2026.07.11
日本アメリカ演劇学会 第15回大会プログラム
2026年9月12日(土)・13日(日)
会場:静岡大学静岡キャンパス 人文社会科学部B棟301
住所 〒422-8017 静岡県静岡市駿河区大谷(おおや)836
URL(交通アクセス):https://www.shizuoka.ac.jp/access/
(※詳細については、プログラム最終ページ、および別添の道案内をご参照ください。)
大会テーマ:翻訳
第1日 9月12日(土) 受付 13:50~14:20 (会場 人文社会科学部B棟301)
研究発表14:30~17:30(第1発表14:30~15:20, 第2発表15:30~16:20, 第3発表16:30~17:20)
司会:関東学院大学 松本 美千代
1. アメリカの病とその症状を記録する――Suzan-Lori ParksのPlays for the Plague Year
近畿大学(非) 穴田 理枝
司会:愛知県立大学(名)鵜殿 えりか
2. Radio Golfにおける抵抗の歴史――August Wilsonの考える20世紀末のアフリカ系アメリカ人の歴史的・文化的立場
名古屋外国語大学 松岡 玄
3. 2ペニーと船――Gem of the Oceanにおける経済学と奴隷制の余波
青山学院大学 外岡 尚美
懇親会 19:00~21:00
第2日 9月13日(日)
シンポジウム 10:00~12:30(前半)/14:00~15:00(後半)
総会 15:15~16:15
シンポジウム:
翻訳――その限界と可能性
| 司会・パネリスト | 中央大学 | 黒田 絵美子 |
| パネリスト | 京都府立大学 | 後藤 篤 |
| パネリスト | 大阪大学 | 岡本 淳子 |
| パネリスト | 拓殖大学 | 大森 裕二 |
研究発表
司会:日本大学 松本 美千代
1. アメリカの病とその症状を記録する
――Suzan-Lori ParksのPlays for the Plague Year
近畿大学(非) 穴田 理枝
2019年の12月にはじまり、2020年から大々的に世界を襲ったコロナ禍は多くの死と教訓を残したが、アメリカにおいては社会的な状況を背景に、さらに多くの傷を残すことになった。アフリカ系アメリカ人女性作家、Suzan-Lori Parksは、コロナ禍の日常とアメリカ社会を揺るがした出来事を短い会話劇にまとめ、自作の音楽を盛り込みながらPlays for the Plague Year (2024)として発表した。Parksは、それまでの短い作品群365 Plays / 365 Days (2006)、100 Plays for the First Hundred Days (2018)の経験のもと、演劇の上演がすべて延期された当初からこの日々の作品を書き進めた。また、本作ではParks自身が作家役として出演し、その家族もまた登場人物として役者が演じる。本作は、コロナウイルス感染症に翻弄される家族の日常を軸に、約一年間の出来事をつなぎ合わせて構成されているのである。
劇中では、感染症に苦しむ家族の姿が何度も描かれるが、連日報じられるのは、アメリカの国の在り方そのものに警鐘を鳴らすような不条理な出来事である。ジョージ・フロイド事件後も続く人種差別的な暴力事件や政治的分断をはじめとする、アメリカの病を映し出す症状が次々と立ち現れる。その病状はアメリカが自ら掲げてきた人種の多様性、民主主義による統治、といった国の根幹を揺るがす重さである。さらにその後遺症については現在の状況に照らし合わせて議論できよう。
本発表では、Parksが記録したコロナ禍の経験とアメリカ社会の諸問題を検討し、 Plays for the Plague Yearをポスト・パンデミック期のアメリカを考察するテクストとして再評価する意義を明らかにしたい。
司会:愛知県立大学(名)鵜殿 えりか
2. Radio Golfにおける抵抗の歴史
――August Wilsonの考える20世紀末のアフリカ系アメリカ人の歴史的・文化的立場
名古屋外国語大学 松岡 玄
August Wilson (1945-2005)はピッツバーグを舞台にした10作からなる連作劇(通称20世紀サイクル)により、白人社会からの差別や搾取に対抗するアフリカ系アメリカ人の「戦士の魂」を多層的に描き出した。このテーマは1997年を舞台にした第10作目Radio Golf (2005)でも扱われており、本作は共同体とのつながりを再発見した主人公Harmondが、アフリカ系アメリカ人にとって精神的な拠り所であったAunt Esterの家の保全のために戦う決意をするまでを描く。
Wilsonは本作を20世紀サイクルの総括的作品と位置付けたものの、最も弱い作品だと評される。その理由の1つとして、Harmondが法に背いてまでAunt Esterの家を守ろうと決意する心理的過程が台詞によって十分に示されていない、ということが指摘されている。しかしその一方で、本作では白人からの抑圧に対するアフリカ系アメリカ人の抵抗の系譜を想起させる様々な要素が登場することは注目に値する。Harmondが事務所の壁に掛けるのは、市民的不服従の実践を通じて公民権運動を率いたMartin Luther King Jr. のポスターである。助けを求めてHarmondの事務所を訪れるAunt Esterの家の所有者Old Joeの語り口は、奴隷制時代に奴隷主に対して従順を装いながらその強権的支配に抵抗した黒人奴隷の Signifyin(g)という技法に即している。また、彼とHarmondとの血縁関係が明らかになることで、HarmondはAunt Esterに象徴される400年近いアフリカ系アメリカ人の歴史と接続される。さらに、職を求めてHarmondの事務所を訪れるSterlingは、20世紀サイクルの第7作Two Trains Running (1990)ではMalcom Xの思想を基盤としたブラック・パワー運動に共鳴していた人物であり、Radio GolfでもAunt Esterの家に象徴されるアフリカ系アメリカ人共同体の文化を擁護する。
本発表では、このようにRadio Golfにおけるアフリカ系アメリカ人の抵抗の歴史への参照を再検討することで、Wilsonが示唆する20世紀のアフリカ系アメリカ人の「戦士の魂」の諸相を分析する。そしてこの分析を通じてHarmondが闘いを決意する過程を歴史的文脈から再解釈し、Wilsonが20世紀末のアフリカ系アメリカ人の歴史的・文化的立場をどのように捉えていたのかを考察したい。
司会:愛知県立大学(名)鵜殿 えりか
3. 2ペニーと船――Gem of the Oceanにおける経済学と奴隷制の余波
青山学院大学 外岡 尚美
August WilsonのGem of the Ocean (2003)は、1903年を舞台に、産業化が進むピッツバーグにおいても続くアフリカ系アメリカ人の隷属状態を描く。Saidiya V. HartmanはScenes of Subjection(1997)において、奴隷解放後における〈自由〉の理念が提示するリベラルな個人性と、支配と規律を受ける身体化された黒人性との相剋を「重荷を負わされた個人性(burdened individuality)」と呼び、自由と責任・契約のもとで債務による隷属を余儀なくされたアフリカ系アメリカ人の歴史記録を詳細に跡付けた。Gem of the OceanのCitizen BarlowやGarret Brownが生きるのはそのような隷属状態であり、Citizenのけちな盗みや、またGarret Brownの死でさえも、工場労働者たちの抵抗と暴動を誘発するとしてもその状態を変容させることはない。
この状態での生存のシナリオは、経済的かつ情動的な、語の二重の意味での投資(investment)である。自己所有と資産所有への道程が18世紀以来の奴隷体験記や奴隷制を描く小説の重要な型であることはHouston A. Baker, Jr.らに指摘されている。シナリオとはDiana Taylorによれば意味形成のパラダイムであり、社会的ドラマを活性化するものだ。またLauren Berlantによれば、それは日常において徐々に進む危機的状況に意味付けや対処の枠組みを与えるものである。この劇でCaesar Wilksは型通りのシナリオに従い、自己所有と資産所有への道程を辿っているように見える。
自由と自己所有が資本の蓄積と密接に結びついているときに、この経済学的シナリオの外側に出ること、異なる生の様式を生み出すことは可能か。それはAugust Wilsonの一貫した問いである。Wilsonは物質的暴力を梃子にしてそれまでのシグニフィケーションを破壊する。そのような物質的暴力は、暴動やSollyの工場への放火と死を賭した自由への闘争にあるのではない。それはAunt Esterという異なる時間性に生きる/死ぬ存在や、奴隷譲渡証書の船と浮遊する2ペニー、さらに骨の街への旅という、あえてリアリズムの中に組み込まれた劇中劇のなかに現前し、そしてCitizen Barlowの生まれ変わり/再生という物語的意味の充溢を作り出す。しかしこの物語的意味の充溢が同時に遮蔽するものは喪失であり、失われた過去の命へとたどり着くことの不可能性、すなわち歴史の空無である。August Wilsonは歴史的暴力の痕跡を物語的意味の充溢に転化しながら、同時にその表象不可能性をリアリズムのなかで提示するのであり、その空無こそが異なる生存の様式を生み出す物質的暴力として発揮されるのである。
シンポジウム
翻訳——その限界と可能性
| 司会・パネリスト | 中央大学 | 黒田 絵美子 |
| パネリスト | 京都府立大学 | 後藤 篤 |
| パネリスト | 大阪大学 | 岡本 淳子 |
| パネリスト | 拓殖大学 | 大森 裕二 |
翻訳は原作の描き出す人物や世界をどこまで正確に伝え得るか? 本シンポジウムでは、戯曲の言語間翻訳の具体的な事例を中心に翻訳の限界と可能性についての分析を行っていく。さらに、異文化の継承という観点から翻訳を広義に捉え、翻訳という作業を通して伝え得るものと取り残されるものについて論じることとする。
翻訳は単にひとつの言語を他の言語に置き換える作業ではない。原作中に並んだ単語をひとつひとつ別の言語に置き換えたところで、翻訳作品は出来上がらない。近年、コンピューターによる自動翻訳の技術が進んではきたものの、瞬時に翻訳された内容がしばしば不可思議で意味不明な結果となってしまうことは多くの人が経験していることだろう。なぜこのような現象が起こるかと言えば、言語は置き換え可能な記号ではなく、それを運用する国やコミュニティーないしは個人が抱える時代的、文化的背景を担うからである。Jacques Derrida(1930-2004)は、そもそも言語的表現体は「異なった国語に翻訳ないし移搬されようのないもの」であるとしている。本シンポジウムでは、そのように「翻訳が取り落としてゆくもの」に注目しつつ、不可能に近い伝達方法である翻訳の持つ可能性についても掘り下げたい。
例えば、motherという単語を「かあさん」と訳すか「母上」とするか、「ママ」、または「かあちゃん」にするかによって、作品全体の雰囲気がまったく違ってしまう。登場人物のキャラクターについても同様である。しかし、翻訳者は「かあさん」なのか「かあちゃん」なのかを分かっている場合が多い。この motherは絶対に「かあさん」であって「かあちゃん」ではあり得ないと分かっているのだ。つまり、翻訳という作業には言語の置き換えに留まらない、空気感の翻訳とでもいうような領域の仕事が伴うのだ。これが上手くいった場合には、Derridaの言う「翻訳が取り落としてゆくもの」を少し拾い上げることに成功したと言えるであろう。日本語に訳す場合、「かあさん」か「母さん」か、表記(エクリチュール)の違いも発生する。
一方、読者や観客といった翻訳作品を味わう側も異なる時代的、文化的背景を持つ。したがって、翻訳作品は原作とは違い、その時代に合った言語表現を用いる必要に迫られる場合も多々ある。
原作の持つ世界観を伝えるだけでも「手つかずに残るもの」(Benjamin)や「取り落としてゆくもの」(Derrida)があるのに、受け手への配慮もしなければならないのが翻訳者に課せられた使命である。読者や観客が「原作はどうなっているのか?」という違和感を抱かずに味わうことができれば翻訳者の存在は意識されないが、ひとたび違和感を与える部分が発見されると翻訳者の存在が際立ち、責任を問われる。翻訳とは実に因果な作業である。それでいて、原作の持つ世界観が他言語によって読者や観客に上手く伝わり、言語や文化の壁を越えて人々に感動を与えることが出来るのも翻訳という作業のおかげである。
本シンポジウムでは、 戯曲の翻訳(ロシア語⇒英語、スペイン語⇒英語/日本語、英語⇒日本語)についての分析を行う発表、そして、Sam Shepard作品におけるアメリカ先住民族文化の記憶の継承をひとつの翻訳の形として捉えた発表を行い、パネリスト間およびフロアとの意見交換をはかることとする。
(黒田 絵美子)
誤訳の亡霊
——Vladimir NabokovのNikolai Gogolにおける翻訳のアレゴリー
後藤 篤
1940年のアメリカ移住を機に英語作家に転身を果たしたVladimir Nabokov(1899-1977)は、代表作Lolita(1955)のベストセラー化によって1950年代末に経済的な自由を手にするまで、作家業のかたわら大学で教鞭を執ることで糊口をしのいだ。1948年に着任したコーネル大学の教壇に立つ彼の姿は、その死後に刊行されたLectures on Literature(1980)やLectures on Russian Literature(1981)から窺い知ることができる。
ヨーロッパ文学やロシア文学を講じるにあたり、Nabokovは既存の英語翻訳の不備をあげつらうことを常とした。例えばGustave Flaubert(1821-1880)のMadame Bovary (1856)を取り上げた講義において、幼少期よりフランス語にも通じていた作家教師は、1886年に出版されたEleanor Marx(1855-1898)の訳業を文化史的な細部への配慮を欠いた悪行として糾弾することに余念がない。
のちにAlexander Pushkin(1799-1837)作Eugene Onegin訳注(1965)に結実するNabokov特有の直訳主義の萌芽は、1940年代前半にウェルズリー大学で行われた文学講義にもとづく評伝Nikolai Gogol(1944)のうちにも認められるだろう。同書の第2章 “The Government Specter” を中心的に取り上げる本発表の目的は、Nikolai Gogol(1809-1852)のRevizor(The Government Inspector, 1836)の読解にみるNabokovの翻訳観を考察することにある。
Gogol一流の取り違えの喜劇を論じるなかで、Nabokovはロシア文学の英訳を数多く手掛けたイギリスの翻訳者Constance Garnett(1861-1946)の仕事を目の敵にしている。そうした批判的な態度を渡米直後にスタンフォード大学で行われた演劇講義、そして同時期に発表されたエッセイ “The Art of Translation”(1941)や、Roman Jakobson(1896-1982)の “On Linguistic Aspects of Translation” と同じく論集On Translation(1959)に収録された “The Servile Path” などの翻訳論との関連において見つめなおすことによって、Gogolの戯曲がNabokovにとって翻訳のアレゴリーとなりえた可能性を論じてみたい。
スペイン語の戯曲に立ちはだかる翻訳の壁
——人称による人間関係・ジェンダー・地域性をいかに翻訳するか
岡本 淳子
Walter Benjamin(1892-1940)は翻訳理論をめぐる「忠実」と「自由」という二つの基本概念に内在する二律背反について省察している。そして、「翻訳がその国の言葉で書かれた原作であるかのように読めるというのは、実は翻訳に対する最高の賛辞とはいえない」としている。Wilhelm von Humboldt(1767-1835)も翻訳において第一に要請されるのは「忠実」であると述べている。発表者もGeorge Steiner(1929-2020)の言う「積極的な過剰翻訳」は避けるべきと考える。しかしながら、スペイン語、英語、日本語という言語構造が異なる言語のあいだでは、Scott L. Montgomery(1951-)が言うように、「徹底した〈忠実なる仲介者〉は不可能」であろう。「翻訳者には解釈の創造と訳語の創造とが任されているのであり、この事実を考えれば、自由も責任も大きいことがわかる」という平子義雄の言に同意せざるを得ない。
戯曲の場合、登場人物の背負っている歴史・文化・社会がその日常語に反映されているため、それらの要素を理解しながら異言語に翻訳しなければならない。また、登場人物の年齢、性別、社会階層などによっても使用する日常語は異なるであろうし、対話の場合は人間関係によっても言葉遣いが変わる。
本発表ではスペイン語で書かれた戯曲であるがゆえの翻訳不可能な事柄について考察する。まずはスペイン語において敬語にあたる人称Usted(あなた)と近しい間柄で使われるTú(君)の訳し方である。英語の場合はどちらもYouとなり、スペイン語が持つ相手との関係性は消えてしまう。日本語では訳し分けはできるものの選択肢が多すぎて翻訳者は苦労する。二つ目はスペイン語では名詞が文法上の性を持ち、それに形容詞が呼応することによる翻訳不能である。トランスジェンダーの3人の若者が主人公のPaloma Pedrero(1957-)作Transformación(2020)では、女子であった昔を語る時には形容詞が女性形、現在のことを語る時には男性形になる。そのジェンダーの変化を英語で表すことはできない。日本語に翻訳する場合はいわゆる女性言葉と男性言葉を当てるべきなのか。三つ目はスペインのスペイン語と中南米のスペイン語の違いをどう表すかである。アメリカ演劇で、南部の方言やアフリカン・アメリカンの英語をどのように日本語に翻訳すべきかという問題とも関係する。
翻訳戯曲『マスタークラス』の上演
——マリア・カラスはいかに翻訳され得るか
黒田 絵美子
Terrence McNallyのMaster Class(1995)の日本における上演は、1996年、1999年と2025年に行われ、主演した黒柳徹子と望海風斗はいずれも読売演劇大賞最優秀女優賞と大賞を受賞した。『マスタークラス』上演に際して翻訳者として体験したさまざまな具体的事象を紹介し分析することで、翻訳の限界と可能性を論ずる本シンポジウムの主旨に適う論点を抽出していきたい。
本作品はMaria CallasやAristotle Onasisという実在の人物を題材にした戯曲であるとともに、『夢遊病の女』(La Sonnambula, 1831)、『トスカ』(Tosca, 1900)、『マクベス』(Macbeth, 1847)という三つのオペラ作品のアリアの歌唱指導風景を描いた作品である。したがって、観客がこれら実在の人物やオペラ作品を知っているか否かによって作品全体への理解の度合いも違ってくる。しかし、ブロードウェイの観客と日本の観客とでは、また、初演当時の観客と現代の観客とでは下地となる情報の認知度も異なる。言語表現によって伝えきれない情報や主人公の心情を翻訳者のみならず演出家、俳優、舞台製作者らがどのように理解し、補完して描出したか、観客は作品をどう受け止めたかについて、具体的な場面をもとに紹介する。
Walter Benjamin(1892-1940)は、「言語一般および人間の言語について」(“On Language as Such and on the Language of Man,” 1916)というエッセイの中で、「人間の言語的本質とは、人間が事物を名づけることを謂う」と定義づけ、「名において人間の精神的本質は自己を神に伝達する」としている。「マリア・カラス」という名前には、彼女の音楽に対する思想やオナシスという非情な男への執着など、さまざまな付帯的意味がこめられており、『マスタークラス』は「マリア・カラス」という人物をいかに翻訳するかがテーマになっている。したがって、単なる言語間翻訳という観点にとどまらず、「マリア・カラス」という表象がいかにして時代と文化の壁を越え得るかという視点からも作品分析を行う。
沈黙の言葉を紡ぐ
——Sam Shepard 作品における文化的異種混交性
大森 裕二
Walter Benjamin(1892-1940)は “The Task of the Translator” において翻訳を原作の「死後生」(afterlife)、すなわち変容を伴う存続と定義する。そしてBella Brodzki は、BenjaminやJacques Derrida(1930-2004)の翻訳論に依拠しながら、翻訳とは「死んだもの、消滅し、忘れられ、埋葬され、あるいは抑圧されたものが時空を超えて他の文脈に伝えられる(従って新たに生まれる)様式」であり、「異世代・異文化間の交流の様式、記憶継承の様式」であると論じている。
こうした広義の翻訳観を踏まえ、本発表はSam Shepard(1943-2017)の作品群に度々登場する飛行機のモチーフに注目しつつ、アメリカ先住民神話が巧みに織り込まれた Shepard 作品の文化的異種混交性について検証する。周知の通り、Shepardの父親は爆撃機パイロットとして第二次世界大戦を戦い、退役後は奨学金を得て南米コロンビアに短期留学したのち、カリフォルニアでスペイン語教員となるものの、しばらくして問題飲酒騒動を起こして退職、その後、離婚を経てアメリカ南西部を放浪、晩年はニュー・メキシコ州に独居した。ShepardがGarcia Lorca(1898-1936)やラテン・アメリカ文学に関心を持つようになったのは、父親の影響である。あるインタヴューでShepardはメキシコへの愛着の理由を「先住民文化が色濃く残っているから」と答え、「アメリカはメキシコのようであるべきだった」と発言しているが、これには Shepardの父方の祖母がイロコイ族出身の女性だった事実も関係しているに違いない。こうした事情を勘案すれば、飛行機のモチーフや先住民神話を作品内で活用することは、Shepardにとって血と出自に関わる個人的な異世代・異文化探求と記憶継承の作業であることが分かる。 上記の観点から、本発表では初期一幕劇 Icarus’s Mother(1965)、Shepardが脚本を担当した Michelangelo Antonioni(1912-2007)監督作品 Zabriskie Point(1970)等を扱う予定である。
<大会参加に関して>
第15回大会に参加ご希望の方は、8月21日までに下記のURL もしくはQRコードからお申し込みください。
※今年度大会に大会参加費は発生いたしません。
※ホテルの斡旋はおこなっておりません。ご宿泊される場合は各自でホテルをご予約ください。
申し込みURL: https://forms.gle/KxQsH9MVb4qCXPWG8
QRコード:

※会員以外の方の一般聴講につきましては、事務局までお問合せください。
<懇親会に関して>
懇親会に参加ご希望の方は、8月21日までに下記のURL もしくはQRコードからお申し込みのうえ、9月4日までに同封の「振込用紙(懇親会費)」にて会費をお振り込みください。期限を過ぎた場合はご参加いただけない可能性がありますので、ご了承ください。
会場:居酒屋いっせん 静岡駅店
会場URL:https://shizuoka-004.gorp.jp/
会場アクセス:静岡鉄道静岡清水線 新静岡駅 徒歩7分
JR 静岡駅 徒歩7分
一般会費:5,500円
学生会費:3,000円
※領収書が必要な方は、「振込用紙(懇親会費)」の通信欄に「領収書希望」と明記ください。
※申し込み後の変更や、その他ご不明な点がございましたら事務局までご連絡ください。
申し込みURL: https://forms.gle/zrNbY7aWWJmuzsJV8
QRコード:

<年会費に関して>
「振込用(年会費)」にて2026年度年会費(一般:6,000円/学生:4,000円)をお振り込みください。本学会は皆様からの年会費によって運営されています。お早めのお振込みをよろしくお願いいたします。
※会費は当該年度を明記願います(今年度分は2026年度)。大会当日に会場での会費納入はできません。
※領収書が必要な方は、「振込用紙(年会費)」の通信欄に「領収書希望」と明記ください。
※住所等に変更が生じた場合は、通信欄もしくは事務局へのメールにてお知らせください。
<振込用紙を紛失した場合>
各種振込用紙を紛失された場合は、以下の口座をご参照ください。
振込先口座:郵便振替口座 00990-8-269899
加入者名:日本アメリカ演劇学会
<会場までのアクセス>
会場:静岡大学静岡キャンパス 人文社会科学部B棟301
交通アクセス:
[バスをご利用の場合]
JR静岡駅北口のしずてつジャストラインバス8番乗り場から、美和大谷線「静岡大学」行き、「東大谷」(静岡大学経由)行き、「ふじのくに地球環境史ミュージアム」(静岡大学経由)行きに乗車し、「静岡大学」又は「静大片山」で下車(乗車時間約20~25分程度)。
※次ページのQRコードからアクセスできる時刻表をご確認いただき、「学」と表示されている便をご利用ください。それ以外の便は大学最寄りのバス停に停車しないため、ご注意ください。
※交通系ICカードをご利用いただけます。
※いずれのバス停からも会場までは徒歩10分程度ですが、「静岡大学」停留所からのルートのほうが木陰が多く、比較的歩きやすいとのことです。
※バス停から会場までの徒歩ルートについては、最下部の案内図をご参照ください。
[タクシーをご利用の場合]
JR静岡駅よりタクシーで約25~30分程度。
※バス停から会場までの道のりには坂が多いため、可能であればお誘いあわせの上、タクシーのご利用をお勧めいたします。
※タクシーは静岡駅北口・南口のいずれからも容易に乗車できます。また、駅周辺ではタクシーGOも利用可能です。
※料金の目安は1500円~2000円程度です。4名で乗車した場合、1名あたりの負担額は500円程度となります。
※タクシーは事前の手続きなく正門から入構でき、会場建物前まで乗り入れることができます。
キャンパス案内のURL:https://www.shizuoka.ac.jp/access/
キャンパス案内のQRコード:

バス時刻表のQRコード:

<2日目の昼食について>
大学周辺には飲食店が少ないため、可能であれば静岡駅周辺で駅弁やコンビニ弁当等をご購入のうえ、ご来場いただきますようお願いいたします。 なお、「静大片山」停留所付近にはファミリーマートがあり、また会場から徒歩15~20分圏内にはラーメン店や洋食店などの飲食店が点在しています。
<バス停から会場への行き方>