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日本アメリカ演劇学会 第10回大会プログラム・参加申し込みフォーム

2021.07.29

日本アメリカ演劇学会 第10回大会プログラム

時:2021年8月28日(土)

会場:オンライン(Zoomを用いたリアルタイム開催)

※参加方法の詳細については、本プログラム末尾をご覧ください。

大会テーマ:アメリカ演劇と政治

8月28日(土) 午前の部:10:00~12:00 / 午後の部:13:00~17:00

午前の部:10:0012:00

開会の辞 会長 貴志 雅之

研究発表 

司会:中央大学 黒田 絵美子

1.舞台上の赤いキャンバス――Redが持つ二面性が描き出す演劇の可能性          

広島経済大学 森 瑞樹

   司会:奈良大学 古木 圭子

2.帝国主義とエコソフィアの相克――王権のドラマとしての『ジョーンズ皇帝』           

拓殖大学 大森 裕二

午後の部:13:0017:00

シンポジウム 13:00~16:00

シンポジウム: アメリカ演劇における「政治的なもの」

司会・パネリスト:大阪大学岡本 太助
パネリスト:大阪大学(院)西村 瑠里子
 京都府立大学後藤 篤
 大阪大学(名誉教授)貴志 雅之

総会     16:20~17:00

研究発表

司会:中央大学 黒田絵美子

1.舞台上の赤いキャンバス――Redが持つ二面性が描き出す演劇の可能性

広島経済大学 森 瑞樹

 2009年にロンドンで初演を迎えたJohn Logan の演劇作品Redは、その翌年にブロードウェイへと渡洋。そして同年のトニー賞演劇作品賞(Best Play)を獲得するに至る。タイトルが明示するように、その作品において赤色を好む抽象表現主義の画家Mark Rothko(1903-1970)が同作の主人公となり、彼のアトリエを舞台に、若きアシスタントKenと伝記的会話劇を織りなしてゆく。

 時と共に思想や芸術哲学の面においてもRothkoに近付き、成熟してゆくKen。そして阿吽の呼吸でRothkoとKenが、舞台上の巨大な一枚のキャンバスを躍動的に赤色で染めゆくシーンは本作のハイライトと呼ぶに相応しい。しかしながら、その後ふたりが備える赤色をはじめとする色彩感覚に隔たりがあることが明らかになってゆく。つまりこの時点から、ふたつの意識がひとつに融合したものとして舞台上に存在していたその単色のキャンバスは、突如多声的な絵画へと変貌する。さらに、そのキャンバスは観客それぞれの眼差しを、同様にそれぞれに反射させることだろう。

 この視座のもとに、本発表ではRedが持つ演劇の可能性を探ることにする。上演という現実を通じて形成される演劇空間が、いかに多声的なコンテクストを描き出すうえで有効な場となるのか、その端緒をRedに求めてみたい。同じ視覚芸術でありながら、その需要のされ方が異なる絵画と演劇。そのふたつが絶妙に交錯するRedは上記を思弁するための格好の素材となってくれるだろう。

司会:奈良大学 古木 圭子

2.帝国主義とエコソフィアの相克 ――王権のドラマとしての『ジョーンズ皇帝』

 拓殖大学 大森 裕二

 フレイザーによれば、原始社会における聖なる王は、社会全体の安寧と分かち難く結びついた存在とみなされ、老齢や病で衰えた王は、社会全体に悪影響が及ぶのを防ぐために、多くの場合、王位継承者によって殺害された。『オイディプス王』、『マクベス』、『ハムレット』等、先王の殺害に端を発する多くの王のドラマにも、古来の王権のメカニズムの反映が認められる。ヤン・コットがシェイクスピア歴史劇の中に発見した「巨大なメカニズム」も基本的には古来の王権のメカニズムと同質のものである。

 フレイザーの『呪術と王の発達』(1917年)を所有していたオニールは、このような古来の王権に関心を寄せていたに違いなく、『ジョーンズ皇帝』(1920年)はオニール流の王権のドラマとみなすことができる。強い呪術に護られた皇帝として島民に恐れられるブルータス・ジョーンズは、原始社会の王に似た聖なる地位を巧みに利用することで島民を支配・搾取している。ジョーンズが殺人罪で服役した経歴を持つ事実は、先王を殺害することによって王位に就く古来の王の(聖性とは表裏一体の)逸脱性をパロディ化したものと思われる。また、遠からず王位を奪われることを予期し、周到に逃亡計画を立てているジョーンズの態度は、古来、王権のメカニズムの最終段階で訪れる運命を前提としている。

 古来の王を髣髴させる諸点を持つブルータス・ジョーンズは、しかし、超歴史的人物として描かれているわけではない。ナポレオン風の衣装を着たジョーンズは、フランス革命後の混乱期に社会的階梯を駆け上がったナポレオン同様に、短期間で皇帝の地位に登りつめた。舞台となるカリブ海の島のモデルと思われるサン=ドマング(現ハイチ)を植民地として回復しようとしたのもナポレオンである。無論、皇帝による収奪の免責性を主張するジョーンズの有名な台詞が帝国主義的であることは言うまでもない。ジョーンズには、ナポレオンを矮小化した帝国主義者の一面があるとみなすことができる。

 『ジョーンズ皇帝』において前景化されるのは、王権のメカニズムにおける最終段階、すなわち王退位の局面であるが、コットやカントロウィッツが『リチャード二世』について指摘した通り、王権のドラマは退位という最終局面において「残酷かつ悲劇的な笑劇」に限りなく接近する。『ジョーンズ皇帝』も同様である。ジョーンズがナポレオン風の皇帝の衣装を一枚ずつ脱ぎ捨てていく一連の場面は、古代ローマのカーニバルにおいて道化や奴隷によって演じられたモック・キングを髣髴させる見事な笑劇とみなすことができるからである。

 本報告では、上記の視点から『ジョーンズ皇帝』を王権のドラマとして論じつつ、本作品にみられる帝国主義と、ジョーンズの圧政に反旗を翻す島民達の文化の根底にあるエコソフィアとの相克を明らかにする。

シンポジウム

アメリカ演劇における「政治的なもの」

司会・パネリスト:大阪大学岡本 太助
パネリスト:大阪大学(院)西村 瑠里子
 京都府立大学後藤 篤
 大阪大学(名誉教授)貴志 雅之

 貴志雅之著『アメリカ演劇、劇作家たちのポリティクス――他者との遭遇とその行方』の冒頭には、劇作家Tony Kushnerの「すべての演劇は政治的である」という発言が引用されている。そしてこの場合の「ポリティクス」は、演劇あるいは劇作家と「アメリカ社会の支配的パラダイムとの対抗/共犯関係」において作用する様々な力学の謂いにほかならない。英語で今日politicsと呼ばれる概念が西欧で言葉として用いられるようになるのは、16世紀の宗教改革の頃であり、教会から主権国家へと社会秩序の中心が世俗化し、また植民地の拡大や投機、保険の発明といった経済のグローバル化がその端緒につく時代のことである。それはまた、人々が既存の社会秩序や価値体系からの自由を希求し、その願望を新たに「発見」された世界のスクリーンへと投影するようになった時代でもある。すなわちアメリカとは「何もない空間」に一から社会秩序を構築していくプロジェクトであり、それはまずなによりも「制度空間」として創出されたのである(西谷修『アメリカ 異形の制度空間』)。換言すれば、政治とは近代の産物であり、制度空間としてのアメリカはその典型的実例である。さらに、「何もない空間」に願望を投影して秩序ある現実を創り出すという説明は、そのまま演劇にも当てはまるのであり、Kushnerの発言を少し変えて繰り返し、「すべてのアメリカ演劇は政治的である」と言ってもあながち的外れではないだろう。

 その一方で、Casper H. Nannes, Politics in the American Drama(1960)やNelson Pressley, American Playwriting and the Anti-Political Prejudice(2014)のように、新旧問わず、アメリカ演劇の「非政治性」を指摘する研究も多くなされている。特定の利害をめぐる対立関係とそこに作用する力学を説明するために「政治」という語を用いるのはよいとしても、異なる研究において問題とされている「政治」が同じものを指しているという保証はないし、メタ的に言えば、「政治」をどう定義するかをめぐる政治的対立もまた無視できないだろう。つまり「政治的/非政治的」という線引きはいかなる基準でなされるのかが問題なのである。

 Chantal Mouffeは、”by ‘the political’ I mean the dimension of antagonism which I take to be constitutive of human societies, while by ‘politics’ I mean the set of practices and institutions through which an order is created, organizing human coexistence in the context of conflictuality provided by the political”(On the Political)と述べ、政治と政治的なものを区別している。つまり利害の対立を軸にドラマが構成され、そこに政治的なものが生じ、そうした対立を解消するための制度として政治があるということだ。本シンポジウムでは、まずパネリストそれぞれが異なる視点から、具体的な事例に即してアメリカ演劇における「政治的なもの」を考察し、議論すべきトピックを提示する。後半では、オーディエンスもまじえたディスカッションを通して、今後のアメリカ演劇と「政治的なもの」をめぐる研究の展望を示したい。

バイオポリティクスとEdward Albee

――1950年代から世紀転換期アメリカにおける経済、性、生

西村 瑠里子

 2019年中国武漢市で検出された新型コロナウイルス感染症は2021年においても変異を繰り返し、猛威を振るい続けている。このパンデミックのなかで、人の生や社会のあり方をめぐり、ミシェル・フーコーによって提言された「バイオポリティクス」が着目されている。フーコーの語る、歴史上の感染症対策に関連した、特定の人々を排除する権力と生き延びさせる権力が指摘され、多くの研究者ないし哲学者がコロナ禍にある世界の状況とフーコーのバイオポリティクスを重ね合わせる。

 一方で、米本昌平が『バイオポリティクス――人体を管理するとはどういうことか』で指摘するように、この言葉の示す内容は、フーコーの示した人の生物学的な生にまつわる権力論、管理策にとどまらず、女性の身体における政治的支配、生物学的資源に関する政治学、先端医療や生物技術の政策論まで、多岐にわたる。また、ジョルジョ・アガンベンは、著書『ホモ・サケル――主権力と剝き出しの生』において、歴史上の人の生のあり方をめぐり更なる分析をおこない、ビオス、ゾーエーといった概念を提示する。

 本発表は、バイオポリティクスの観点からEdward Albeeの描いたアメリカ社会における人の生のあり方を再考する。初期作The American Dream、後期作Three Tall Womenの2作品を、身体の管理や商品化、性をめぐる描写に着目し、Albee劇の「政治的なもの」をその内容の変化も踏まえて指摘する。これらの作品を主軸としつつ、初期、中期、後期の作品に適宜言及し、俯瞰的に見渡し、Albeeがその劇作を試みた、1950年代から2000年代初頭までのアメリカという国家、社会のポリティクスを、そこに所属する人々の身体や生(あるいは性)に着目し、読み解くことを試みる。

映画化しきれない残余

――Edward AlbeeLolitaにおける翻案のポリティクス

後藤 篤

 かつてLionel TrillingはVladimir NabokovのLolita(1955)を評して、大西洋の両岸で猥褻文学の誹りを受けたこの問題作をロマンチックな恋愛物語として擁護した。同様の作品解釈に基づくStanley Kubrick監督の映画版(1962)ではフィルム・ノワール風に改変された物語のなかで、よこしまな少女愛を抱く主人公がファム・ファタールの誘惑に屈した犠牲者であるかのように描かれている。そこで半ば黙認された十代のヒロインの性的搾取が批評の俎上に載せられるようになったのは、1977年のNabokovの死後、その文学芸術の倫理性が注目を集め始めた1980年代に入ってからのことである。

 Lolitaと同じく挑発的な主題を扱ったThe Goat, or Who Is Sylvia?(2002)から遡ること約20年前、Humbert Humbertの情欲を露骨なまでに観客に見せつけたEdward Albeeのドラマツルギーは、こうした原作の受容史に即して理解する必要があるだろう。企画段階においてはNabokovの遺族から猛反発を受け、多額の予算が投じられたブロードウェイ公演もわずか2週間足らずで打ち切りとなったLolita(1981)を、Albeeの劇作家としてのキャリアに色濃く染み付いた汚点と呼ぶ声は少なくない。だが、そうした先行研究の議論は往々にして、ポルノグラフィ転じて後期モダニズム文学の正典としての地位を獲得したNabokovの小説との比較に拘泥するあまり、Albeeの脚本がTrilling流のリベラルな想像力を反映したKubrickの映画に対する批判的な応答であった可能性を見落としてきたのではないだろうか。

 本発表ではNabokov研究者のあいだでも長らく等閑視されてきた舞台版Lolitaを再評価すべく、Kubrickが検閲への配慮から捨象した原作のジェンダー・ポリティクスとの関連でAlbeeの翻案戦略を考察する。本作の上演中止を訴えたフェミニズム団体(Women Against Pornography, WAP)の主張にも目を向けながら、Nabokovの美学テクストが舞台化を通じて新たな政治的コンテクストを獲得した過程を明らかにしたい。

“Es cómo una telenovela”

――Sarah Ruhlと現代アメリカ女性劇作家の「家政学」

岡本 太助

 Christopher BigsbyがTwenty-First Century American Playwrightsで取り上げた劇作家の過半数が女性である一方で、Leslie Atkins DurhamがWomen’s Voices on American Stages in the Early Twenty-First Centuryで指摘するように、21世紀初頭のアメリカ演劇は依然として男性中心のものであり、女性劇作家は興行的にも批評的にも周縁に置かれていた。Durhamの著書の副題がSarah Ruhl and Her Contemporariesとなっていることからもうかがえるように、現代アメリカ演劇の置かれた状況とそこに生じている政治的課題を論じるにあたって、劇作家Sarah Ruhlのもたらしたパラダイム転換を議論の出発点とすることはきわめて有効であると考えられる。家庭生活の空間を、Elinor Fuchsが「ジェンダースケープ」と呼ぶような、性差によって分割された空間として演劇的に再構成するRuhlは、Susan GlaspellやMaria Irene Fornesの系譜に連なる劇作家であり、その劇作は父権的、異性愛主義的そして中産階級的価値に基づいて構造化された「家族」を異化するのみならず、そうした「家族」のイデオロギーを再生産する文化装置としての「演劇」の政治的無意識をもその批判の射程におさめるものである。

 Ruhlの形而上学コメディーThe Clean House(2004)では、上述のような「家族」にまつわる常識が覆され、ジェンダー・階級・経済力・エスニシティなどによって引かれた境界線は侵犯され、「クリーン」に整えられた家庭空間の秩序は失われる。さらに第二幕では舞台上の複数の場面を隔てる空間的境界や、悲劇と喜劇というジャンルの境界線までもが消失し、アメリカ的家族劇とそこで取り沙汰されるシリアスな問題の数々は、”telenovela” すなわちソープオペラ、あるいはパンチラインのないジョークとしての相貌をあらわにする。本発表では、家庭と演劇という二つの制度の管理運営を脱構築するRuhlのドラマツルギーの特色を、「家政学(oeconomica)」あるいは意訳すれば「家の秩序維持」という視点で検討し、21世紀アメリカ演劇の提示する家庭という空間におけるジェンダーをめぐる力学について考察し、またアメリカ演劇における「女性の声」という政治的テーマに関する新たな論点の提示を試みる。

Lynn NottageSweatが映すラストベルト都市レディングのバーで

――ポジショナリティとインターセクショナリティ

貴志 雅之

 2016年アメリカ大統領選をドナルド・トランプが制した。その背景には、経済不況に喘ぐラストベルトの労働者の鬱積した不満と不安、怒りの声が少なからずあった。彼らの多くは、NAFTA(北米自由貿易協定)やTPP(環太平洋パートナーシップ協定)の余波で雇用が失われていると感じ、国、州政府に苛立ちを覚えていた。そのかれらの前にアメリカ第一主義を掲げたトランプが登場する。「アメリカ・ファースト」、「メイク・アメリカ・グレート・アゲイン」を連呼し、「ラストベルト」を守るとして、TPPからの離脱とNAFTA見直しを公約する彼の姿が労働者たちの目にどう映ったかは想像に難くない。

 2017年、Lynn Nottageに2度目のピュリッツァー賞をもたらせたSweat(2015)は、2011年アメリカで最も貧しい都市と評されたラストベルトの都市、ペンシルヴァニア州レディングにあるバーを舞台にする。不況の波と給与カット、失業、工場閉鎖に直面していくスティール工場労働者たちを中心に、差別的人種意識と立場の違いの表面化による僚友関係の悪化が突発的暴力事件に至る顛末が描かれる。2008年の現在から2000年の事件の真相が明らかになる舞台展開は、ラストベルト都市で不況に見舞われた労働者の精神性の荒廃と同胞意識の亀裂をリアルに映し出す。

 登場人物の「真実らしさ」以上のリアルさは、Nottageが行ったレディング地域住民への広範なインタビューによる社会経済状況調査に基づく作品創作による。その意味でドキュドラマである本作のリアリティは一層強く観客のエンパシーを喚起する。

 本発表では、不況による雇用状況の悪化と工場閉鎖による労働者相互の人間関係と相互意識の変化に焦点を充て、彼らの問題をポジショナリティとインターセクショナリティをキーワードに分析し、ラストベルトの労働者の苦境と大統領選に象徴される政治権力のあり方を見る劇作家Nottageの劇作のポリティクスを考える。

<参加申込方法>

※参加ご希望の方は、こちらの申込フォーム(https://forms.gle/ZCWktoqeVw8Tg7M48)にご記入のうえご送信ください。

※事務局にてお申込内容を確認のうえ、大会用のZoomミーティングへのアクセス方法等をお知らせします。(大会5日前を目処に、お申し込み頂いたメールアドレスにアクセス方法の詳細をお送り致します。)

申込期限は大会1週間前の8月21日(土)とします。

期限を過ぎてのお申込みについては、対応できかねる場合がありますので、ご了承ください。

<参加費用>

※今大会はオンライン開催となりますので、参加は無料です。

※会員以外の方のご参加も歓迎いたします。

  ご不明な点がありましたら、学会事務局まで

  メール(事務局:nihon_america_engeki@yahoo.co.jp)でお問い合わせください。