺産とはいったい何なのかを考えてみたい。

August Wilsonの劇におけるアフリカ系アメリカ人のマスキュリニティ
――Radio Golf とFences を中心に

神戸大学  山本 秀行

 August Wilsonは、ピッツバーグの黒人居住区を舞台にした10の作品から成る一連のサイクル劇(“Pittsburg Cycle”)において、20世紀におけるアフリカ系アメリカ人のアイデンティティを探求している。ドイツ系の父を持ち、白人の血を半分引くものの、アフリカ系アメリカ人男性として強い意識を持ち、作品において黒人男性の登場人物を描くことが多いWilsonにとって、それはアフリカ系アメリカ人男性のマスキュリニティ(男性性/男らしさ)の探求であるとも言えよう。
 伝統的にアメリカの主流社会において、アフリカ系アメリカ人のマスキュリニティは、その強い身体的能力・体躯に起因して、白人にとって脅威となりうる「野蛮で攻撃的なhyper-masculineなもの」として、あるいは、その低い経済的・社会的ステータスに起因して、白人にとって制御可能な「愚かで従順なemasculatedなもの」として、二極的にステレオタイプ化されることが多かった。August Wilsonは、アフリカ系アメリカ人の歴史を描いたサイクル劇において、時代とともに変容していくアフリカ系アメリカ人のマスキュリニティを、アフリカ系アメリカ人自身の立場から、こうした二極的ステレオタイプに拠らない形で描き出そうと試みている。
 サイクル劇の最後を飾る作品Radio Golf (2005)では、1990年代後半(1997年)のアメリカにおける、アフリカ系アメリカ人のマスキュリニティの問題点とその方向性が示されている。市長を目指しているアイビーリーグ出身の不動産会社経営者Hammond Wilkesやその親友でゴルフに熱狂する余り買収したラジオ局でゴルフ・レッスンの番組を持つまでになった投資家Roosevelt Hicksなど、この劇のアフリカ系アメリカ人男性の登場人物たちは、これまでのWilsonの劇と異なり、高い社会的・経済的ステータスを持っているが、そのシンボルとして機能しているのが、ゴルフというスポーツである。これは、Jackie Robinson以前の白人至上主義のメジャーリーグから門戸を閉ざされた元ニグロ・リーグの野球選手で今や、ごみ収集の仕事をして細々と生活をしているTroyを主人公にしたFences (1987)において、野球というスポーツが当時のアフリカ系アメリカ人の社会的・経済的障壁のシンボルとして機能しているのとは好対照をなす。
 この発表では、August Wilsonの劇におけるアフリカ系アメリカ人のマスキュリニティを、Radio Golf とFences を中心に、主としてスポーツと人種、ジェンダー、階級との関係から考察していきたい。

ピッツバーグ・サイクルにおける都市再開発の影響
――Two Trains Running を中心に

東洋大学名誉教授  桑原 文子

 ピッツバーグ・サイクルの後半の年代を扱う作品を貫く重要なテーマに、都市再開発の問題がある。ピッツバーグ・ルネッサンスと称される大規模な再開発計画は、煤煙立ちこめる鉄の町からクリーンな近代都市への転換をはかるものであった。開発、進歩を標榜するこのプロジェクトによってビジネスの中心ダウンタウンはみごとに再生したが、サイクル劇の舞台、ヒル地区は壊滅的な打撃を被った。市当局の手による建物の取り壊しで地区住民の多くが生活基盤を失い、彼らが築き上げたコミュニティも崩壊してゆく様を、若い日のウィルソンは目の当たりにした。櫛の歯が欠けたようになったヒル地区は、彼の青春時代の原風景である。
 本発表では、1969年に設定されるTwo Trains Running を中心に、再開発が登場人物に及ぼした影響を検討したい。スラム一掃計画で取り壊し予定となっているレストランの所有者、メンフィスは、市当局との買収額の交渉で頭を痛めている。彼に精神的な支持を与えたのは、アフリカ系アメリカ人の知恵の表象、エスターおばさんである。彼女の「ボールを落としたら、戻って拾わなくちゃ駄目」という助言を、西アフリカの「サンコファ鳥」のイメージと重ねながら解明する。また、毎朝肉屋の前で「俺のハムをくれ」を繰り返すハムボーンの行動の意味するところを分析する。
 その後再開発はどのような方向に向かったかを、1970年代に設定されたJitney、殺人が頻発し黙示録的な様相を呈する1980年代のKing Hedley II、またアフリカ系アメリカ人の二極分化が進行した1990年代のRadio Golf の3作品をとおして検証する。都市再開発によって困難な状況に追い込まれたブラック・ゲットーの人びとが、なお未来に向かって進もうとする姿から、ウィルソンが説くアフリカ系アメリカ人の文化的伝統、アイデンティティ保持の重要性について考えてみたい。

アフリカ系アメリカ人共同体、人種的遺産継承の政治学
――Gem of the Ocean からRadio Golf へ

大阪大学  貴志 雅之

 オーガスト・ウィルソンは当初より10作の「20世紀サイクル」(「ピッツバーグ・サイクル」)を構想していたわけではなかった。JitneyFullerton StreetMa Rainey’s Black Bottom を執筆した時点で、3作それぞれ10年単位で時代設定をしていたことに気付いたウィルソンは、この方法による作品執筆継続を決意する。そうして生まれたのが「サイクル」だった。一方、20世紀の最初と最後の10年間を扱い、「サイクル」の2つのブックエンドと称されるGem of the Ocean(2004)とRadio Golf(2005)は、他の8作が完成した後に執筆される。つまり、両作はサイクル全体構想を俯瞰する形で、時代の変遷に伴う物語展開とテーマの一貫性と方向性を図るべく周到に用意された20世紀アフリカ系アメリカ人物語の第1章と最終章に他ならない。言い換えれば、両作をもって「サイクル」は、1つの長編歴史物語として完結する。
 注目すべきは、1904年を描くGem of the Ocean と1997年を扱うRadio Golf を含め、サイクル9作の舞台となるピッツバーグ、ヒル地区に形成される黒人共同体の姿とその変遷である。特に上記両作に描かれるいずれの時代も、黒人共同体とその遺産を継承し守る側と、白人社会の法と価値観に拠り所を見出す側が対立する。この同一人種内の対立構造は、ほぼ1世紀を隔てた作品舞台に解消されがたい葛藤として展開する。しかしその一方で、Gem of the Ocean に見られる対立関係がRadio Golf において黒人共同体を守り継承する1つの血族の絆へと生まれ変わり、新たな戦士、継承者を生む。
 本発表では、2作を結ぶこのストーリー・ラインを念頭に、自らを「戦士の魂」を持つ「政治的劇作家」だと語ったウィルソンの政治学を、「サイクル」に描かれるアフリカ系アメリカ人コミュニティのあり方と人種的遺産の継承をめぐる問題系を通して考察していく。それによりウィルソンが映し出すコミュニティ像とその政治学を読み解き、彼の「20世紀サイクル」の遺産とその継承の意味について議論を深めることができればと考えている。