大会報告

日本アメリカ演劇学会 第12回大会

と  き 2023年8月26日(土)・8月27日(日)
と こ ろ クロスウェーブ梅田
テーマ 21世紀アメリカの女性劇作家

第1日 8月26日(土)

研究発表 

司会:茨城大学 中山 大輝

1.August WilsonSuzan-Lori Parks作品における「正義の倫理/ケアの倫理」

                                                               大阪大学(院) 松岡 玄

 Carol Gilliganによれば、道徳的問題には「正義の倫理」と「ケアの倫理」という二つの語り方がある。「何が正義に適うか」という「正義の倫理」に依拠した判断基準ではなく、「他人は何を求めているか」「誰をケアするべきか」という問いかけに依拠した「ケアの倫理」は、自己を他者と相互依存的な関係の中にある存在として捉える。こうしたGilliganの指摘はそれまで男性中心的であった道徳の問題に新しい視座をもたらすとともに、ケア・ワークへの従事という性役割を担わされてきた女性の問題に焦点を当てる。 

 「ケア」という行為は、過酷な歴史を辿ったアフリカ系アメリカ人にとっても重要なものであった。生存と繁栄のためにアフリカ系アメリカ人にとって家族からの、あるいは共同体内でのケアは重要な位置を占めていた。August Wilsonの作品においては、闘う男性とそれをケアする女性という構図が繰り返し提示される。Fencesに代表されるように、往々にして男性登場人物たちは成功を追い求める一方で、そうした男性たちをケアする女性たちは男性との関係性に重きを置き、そうした関係性から自己を定義しようと試みる。「ケアの倫理」に従って生きる登場人物と「正義の倫理」に従って生きる登場人物の相違が葛藤を生み出すが、こういった女性の描き方を多くの批評家は疑問視してきた。

Suzan-Lori Parksの作品では男女の二項対立に還元されない「正義の倫理」と「ケアの倫理」を描くことにより、それらの関係性や「ケアの倫理」の限界が探求される。Topdog/Underdogではケア労働が不十分な中互いにケアをしあって生活するアフリカ系アメリカ人の兄弟が、関係性に優劣をつけ“Topdog”になろうと互いに勝負に挑むに至る。家族をケアするという「ケアの倫理」と相手よりも優位に立とうとする「正義の倫理」との間に揺れる男性の姿が描かれる。Fucking Aでは堕胎という他の女性のケアを担うHesterが、その能力を「復讐」という「正義の倫理」に依拠した暴力に用いるさまを描き「ケアの倫理」に基づく行為と「正義の倫理」に基づく行為とが必ずしも二項対立とは限らないことを示唆する。また、屠畜という生命の維持には不可欠な行為が死を求める子の殺害に用いられ、「ケアの倫理」の限界が模索される。

本発表では、「ケアの倫理」という観点からWilson劇とParks劇を研究することにより、Wilson作品におけるケア労働が再評価できるとともに、Wilson作品とParks作品の比較を通じて20世紀から21世紀という世紀転換期における現代アフリカ系アメリカ演劇の「ケアの倫理」の描き方の多様性を提示することができるということを示す。

司会:愛知学院大学 藤田 淳志

2.無理解なのは誰か

――The Goat or Who is Sylvia? におけるエゴと欲求

大阪大学(非) 西村 瑠里子

本研究発表は、Edward Albeeによる演劇作品におけるバイオポリティカルな読みの有用性を検討するものである。人を生きながらえさせる政治体制、バイオポリティクスにおいて、生はより快適な生活と円滑な社会のための管理対象であり、時にその欲求は気付かれないほどに自然な形で制限されている。

こうした生と政治の関係性への意識は、Albee劇にも見受けられる。精神への統制はThe Zoo Storyから描かれ、身体の物象化はThe American Dreamにおいて、遺伝や優生学的側面はWho’s Afraid of Virginia Woolf? において展開される。心身への統制による言語表現の限界はSeascapeへ、一方、人間の価値や精神と身体の一貫性は、Three Tall Womenへ引き継がれる。またこれら二作品の世界観は、観客を社会が規定する秩序から引き離す効果を持つ。こうした技法やテーマの収斂として晩年作The Goat, or Who is Sylvia?を指摘したい。

本発表はThe Goat, or Who is Sylvia?に着目しバイオポリティクスの観点から分析することを試みる。まず矯正院のイメージに着目することで、治さなければならないものとしてMartinのヤギのSylviaへの愛が強調されていることを確認し、人間の感情や欲求への統制と、社会を円滑に動かすためのスケープゴートというMartinの役割を指摘する。そのうえで、夫婦の相互理解の試みとヤギの役割に着目する。ヤギ殺しを、妻であるStevieがMartinを理解することによって生じた結果として指摘することで、他者の無理解の被害者であるMartinの、加害者としての可能性を明らかにすることを試みる。

第2日 8月27日(日) 

シンポジウム:

Paula Vogelの娘たち――21世紀アメリカの女性劇作家と「傷」のドラマツルギー

司会・パネリスト大阪大学岡本 太助
パネリスト大阪大学(非)村上 陽香
パネリスト広島経済大学森  瑞 樹
パネリスト中央大学黒田絵美子

 Tony Kushnerの大作Angels in Americaに関する評論において、David Savranは1990年代のアメリカ演劇の凋落ぶりを嘆き、Angelsがアメリカ演劇にとっての救世主として大きな期待をもって迎えられたことを指摘している。21世紀に入っても、依然としてブロードウェイが輸入されたメガミュージカルや名作のリバイバルに依存する状況は変わらないものの、新しい世代の劇作家とその作品の批評的/興行的成功がアメリカの演劇界に活況をもたらしているのも事実である。そしてそうした新しい世代の劇作家の多くが女性であるという事実は、現在私たちが目撃しているのが、アメリカ演劇史において例を見ない特筆すべき構造変化であることを示唆している。

さらに、21世紀アメリカ演劇を牽引する女性劇作家の顔ぶれを見ると、彼女たちの多くが劇作家Paula Vogelの影響で劇作の道に足を踏み入れたという経歴の持ち主であることにも気付かされる。ある者は大学で直接Vogelから劇作の手ほどきを受け、またある者はVogelが打ち出した革新的技法やテーマをインスピレーション源として劇作を行っている。これら「Paula Vogelの娘たち」の劇作に見られる共通点や作家それぞれの個性を比較検討することで、21世紀アメリカ演劇の現在地について新たな知見を得られるのではないか。それが本シンポジウム企画の出発点となった仮説である。またこれは、2014年度大会の「21世紀アメリカ演劇研究」が依然として男性作家中心のテーマ設定であったことへの反省から、アメリカ演劇史とアメリカ演劇研究史の暗黙の前提を批判的に見直す試みともなるだろう。

シンポジウムの構成としては、まず岡本がPaula Vogelの劇作の特徴について概説したうえで、弟子であるSarah Ruhlの作品におけるVogelからの影響を例証する。続く各パネリストによる個別発表では、Vogelからの影響を念頭に置きつつも、それぞれが取り上げる劇作家とその作品の分析を中心に報告を行う。いずれも21世紀に入り活動を始めた女性劇作家を対象とする点では共通しているが、Vogelからの影響ということとは別に、これらの作家が様々な意味での「傷」とそれにまつわる経験や感情をどのように物語化・舞台化するのかという視点を、今回のシンポジウムのテーマとして導入する。その「傷」は戦争による身体的あるいは精神的トラウマであるかもしれないし、性的暴力や人種間の暴力によって受けた傷であるかもしれない。あるいは病や事故による身近な人びとの死とそれが生み出す喪失感もまた、一種の傷であるだろう。言うまでもなく、Vogelはまさにこうした「傷」に人はどう向き合うべきかという問いを、その劇作の中心テーマとしてきた。そしてその問いを演劇という手段で提示するための創意工夫こそが、後続世代の劇作家たちに最も大きな影響を与えたのであり、21世紀アメリカの女性劇作家による「傷」のドラマツルギーを読み解くことは、同時にPaula Vogelが生み出した新しい演劇の「かたち」を素描し、またそれを起点とする女性劇作家たちの系譜をたどることでもあるだろう。

(岡本 太助)

死者と踊る――Paula VogelSarah Ruhl劇における翻訳されえない痛みについて

大阪大学 岡本 太助

 David Savranは、Paula Vogel(1951- )の作品集The Baltimore Waltz and Other Playsに寄せた序文において、Vogelの劇作の特徴を以下のようにまとめている。まずVogelは過去の演劇作品を題材としてそれらを批判的に書き直す、言わば制度化された演劇そのものを脱構築する作家である。またシクロフスキーやブレヒト的な異化がVogelの劇作では多用され、それによりありふれた物事をあらためて批判的に見直すことが促される。そしてフェミニストを自認するVogelではあるが、彼女にとってフェミニストであるということは「政治的に正しくないこと」と同義であり、社会的に何が容認され何がされないかを決める基準そのものを異化するような態度を意味する。同様にJoanna MansbridgeもVogel劇における異化の重要性に言及し、Vogelはエイズやポルノグラフィといった議論を呼びそうなトピック「について」書く作家ではなく、それらのトピックが議論の争点として取り上げられるに至る社会的・政治的プロセスそのものを演劇という手段で提示し、そうしたトピックに対して私たちがみせる「習慣化された反応」の異様さを暴き出すのだと述べている。

Paula Vogelの劇作のこうした特質が如実に表れるのは、例えばエイズで亡くなった兄についての追憶をダンスや外国語学習教材という形式になぞらえて提示したり(The Baltimore Waltz, 1992)、未成年者を性的に搾取した男とその被害者であった女性の関係を運転免許講習(とLolita)の形式を借りて探究したり(How I Learned to Drive, 1997)というような、形式の借用によって異化効果を狙うケースだろう。口にするのもはばかられるような経験や出来事を演劇作品へと「翻訳」することによって、それを公の場での議論に向かって解き放つためにこうした技法が用いられるわけだが、端的に言えばそれは他者の抱える痛みが演劇というフィルターを通して私たち観客へと伝達されうるということ、つまり「痛みの翻訳可能性」を前提としている。これは他者の痛みの共有に他ならないが、Susan Sontagに言わせれば(Regarding the Pain of Others)、痛みの共有に際して暗黙のうちに想定される「私たち」なるものが、何よりも疑わしい前提であろう。Vogelが持つ、痛みを伝える手段としての演劇の有用性への信頼と、演劇によって痛みを翻訳することができるという考えに対する疑念のあいだに生じるアンビヴァレンスが、彼女の劇に独特の緊張感を付与していると言えるだろう。

大学時代、父の闘病生活とその後の死別という辛い時期にVogelと出逢い劇作を志すこととなったSarah Ruhl(1974- )は、上述のようなVogelの劇作理念からもっともダイレクトに影響を受けた作家である。他者の痛みを「翻訳」することはできるのか、あるいはそもそも「翻訳」されえないことにも大きな意味があるのではないか。そうした問いをソープオペラの形式で舞台化するThe Clean House(2004)を中心に、死者との対話をテーマとするDead Man’s Cell Phone(2007)やLetters from Max(2023)なども参照しつつ、VogelからRuhlへと継承される「傷」と「痛み」のドラマツルギーを明らかにしたい。

Lynn Nottageによる非識字者たちの恋愛物語――傷と癒しの共有

大阪大学(非) 村上 陽香

Lynn Nottage(1964- )は、女性劇作家として唯一、二度のPulitzer Prize for Dramaを受賞している。一度目の受賞作であるRuined(2008)では、コンゴ共和国での紛争の中、バー兼売春宿を舞台にMama Nadiと彼女が雇い、囲う女性たちが描かれる。彼女たちは戦時中、兵士によるレイプや性奴隷扱いの被害に遭い、家族や地域からも追い出され、行き場を無くしてMama Nadiの元へ辿り着いた。Mama Nadi自身も深刻な性暴力の結果、女性としての性的能力を喪失しており、作品タイトルになっている“ruined”の状態にある。同じように“ruined”な存在としてMama Nadiの元へやってくるSophieが、特別な役割を担う。本作を語るとき、焦点にされがちなのは戦争における女性の凌辱や、彼女たちの生殖能力の剥奪が持つ軍事的な意味合いである。

しかしながら本発表では、Mama Nadi同様に“ruined”であるSophieだけが読み書きができるという点に注目し、読み聞かせによる物語の共有というパーソナルな関係性からRuinedの新たな読みを提示したい。Ruinedに登場する女性たちはほとんどが文字を読めず、Sophieが彼女たちに本を読み聞かせる。彼女が読んで聞かせる恋愛小説は、女性たちにとっての“refuge”となっている。文字が読めない、性的暴力や搾取によって傷を負った女性たちが、代読によっていかに癒しを得ているか、そしてその内容が、彼女たちが自分ではもう体験することのない恋愛の物語であることの意味について考察する。

また、Intimate Apparel(2003)では、読み書きのできない黒人の女仕立屋Estherが、裕福な白人客や性産業に従事する黒人の友人に代読と代筆を頼みながら会ったことのない文通相手と心を通わせ、ついには結婚に至る。Estherは黒人、女性、そして35歳にして独身であるという多重の痛みに晒されているが、この文通が彼女に与えた、幸福な結婚生活や黒人向けパーラーを開くという夢への希望は多大だった。最終的にこの結婚は失意に終わるが、文字が読めない、あるいは書けないEstherが、周囲の人物の力を借りながら文通という一種の恋愛物語を紡ぐことで、癒しや自立への力を獲得していく側面がこの作品にも含まれていると考えられる。性別による、あるいは人種による痛みや傷を負い、自分では読むことも書くこともままならない女性たちが、他者との繋がりを通じて恋愛に関する物語を共有し、癒しを得る可能性について、本発表では考えていきたい。

傷跡はそのままに­­­

――Quiara Alegría Hudes作品が見せる異質な繋がりを生むドラマツルギー

広島経済大学 森 瑞樹

かねてより傷/傷跡を隠したいという欲求は私たちの社会において一般的なものとして受け入れられている。それは文字通りの傷/傷跡のみならず、隠しておきたい性的指向や身体的特徴といった比喩的な傷/傷跡にも当てはまる。そもそも傷/傷跡という言葉は、異質なそれを取り囲む正常な皮膚組織の存在があってこそ意味を成す。そして傷を治す/傷跡を消すという行為はいわゆる正常な組織へとそれらを均質化してゆくことである。そこからは「迫り来る死のトラウマ」(Frank Seeburger)を呼び覚ますものであると同時に、共同体へ参画するための異質ではない「私たちであること(we-ness)」(Seeburger)を脅かすものとして傷/傷跡を忌避してきたという文化的背景が透けて見える。しかしながら昨今の欧米においては、セレブリティが傷/傷跡を隠さずに公の前に立つことも多くなり、またそれが肯定的に受け止められている。それは傷/傷跡を自分自身であることの印として内在化・歴史化し、同時にその異質な自己そのものを開示する行為に他ならない。本発表では傷/傷跡を均質化の対象である異質なものでありながら、同時に確固たる自己を表明するメタファーとして扱うこととする。

Quiara Alegría Hudes(1977- )はプエルトリコ系のアメリカ人(父はユダヤ系で母がプエルトリコ系)としてラテン系コミュニティで生まれ育った。そして彼女は幼い頃より自身が口にするスパングリッシュという特異な言語も含め、アメリカという社会において自身が異質な存在であることを自覚していたようだ。だからこそと言うべきか、劇作を始めてからは正しい英語で、いわば均質化された言語で執筆しなければならないという観念が彼女に取り憑いていた。しかしその後、師であるPaula Vogelの言葉により、そのオブセッションは払拭されたとHudesは回顧している。彼女の自伝My Broken Language(2021)のタイトルそのものが明らかにするように、「壊れた(傷ものの)言葉」でなければ真のラテン系の物語を描くことは能わない。すなわちHudesはその作品において、アメリカという社会における異質なものとして自身らを浮かび上がらせてゆくのである。

そこで本発表では、主にElliot三部作を扱い、ラテン系アメリカ人をアメリカ社会に刻まれた異質な傷/傷跡として提示しようとするHudesのドラマツルギーを検討してゆく。その過程において、それらの傷/傷跡を取り巻く正常な皮膚組織としての「アメリカ」の姿を浮き彫りとし、アメリカにとって不可視のものであったラテン系の歴史及び文学(Gabriela Baeza Ventura & etc.)のあり方に新たな視座を提供したい。

HappinessへのObsessionがもたらす痛みについて

――Amy HerzogBellevilleの作品分析より

  中央大学 黒田絵美子

Amy Herzog(1979- )のBelleville(2011)を中心に、現代アメリカ演劇を代表する女性劇作家であるHerzogが作品において探求する「痛み」について分析する。パリのアパートを舞台にしたアメリカ人若夫婦のpsychological thrillerと評されるBellevilleでは、happinessの追求が登場人物らを苦しめるobsessionとなっていることがドラマの底流として提示されている。例えば、28歳の妻Abbyは幼少期より両親から「おまえがhappyであれば将来何をしてもいい」と言われて育ったことが今の自分の精神不安定の原因となっていると語り、同い年の夫Zackが自分を気遣って「君はどうしたい?」と尋ねることに非常な苛立ちを見せる。一方、夫のほうも妻の気に入ることは何かと慮ることに終始する生活に疲れており、マリファナを吸うことが常態化している。

本来、「痛み」とは対極に位置するはずのhappinessがobsessionとなり、苦痛の元となるという皮肉な現象については、多くの一般向け著書や研究書でも指摘されている。貴志雅之編『アメリカ文学における幸福の追求とその行方』(2018)においてもアメリカの小説や演劇の中で展開される「幸福の追求」とその行方について、本学会会員たちが論考を寄せている。Herzogと同じYale大学で法律学を専攻したアメリカの人気作家Gretchen Rubin (1965- )のHappiness Project(2011)は、「幸福」をアメリカのpragmatismに落とし込んだ著作であり、happinessの実感を得るための具体的な手法を提示している。

アリストテレスは「幸福」の根本は個人の生き方における美徳の追求にあるとしたが、ベンサムは「最大多数の最大幸福」という社会としての幸福の追求に力点を置いて「幸福」を論じた。さらに、「すべての人民が平等」に、「生命、自由及び幸福の追求」をする権利を有するとしたアメリカ独立宣言の理念を具現化した合衆国憲法は、1787年の成立以来、現在なお機能している世界最古の成文憲法であり、民主主義の理想を謳うものである。しかし、今日、アメリカのみならず民主主義国家とされる国々において、平等や自由が理想的な形で実践されているか否かの答えは明白であり、コロナ禍を経験したわれわれは「生命」の尊厳についても危機的状況下では公平性が保たれないことを学んだ。

自らをRed diaper babyと称し、二世代前から共産主義者の家庭に育ったことを明かしているHerzogは、処女作After the Revolution(2010)や4000 Miles(2011)の中で人間の行動において何が正義であるのか、その理想と現実を丹念に探究しており、「幸福の追求」という合衆国憲法の看板を異化するような外部的視点を持った作家である。 舞台をパリに設定し、会話にフランス語を織り交ぜたアウェイな状況の中に、それぞれに問題を抱えるアメリカ人夫妻を置くという実験的視点によりHerzogが試みている幸福、正義、自由の追求とは何かを考察し、現代アメリカ社会における「痛み」について分析する。