とき 2024年9月17日(火)・18日(水)
ところ 東洋大学 白山キャンパス 6号館 6215教室
テーマ ジャンルを超えるアメリカ演劇II
第1日 9月17日(火)
研究発表
司会:青山学院大学 外岡 尚美
1. ケアから殺しへ――Suzan Lori ParksのFucking Aにおける公的権力と弱者の関係性
大阪大学(院) 松岡 玄
Suzan-Lori ParksのFucking AはThe Scarlet Letterを下敷きに執筆された戯曲だが、罪を贖うために “A”という字を纏い社会から侮蔑の対象とされるHesterという名の母親と彼女の子が登場する、罪と罰に関する物語という共通点を除いて、本作はThe Scarlet Letterからは大きく改変された作品となっている。架空の地を舞台にした寓話的な本作では、Hesterは幼い頃投獄された息子を出所させるため、望まぬ妊娠をした女性たちの堕胎を生業とする。Hesterの息子Boy/Monsterの脱獄と、Boy/Monsterが投獄されるきっかけとなったThe First LadyへのHesterによる復讐という2つのプロットが交錯し、物語は展開する。
本作で重要となるのが、母親とケアの問題である。息子の出所のために尽力するHesterは子のケアに献身する母親だと言える。また、Hesterによる堕胎は病院やクリニックにかかることができない母親たちのケアとして機能する。問題となるのは、このようなケアする関係に公的権力が作用するということである。堕胎師という役割は国家権力から弱者であるHesterに課されたケアであり、このようなケアを行うためにHesterは堕胎師であることを示す“A”の文字を身体に刻まれ、社会から蔑まれる地位へと貶められ、さらなる弱者へと変化させられる。それでもHesterは息子を出所させるべく堕胎師として生きるが、こうした努力は公的権力による経済的な搾取の結果、Boy/Monsterの出所にはつながらない。
堕胎は、本作の結末においても重要な役割を果たす。女性のケアに用いられてきたはずの堕胎が、First Ladyへの復讐に、つまり弱者である女性に対する暴力を行使するための手段として用いられるからだ。ここでも公的権力が作用し、Hesterによる暴力は公的権力に向けられることがないように仕向けられている。
本発表では、Parksが描き出すケアが不可能なディストピアにおける公的権力・ケアを担う弱者・ケアされる弱者の関係性を分析する。そして寓話的な本作が指し示すケアすることの困難さとケアと暴力との関連性が、現実世界においてアフリカ系アメリカ人を取り巻く母子とケアの諸問題を浮き彫りにするという点を論じる。
司会:摂南大学 天野 貴史
2.外側からの批判――
American Dervishで描かれる排他的姿勢とAyad Akhtarのムスリム・アメリカン像
茨城大学 中山 大輝
パキスタン系アメリカ人劇作家Ayad Akhtar (1970-) の評価をめぐっては、戯曲Disgraced (2012) でピューリッツァー賞を2013年に受賞したこともあり、彼が、同時多発テロ事件以降に生きるムスリム・アメリカンを取り巻く苦境やアイデンティティの問題を描こうとした、と考察されてきた。しかし、彼の長編小説American Dervish (2012) の先行研究では、イスラム教の偏屈さを同作が指摘している、とも論じられている。この事実を踏まえれば、Akhtarの作家論について、周縁化を被るムスリム像以外の視点からも論じていく必要があると思われる。Akhtarは、かつて、インタヴューで自身の出自に触れながら、パキスタンとアメリカ、それぞれの文化からoutsiderでいることで得られる視点があると語っている。このことを踏まえれば、Akhtarがoutsiderという立場からムスリム像を描こうとしていたと考えることができるが、その像がどのようなものなのかについては、まだ議論の余地があるように思う。
本発表は、Akhtarが描こうとしたムスリム・アメリカン像を再検討するものである。American Dervishの主人公Hayatについて、先行研究では、彼がムスリムとしてのアイデンティティを喪失したと論じられてきた。しかし、Hayatが本作終盤でQuranを引用していることからも、Hayatがムスリム・アイデンティティを喪失したと論じるには、疑問の余地が残る。むしろ問題視すべきは、アイデンティティを喪失すると断じてしまうという、イスラム教の信仰心をめぐる非寛容的な姿勢である。作品冒頭で描かれる、ドイツ人研究者によるQuranの新解釈に激怒し、大学の講義を退室する学生たちの姿からは、Quranの多様な解釈を認めようとしない、ムスリムたちの排他的姿勢が明瞭に読みとれる。この排他的姿勢を指摘しながら、Akhtarが描こうとしたものは何か。以上を踏まえ、本発表では、イスラム教・ムスリムたちの排他的姿勢に着目しながらAmerican Dervishを読み、Akhtarがoutsiderという言葉を通じて提示しようとした問題意識を詳らかにすることを目的とする。
第2日 9月18日(水)
シンポジウム:アメリカ演劇とその他者――InterconnectednessとIntertextualityの諸相
司会 | 大阪大学 | 岡本 太助 |
パネリスト | 大阪大学名誉教授 | 貴志 雅之 |
パネリスト | 静岡大学 | 辻 佐保子 |
パネリスト | 神戸大学 | 平川 和 |
2017年度の日本アメリカ演劇学会大会では、新たな試みとして「ジャンルを超えるアメリカ演劇」と銘打ち、Henry JamesとWilliam Faulknerという二人の小説家による劇作の試みに関するシンポジウムを開催した。それぞれ「小説と演劇のインターフェイス」と「ジャンル横断の試み」をテーマに行われたこれらの作家をめぐるシンポジウムは、本学会がカバーする研究領域を拡張するのみならず、演劇以外の研究者との対話の可能性を指し示すものとして、それ自体が果敢な領域横断の試みであった。
本シンポジウムはその延長線上に位置するものであるが、今回は小説と演劇という二つのジャンル間での越境にとどまらず、演劇作品とそれに先行する別の演劇作品との間テクスト的つながりや、舞台ミュージカルとラジオ・コメディという性質の異なるメディアの間の双方向的影響関係、さらには作家から作家への創作スタイルの継承といった多角的な視点から、演劇というジャンルの外延を見定めてみたい。自律的なジャンルとして存在するかのように見える演劇というものは、実際にはそれと異なる何かから影響を受け、それを反復し模倣することによってのみその自律性を確保しているのでないか。つまり演劇は常にそれ自身にとっての他者の幻影にとり憑かれているのであり、逆に言えばそのような存在様態(ontology)――あるいはこれをJacques Derrida流に「憑在」様態(hauntology)と呼んでもよい――をこそ、我々は演劇と呼んでいるのではないか。こうした、きわめて概念的ではあるが、演劇とは何かという根本的な問いについて考えるうえでは決して無視できない仮説を、各パネリストによる具体的作品や事例の分析を通して検証する。
Tony KushnerのAngels in Americaのエピローグ、ペレストロイカ後の世界に急速に広がる複雑な関係性のネットワークを幻視した登場人物たちは、その「奇妙な相互のつながり(the weird interconnectedness)」について語り合う。上に述べた演劇とその他者との関係性もまた一種のinterconnectednessと捉えることができ、そこに生じるつながりはまさに奇妙奇天烈というほかない。一つの作品はそれ以外の作品との関係性においてのみ意味をなす、あるいは新しい作品は過去の作品を引用、参照、あるいは盗用することによって作り出されるとする考えは、言うまでもなく「間テクスト性(intertextuality)」の概念に根差している。演劇の分野では同じ現象を「ゴースティング(ghosting)」と呼んでいるが、演劇における間テクスト性の研究は、小説におけるそれほど充実しているとは言い難い。今回は批評概念としての間テクスト性(および関連するパロディや翻案、諷刺や領有など)の演劇研究における応用の可能性を探ってみたい。
シンポジウムの冒頭に司会の岡本が上述した論点や概念についての簡単な解説を行い、それに続いてAlice Walkerの書簡体小説The Color Purple (1982年)とその映画版(1985年)、舞台ミュージカル版(2005年)そしてミュージカル映画版(2023年)を比較検討する。一つの作品としてのアイデンティティを保持しながらも、その内部に様々な差異を生じさせることによって自らを刷新していくThe Color Purpleをケーススタディーとして取り上げ、シンポジウムのテーマをより具体的に示したい。
(岡本 太助)
アメリカ演劇における間テクスト性のポリティクス――
アダプテーション、パスティーシュ、アプロプリエーション
貴志 雅之
あらゆるテクストは間テクスト的である。先行テクストとの関係性なくして単独で存在するテクストはないとするJulia Kristevaが60年代に提唱した「間テクスト性」の概念は、領域横断的に多様な学問領域で援用されている。アメリカ演劇の分野では、Drew EisenhauerとBrenda Murphy編Intertextuality in American Drama: Critical Essays on Eugene O’Neill, Susan Glaspell, Thornton Wilder, Arthur Miller and Other Playwrights (2013) がO’Neillを初めとする代表的劇作家を中心にアメリカ演劇作品における間テクスト性を多角的視座から論じた初の研究書として、アメリカ演劇の間テクスト性研究の一つの指針を提供している。
本発表では、上記研究書を参照軸としつつ、20世紀から21世紀に至るアメリカ演劇の特定の劇作家、Eugene O’Neill、Thornton Wilder、Arthur Miller、Tennessee Williams、Tony Kushner、Ayad Akhtarを取り上げ、作品における間テクスト性について、歴史・文学テクストのアダプテーション、パスティーシュ、アプロプリエーションを中心に検討する。その検討結果と比較対照する形で、Suzan-Lori Parksを焦点化し、The America Play (1994)、Venus (1996)、100 Plays for the First Hundred Days (2018) 他を取り上げ、Parksの間テクスト的演劇作品創作の目的と戦略、その変化を分析する。最終的に、アメリカ演劇における間テクスト性のポリティクスを考える。
交差するラジオと舞台ミュージカル――Duffy’s TavernとGuys and Dolls
辻 佐保子
1950年に初演を迎えたGuys and Dollsは、いわゆる「黄金期」(The Golden Age) を代表するアメリカン・ミュージカルのひとつであり、当時席巻しつつあった理念としての「統合」(the integration) を「ミュージカル・コメディ」に接合させた作品として一般的に知られている。他方Scott McMillinは、本作を彩る楽曲が必ずしも「継ぎ目なき総体」の構築を志向する「統合」に即したものではないことを著書Musical as Drama (2005)で述べている。McMillin曰く、Guys and Dollsを代表する楽曲には、プロットの延長として挿入され進展を後押しするよりも展開を一時中断させ異なる時間秩序を差し挟むものがあり、その意味で「統合」とは言い難いこと、しかし中断や複数性こそがミュージカルの演劇形式としてのポテンシャルとしての現れであることを指摘している。
このように、Guys and Dollsは、アメリカン・ミュージカルの劇作法に対する論者の見解を示す指標として位置づけられてきたと言える。しかしこれまで、脚本家Abe BurrowsがGuys and Dollsについて述懐する際に、自身が1940年代に手がけたラジオ・コメディDuffy’s Tavernと引きつけていることにはさほど注意が払われてこなかった。Burrowsは自伝Honest, Abe (1980) にて、Guys and Dollsの人物描写の方法論はDuffy’s Tavernにインスパイアされていることを述べている。それだけでなく、瞬発的なギャグで構成され、継起的な時間秩序に基づいて構成されるプロットを退けるというラジオ・コメディの劇作法を、Guys and Dollsにもある程度持ち込もうとしたと解釈できる記述をBurrowsは自伝で残している。
では、ラジオ制作を通じて培われたテクニックは、いかにGuys and Dollsの作劇へ取り込まれているのか。本発表では、Duffy’s Tavernの劇作法をラジオという聴覚メディウムとの関係から明らかにした上で、Guys and DollsにおいてはNicely-Nicely Johnsonを巡る表象にラジオ経験が接続されていることを論じ、ミュージカル研究の文脈のみでは捉えきれないものとしてGuys and Dollsのドラマトゥルギーを分節化したい。
沈黙の美学――Don DeLilloとSamuel Beckett
平川 和
“Beckett is the last writer to shape the way we think and see. After him, the major work involves midair explosions and crumbled buildings”――20世紀を代表する劇作家Samuel Beckettについて、このように述懐するのは、Don DeLilloの小説Mao II(1991)に登場するカリスマ隠遁作家のBill Grayである。このBillの言葉は、DeLillo本人のBeckett観を代弁していると言えるだろう。というのもDeLilloは、とあるインタヴューの中で“He [Beckett] is the last writer whose work extends into the world so that (as with Kafka before him) we can see or hear something and identify it as an expression of Beckett beyond the book or stage”と述べ、Beckettが人々の思考やものの見方に与えた多大な影響を認めているのだ。
このようにDeLilloがBeckettから少なからぬ影響を受けていることは明らかなのだが、具体的にはどのような影響関係があるのだろうか。DeLilloが上記インタヴューの中でBeckettのことを“master of language”とも称していることから、まずはBeckettの言語観やそれに基づいた表現技法に焦点を当てることが、両者の影響関係を探るうえで大きな手掛かりとなるだろう。若き日のBeckettは、1937年に友人のAxel Kaunに宛てた手紙の中で「言語の背後にあるものに到達するためには、言語を削ぎ落していかなければならない」という趣旨の発言をしている。その言葉どおり、キャリア後期になればなるほどBeckettの作品は分量的に短くなっていき、極端なまでに文体が簡素化していく。Peter Boxallは、このようなBeckettの晩年のスタイルを“aesthetic silence”と称しているが、そのような美意識はDeLilloの後期作品にも通底するものがある。 1997年に800ページを超える大著Underworldを発表して以降、DeLilloは120ページ前後の小品を3作も発表しており、Beckettの後期作品よろしく、作品のスリム化が顕著である。最新作のThe Silence(2020)は、DeLillo史上もっとも短い116ページという小品になっており、Beckett劇さながらの不条理性や発話の断片性が見られる。そこで本発表では、Beckettとの間テクスト性を念頭に置きながらDeLilloの後期作品を読み解き、DeLillo流の「沈黙の美学」を探究してみたい。