|
第1日 6月25日(土)
研究発表
司会 静岡県立大学 有泉 学宙
1.ジェンダーが生まれる場所 ― Fefu and Her Friendsの「女」たち
大阪外国語大学(院) 石田 愛
Maria Irene FornesのFefu and Her Friends(1977)は、1935年のニューイングランドを舞台に、女性運動に携わるFefuとその友人の姿を描いている。多くのフェミニスト批評家が、この作品を女性演劇のキャノンとしている。
しかし、女性だけが舞台を占拠するこの劇を「フェミニスト劇」と前提し、Fefuたちの苦しみを家父長制の抑圧とだけ捉えるのは一枚岩的である。「フェミニスト的」といえるのは、Fefuの友人たちで、Fefuは彼女たちから逸脱した存在である。「家父長的な抑圧」は言語化されておらず、作品はむしろそういった二項対立的なジェンダーが構築されていない状態を示しているのではないか。
本発表では、 抑圧する家父長制を前提として読むのではなく、 作品をジェンダーという概念が生まれる闘争的な場であると捉える。
2.Maria Irene Fornes ― MudとThe Conduct of Lifeにみるジェンダー、階級、権力
法政大学(非常勤) 清水 純子
1980年代のフォルネス劇に共通して見られる特徴は、ジェンダー、階級、権力において、社会的に弱い立場に置かれた女性が搾取される物語を描いている点である。ヒロインの女性は、知識を得たいという強烈な向学心、より人間らしい文化的生活への渇望にもかかわらず、無知と貧困ゆえに、衣食住すらまともに充足されない、動物レベルの、社会の底辺であえぐ、惨めな現実の生活から抜け出すことができない。ヒロインの活動領域は、主として家庭であり、彼女は、労働力として、性的欲求の対象物として、まわりの男たちから搾取され、暴力をふるわれているにもかかわらず、ヒロインは、自分の置かれた状況から自力では抜け出すことができない。Mud (1983)とThe Conduct of Life (1985)の2作品の中で、ジェンダー、階級、権力がどのように扱われているかを述べ、この問題に関するフォルネス劇の特質と主張を探る。
3.Abingdon Square――姦通の顛末
早稲田大学(非常勤)谷 佐保子
1980年代にオービー賞を受賞したMarine Irene Fornesの、Abingdon Square (1987)とSarita (1984)は、いずれも、10代前半から20代前半までの主人公の結婚、不貞、妊娠、破局の一連の出来事を、暗転をはさんだ短いシーンで追っている。自分にとって救世主である夫を裏切り、自己破滅を迎え、狂気に走っていくヒロインの姿にも共通点がある。しかしながら、この二つの作品の最終場面は対照的である。裏切った恋人を刺し殺し、精神病院に収容されたSaritaに比べると、心臓発作で倒れた夫との愛を再確認し、「死ぬな」と繰り返すMarionは、結局、男性からの解放が得られず、家庭生活における”obligation”に屈したかのように思われる。「自分のなかにあるあいまいさをなんとか克服したい」とする彼女の意志は閉ざされてしまったのであろうか。さまざまな解釈が可能であるとされるAbingdon Squareの結末を、Sarita以外にも、「姦通」を扱った他の劇作家の作品と比較検討することで考察していきたい。
第2日 6月26日(日)
シンポジウム “Fornes: Gender/Sexuality and Theatricality”
司会・パネリスト 中央大学 黒田 絵美子
パネリスト 大阪外国語大学(院) 岡本 太助
お茶の水女子大学 戸谷 陽子
大阪外国語大学 貴志 雅之
代表作Fefu and Her Friends (1977),The Danube (1982), Mud (1983), The Conduct of Life (1985)を中心に議論を進めていく。
フォルネスを論じる際の共通認識として抑えておくべき要素として、彼女の描くsexualityやgender、登場人物たちの用いる言語、映画的手法とも評される時間、空間、プロットの扱い方、さらには、フォルネス自身の作品群の中でこれらの作品が果たす役割、先輩、後輩劇作家たちとの影響関係などがあげられる。これらの要素のいずれかについてパネリストの分析・見解を出来うる限り具体的に提示した上で、午前中はパネリストの間で、午後はフロアも交えてディスカッションを進めていきたい。
パネリストの中で岡本氏は、Fefuから80年代作品にわたって繰り返し用いられるモチーフを概観しつつ、特に「性」「言語」「暴力」といった身体・主体性に関わるテーマに着目し、主体がいかにして金銭のやり取りに象徴されるような所有/被所有のコンテクストに取り込まれながらも、一方で演劇的表現によってパフォーマティヴに開放されるのか(あるいはされないのか)を論じる。
戸谷氏は、フォルネスがFefuその他の作品の舞台を1930年代としている点に注目する。フロイトにより、ジェンダーやセクシュアリティが言語によって分節化され、明確に定義されて配備されるようになる以前という時代設定は、フォルネスが、フロイト流に定義されえないセクシュアリティ、すなわち分節化されずリミナルな状態の、いわばレズビアン連続体的なセクシュアリティに可能性をみているのではないか、という仮定のもと、登場人物の女性たちと彼女らの相互の関係を分析する。
黒田は、おもに劇作手法に着目してgenderの枠に閉じ込められてそれぞれにもがき苦しむ登場人物たちの描かれ方、ときとして滑稽にさえ映るごく単純な話法や場面の提示を分析していく。
貴志氏は、暴力(銃による殺人)、幽閉、狂気、身体をキーコンセプトに、FefuとThe ‘Mud’ Plays と呼ばれる上記作品群が持つ観客の感情移入を阻む諸要素・デバイスを考察。Genderを巡る観客意識/パラダイムの攪乱を図るフォルネスの演劇戦略(theatricality)を検証する。(黒田絵美子)
※当初パネリストとして予定されていた貴志雅之は近親の不幸のため、シンポジウムには出席できませんでした。